彷徨える人形 ①
vol.Ⅰ
路地裏のゴミ箱に人形が捨てられていた。
散乱腐敗したゴミの中で、汚い人形は周りに同化してみえた。
その人形は古いアンティークドールだった。
今は泥で汚れドレスは破れ髪はクシャクシャで、
千切れた片方の足はどこにも見当たらない。
ただ憐れな姿を晒していたのだ。
――人形は泣いていた。
青いガラスの瞳は曇った空を映して……
見えない瞳は哀しみの雫で濡れていた。
19世紀のヨーロッパはイギリスの産業革命と、
フランス革命の影響のもと、東西文化が著しく交流した時代であった。
人形の世界においても、流行のファッションを身に着けた、
パリジャンヌと呼ばれる人形は、華やかなパリの空気を伝える、
美しい存在として女の子たちの憧れの的だった。
19世紀パリの街角、人形工房でビスクドールの彼女は作られた。
年老いた人形職人のおじいさんは、人形に『カトリーヌ』という名前をつけた。
青磁の肌と青いガラスの瞳、真紅のドレスと白いエプロンドレス、
子供の姿態をしたベベ・タイプの、それは華やかで美しい人形だった。
ずっとおじいさんの自慢の作品であった。
お気に入りのカトリーヌをおじいさんは最後まで、
手放さずに、ずっと傍らに置いていた。
ある夜、おじいさんは人形のカトリーヌ相手に若い頃の話を始めた。
青年の頃、心から愛した女性と結婚できなかったこと、
どうしても彼女のことを忘れられなくて、おじいさんは生涯独身を通した。
『カトリーヌ』とは、おじいさんが心から愛した女性の名前だった。
人形はその人の容姿を
青磁の肌、金色の髪……そして青い瞳は、
おじいさんの哀しみを湛えて泣いているみたいに潤んで見える。
おじいさんは愛した人の面影を写した人形のカトリーヌを、
深く愛していたから、まるで恋人に囁くように話しかけていた。
人形のカトリーヌはもちろん話すことはできなかったが、
おじいさんの話すことは理解できた。
たぶん、あまりに
心が宿ったのかも知れない。
カトリーヌはおじいさんの傍で長く一緒に暮らしていた。
だが、寒い寒い冬の朝、年老いたおじいさんは、
心臓発作を起こして、あっけなく亡くなってしまった。
発作を起こしたおじいさんは苦しみもがいていたが……
やがて息絶えて、動かなくなってしまった。
その一部始終を人形は見ていたが、何もできずに、
「おじいさん、おじいさん……」と、
ただ叫び続けるしかなくて、
張り裂けそう悲しみで、青い瞳は蒼く沈んでいった。
おじいさんの最後の言葉は「カトリーヌ愛してる……」だった。
vol.Ⅱ
人形職人のおじいさんが亡くなって、カトリーヌは遺品になった。
生前に取引のあった人形店に引き取られ、お店のショーウィンドウに
カトリーヌは飾られた。
自分が売り物になるなんて、想像していなかったカトリーヌにとって、
それは屈辱だった。
お店の人形たちは、カトリーヌを見て意地悪な声で、
「あなたのドレスは流行遅れだわ」
「なんて、陰気な瞳の色なの?」
「生意気な顔ね!」
口々に嫌味を言われたけれど……
おじいさんが作った自慢のビスクドールとして、
カトリーヌは誇りを持っていたから、何をいわれても胸を張っていた。
そんなある日、ショーウィンドウに飾られた人形は、
プチ・ブルジョワの小さな娘の目に留まった。
彼女はカトリーヌを見た瞬間、桃色の頬を更に紅潮させて、
「まあ、とっても可愛い人形だわ!」
キラキラと瞳を輝かせた。
「お父さま見て、この人形の青い瞳がとても素敵よ」
傍らの父親に指で示す。
「ねぇ、この子はうちに来たいっていってるみたい」
ひとり娘を
その場でお金を払って人形を買った。
小さな娘の胸に抱きしめられて、
カトリーヌは新しい家に引き取られていった。
「あなたは今日から、わたしの妹よ」
ずっと妹が欲しかった、小さな女の子は人形に、
『ミッシェル』と、新しい名前をつけた。
わたしにはカトリーヌという名前がありますといったが、
その声は誰にも聴こえない。
いつも可愛い少女の胸に人形は抱かれていた。
眠る時にはベッドの傍に置かれて、窓辺から差し込む月明かりで
安らかに眠る少女の寝顔を眺めるのが好きだった。
この天使のような無垢な魂の少女のことを、人形も深く愛していた。
やがて少女から成長した彼女は美しい娘になった。
「ミッシェル、わたし好きな人ができたの!」
柔らか頬を桃色に頬を染めて、人形だけにうちあけ話をした。
娘の好きな人の話を人形は微笑みながら聴いていた、
心から、この娘の幸せを願いながら……
この娘と暮らす日々が、人形にとって満ち足りた日々でした。
それなのに……、ああ、神さまはあまりに残酷だった!
