彼女のウワサ ②
あれは東京の大学に通っていた頃だった。
今と違ってこんなに交通の便が良くなかったので、私は親元から離れて下宿することになった。下宿といっても『
建物は三階建てで、各部屋は六畳ほどの洋間でベッドと机とクローゼットとユニットバスが付いていた。そこに地方から出てきた女子大生が三十人くらい暮らしていたのだ。
当時は今と違って携帯が普及してなかったので、『女子学生会館』にかかってくる電話を寮母さんが各部屋の回線に繋いでくれていた。
『女子学生会館』では、大事な娘さんを預かっているという寮母さんの思いもあって、寮の門前は十時までと厳しく、遅くなる時には電話で連絡を入れないと、親に「夜遊びをしました」とチクられるのだ。――大学卒業までの四年間、私はそこで暮らしていた。
……たしか、あれは大学二年生の時だったと思う。
その日、大学から帰ると寮母さんに来客が応接室で待っていると告げられた。この寮は男子禁制なので来客が女性だとすぐに分かった。
『女子学生会館』の応接室は十畳くらいの広さで、二組の応接セットと大型のテレビ、なぜかピアノが置かれていた。ドアを開けると、ピアノの音色が聴こえた。背中を向けてピアノを弾いている長い髪の後ろ姿が見えた。
「お待たせしました」
声をかけると、振り向いたその顔は“
夜逃げ同然で、東京へいってから三年以上も音信がなかった、麻耶ちゃんの突然の来訪に驚いた。
「
少し痩せていたが、相変わらず美人の麻耶ちゃんだった。
「ビックリしたよ。よくここが分かったね」
「――同級生だった人からここにいるって聞いて、近くまできたから会いにきたの」
なんだか不自然な感じのする説明だし、よく見ると、麻耶ちゃんは粗末な身なりだった――。
冬だというのにTシャツと擦り切れたジーンズ姿で、かつてのお嬢様ファッションの麻耶ちゃんの面影はどこにもない。手に提げた紙袋には着替えのような物が入っていて、まるで家出少女みたいだった。
「久しぶりにピアノに触った……」
そういうと、彼女は愛しそうに鍵盤の上を撫でて薄く笑った。
小学校からずっとピアノを習っていた麻耶ちゃんだったが、お父さんが事業に失敗、自殺以来、そんな余裕もなかったのだろう。
「ねぇ、今から食堂でご飯食べるんだけど、麻耶ちゃんの分も寮母さんに頼んで作って貰うから一緒に食べない。ここのご飯はボリュームがあって、わりとイケるよ」
「ありがとう!」
よほどお腹が空いていたのか、嬉しそうに応えた。
食堂でご飯を食べた後、寮母さんの許可を得て、今夜一晩だけ私の部屋に麻耶ちゃんを泊めることにした。
『女子学生会館』は規則が厳しく、一晩くらいなら女友達を泊めてあげられるが、何泊もとなると「ここはホテルじゃありません!」と寮母さんに注意されるのだ。基本、部屋主がいない時には保護者(母親)以外、誰も部屋に入れてはいけない規則である。
一晩泊ったときに、どんな話を麻耶ちゃんとしたかは月日が経って、詳細に渡っては忘れてしまったが……。
私の部屋にはベッドがひとつしかないので、ふたりで一緒に寝た。
麻耶ちゃんの話では、頼っていった東京の親戚に冷たくあしらわれて、借金取りに東京まで追いかけて来られるし、紹介されて親子で働いた、住み込みの運送会社の寮の賄いは、独身の中年男性が多くて、何度も襲われそうになって、怖い目にあったので、そこを逃げ出した。
仕方なく、夜の務めに出た母親は慣れない仕事で身体を壊して、あっけなく亡くなった。うしろ盾もなく独りぼっちになってしまい、高校を中退してから、繊維工場で働いたり、深夜喫茶でウェイトレスしていたという、そんな悲しい話をポツリポツリとしゃべっていた――。
彼女は泣いたりはしなかったが、その方が余計に辛い心情が伝わってきて、聞いてて胸が痛くなった。
今日の突然の訪問は、一緒に暮らしていた男とケンカしてアパートから追い出されたのだと言った。男に殴られたという、左頬が赤く腫れていた。
翌朝、大学にいく私と麻耶ちゃんは『女子学生会館』を出て、最寄りの駅まで一緒に歩いた。ホームで別れ際に、
「仕送り前で、今これだけしかないんだ。少ないけど……これ取っといて!」
電車に乗り込む間際に、麻耶ちゃんの手に一万円札を無理やり握らせた。そのまま、飛び乗り電車の窓から手を振り彼女とはそこで別れた。
あの時、いつまでもホームで手を振る麻耶ちゃんの姿が切なくて、今も心に焼き付いている。
新宿で仕事を探すと麻耶ちゃんは言っていた――。
それから半年ほど経った、ある日『女子学生会館』に小包が届けられてきた。
送り主の住所は書いてなかったが“小椋麻耶”と名前だけが書いてある。突然、麻耶ちゃんから小包なんて、「何だろう?」と開けてみると、ブランド物のハンドバッグが入っていた。
デパートで買えば、たぶん十万円以上はしそうな、私たち学生の分際で持てるような代物ではない。そんな高級品をポンと麻耶ちゃんが送ってきてくれたのだが……嬉しいというより、なんだか気味が悪くて、そのバッグをほとんど持つことはなかった。
あのブランドバッグは、駅のホームで麻耶ちゃんにあげた一万円のお礼のつもりだったのかもしれない。しかし……会いにもこないで高級品を送りつけるだけというのは、なんだかバカにされた気分であった。
――それが二十数年前の、私と麻耶ちゃんの思い出だった。
居酒屋『元さん』で二回目の同窓会の打ち合わせがあった。
連絡先が分かった二十四人の同窓生の内で、八人は体調不良や遠方なので行けないと不参加だった。
消息不明だった人の内には友人に聞いたからと参加したいと言ってきた人が二人いる。現状では十八人が同窓会に参加予定だ。――まあ、卒業して三十年も経つのだから、そんなものだろうと思う。
この人数なら居酒屋『元さん』でやれそうである。ついに同窓会が一週間後に近づいて『地元残留組』はわくわくしていた。
同窓会の打ち合わせの帰り道だった。
近所なのでいつも自転車で行っているが、その日は少し遅くなったので、近道をしようと、かつて麻耶ちゃんの屋敷があった道を通った。
麻耶ちゃんの住んでいた屋敷は、彼女が引っ越しした後、三、四人持ち主が変ったが十年くらい前から、ずーっと空家になっている。
この辺りは街灯も少なく、人通りもなく、今や住む人がいない、かつての白亜のお城は
廃屋と化した屋敷には、ホームレスが住みついたり、地元の不良たちがシンナーを吸うのに使ったりと……防犯上良くないので、早く取り壊すようにと自治会で運動しているのだ。
気味の悪い場所なので、急いで自転車のペダルを
その時、自転車のライトが人影らしきものを照らした。廃屋の塀の前に女がひとり立っている。黒っぽいコートを羽織っていて、長い髪が風になびいて不気味な姿だった。
自転車ですれ違いざま、ライトで顔が浮かび上がった、その女は痩せて、蒼白い顔色、眼光が鋭く、口元が歪んでいた。――ぞっとするような怖ろしい顔に、思わず背筋が凍った。
いっぺんに酔いが醒めた私は、必死で自転車のペダルを漕ぐと、自宅まで飛んで帰った。
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