18歳の誕生日を目前に、喘息の発作で娘は天に召されてしまった。
なんてこと! 娘の死が信じられず人形は茫然とする。
悲しみの青い瞳は、毎日々、娘の姿を探し求めていた……
突然、愛娘を失った父親はショックで酒びたりになった。
母親は悲しみで憔悴して病気になり寝込んでしまった。
人形は淋しい家族の末路を、その瞳に映して……
青い瞳は蒼く蒼く
ああ、心の中に悲しみの雨が降ってくる。
vol.Ⅲ
ある日、ひとりの青年がこの悲しみの家を訪れた。
亡くなった娘の遺品を何かくれまいかと、父親に所望した。
彼こそが、娘が生前の好きだったその人だ。
青年の一途な娘への想いに、父親は心打たれて、
「娘を思い出すから、これを見るのが辛い……」と、
娘が可愛がっていた人形を、形見として、その青年に手渡した。
そして人形は青年の住むアパートメントへ連れて行かれた。
さっそく人形に『マリアンヌ』と、娘の名前をつけて呼んだ。
貧乏画学生の青年の部屋には、
生前の娘の生き生きとした姿態を写した、
キャンバスが何点も置かれていたが……
それが返って人形には娘を思い出して、とても辛かった。
青年は絵を描きながら、人形相手に亡くなった娘の、
思い出話をよくしていた。
ふたりでよく行ったカフェのこと、一緒に観たオペラのこと、
初めてマリアンヌを抱きしめてキスした時の感動やら……
そして最後はいつも泣いていた、人形も一緒に泣いた。
人形と青年は悲しみを分ち合った。
この純粋な青年を人形も好きになり始めていた。
けれど若い彼にはやがて新しい恋人ができた。
その女は絵のモデルだといっていたが、
真っ赤なルージュと派手なドレス、強い香水をプンプンさせた、
まるで
初めて青年の部屋に訪れた時、いきなり人形の足を掴んでから、
逆さまにして、
「あら、まっ、人形のくせにパンティだって穿いてるわ! ぎゃははっ」
大口を開けて、下品な声で笑った。
最低の女だと思った! 人形は怒りと屈辱で頬が熱くなった!
なぜ青年がこんな女を好きなったのか?
人形には到底理解できなかった。
“生身の人間は、しょせん思い出だけでは生きてはいけない”
そのことを人形には理解できるはずもない。
やがて、ふたりは青年のアパートメントで一緒に暮らし始めた。
その女は人形を手荒く扱った、自慢のドレスにワインをこぼしたり
癇癪を起こして床に投げつけられたりした。
「なんて酷い女!」人形は彼女を嫌悪していた。
しかも、その女は派手で金使いが荒く、借金まみれだった。
好きになった女を救えるのは、自分しかいないという自負から……
青年は好きな絵を諦めて、朝から晩まで女のために働きはじめた。
それなのに……
青年がいない日、女は昼間から男をくわえこんで情事に耽っていた。
その嬌声に人形は目と耳を塞ぎたかった。
「こんな女は、死んでしまえ!」心で何度も呪っていた。
そんな日々が続いた、ある日……
ついにその女は新しい恋人と、青年が留守の日に出ていこうと、
荷物をまとめていた。
やれやれ、これでまた平穏な日々を送れると思っていた人形だったが、
部屋を出て行くときに何を思ったか?
女がいきなり人形を掴んでバックの中に乱暴に突っ込んだ。
「嫌っ! 何をするつもり?」人形は叫んだ!
アンティーク雑貨のお店に、人形は売られてしまった――。
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