隴を得て蜀を望む 其の二

 隣国の君主、呂晃ろこうは、才気溢れる若い男だった。

 幽閉中の軍師劉操を助け、是非、我が配下に付けたいと思っていた。『良禽りょうきんは木をえらぶ』という言葉がある。良禽(かしこい鳥)は木を択んで、賢臣は主を択んで仕えるという意味であるが、正しく、劉操にとって、君主呂晃との関係はそうであった。

 初めて劉操が、呂晃に謁見した時、彼は君主の身分でありながら劉操の手を強く握り。

「そなたこそ、稀代の軍略家!」

 その才を褒め讃えた。

 さっそく、ふたりは李郭の国を攻める作戦を練ることに――。勝手知ったる国のことゆえ、劉操の戦略でいとも簡単に李郭の国は攻め込まれた。

 戦いの途中から、敵軍の主だった武将たちが、そちらに劉操殿がおられるのならと……こぞって投降とうこうして味方に加わったため、あっけないほど落城らくじょうは早かった。

 敗戦の色が濃くなって、こそこそ逃げ出そうとしていた李郭は、味方の将軍に見つかり「おのれ、逃げるか、この卑怯者め!」と首を刎ねられてしまった。

 そして降参の手土産として『李郭の首』は呂晃の元へ届けられた。


 その後、君主呂晃と劉操は巧みな戦略と鍛錬された兵士たちで、次々と隣国に攻め入り領土を拡大させて行った。やがて劉操も呂晃から小さな領土を貰い一国の君主となった。

 馬屋の小僧から、兵士、軍師、大臣、ついに君主にまで、その地位を上った劉操である。

 近隣の君主たちからは『稀代の軍略家』と怖れられていた。そして領民からは、農地を測り、その容赦ない年貢の取り立てに『恐王』とも密かに囁かれていた。

 一国の君主となった劉操は、狭い領土では飽き足らず国費を富、兵士を鍛え、巧みな戦略で近隣の小国を次々と侵略していった。むしろ、その動きに危機感を募らせたのは、かつての君主呂晃であった、彼は劉操の動向を牽制し始めた。


 ――突然、呂晃から婚礼の話がもち掛けられた。

 自分の娘、斎姫さいき五歳と劉操の息子、劉鳳りゅうほう七歳を結婚させたいとの申し入れだった。これは結婚とは名ばかりで、実は嫡子ちゃくしの劉鳳を『人質』によこせと言っているようなものだった。劉操の動きを封じるために、自分の国に嫡子劉鳳を預かって置こうという考えなのだ。

「まだ、七つになったばかりの劉鳳には可哀相でございます」

 妻の惷蘭は泣いて反対したが……だが、呂晃の話を断る訳にもいかない。

「劉鳳を差し出さなければ、いずれ呂晃と戦火を交えることになろう」

「それでは人質と同じではありませぬか?」

「もし戦火を交えれば……今の我が軍の人数では到底太刀打ち出来ぬ」

「いたわしや……劉鳳……」

 惷蘭は袖で顔を覆い泣き崩れた。そして劉鳳は――。

「父上様、母上様。きっと元気にこの国に戻って参ります!」

 笑顔で皆に手を振り、多くの家臣たちに見送られて呂晃の国へと旅立っていった。その健気な後ろ姿に、惷蘭はいつまでも泣いていた。


 そして五年の歳月が流れた。

 呂晃の国で暮らす、劉鳳からは時おり使者が、両親に宛てた手紙や描いた絵や書などが送り届けられていた。それを見る度に惷蘭は涙を流して喜んだ。

 一方、劉操は呂晃の配下の小国ではあるが、肥沃な土地で作物が良く育つ、南の小国が一つ欲しかった。当然、そこを狙えば、呂晃の逆鱗げきりんに触れることは重々分かっているのだが……その土地が欲しくて、欲しくて堪らなかった。

「あの肥沃な土地で採れた作物を、我が軍の兵士たちに食べさせ、肥らせれば、もっともっと我が軍は強くなる!」

 いつか、あの小国を奪ってやるぞと虎視眈眈こしたんたんと劉操は機会を狙っていた。


 そんな折、呂晃の国が長雨のせいで河が氾濫して大洪水になった。かなりの土地が水に浸かってしまい、大規模な水害のため呂晃の国は水が引くまで動けない状態になった。

 好期到来!と、ばかりに劉操は呂晃の小国に攻め込み、やすやすとその領土を手に入れた。

 ――洪水の最中さなか、配下の小国を奪われたことを知った呂晃は激怒した!

 数日後、劉操の元に呂晃の使者が届けてきたものは……劉鳳の血の付いた衣服、遺髪、切り取られた耳だった。それらの遺品を見た瞬間、覚悟はしていたが……劉操は絶句した。妻の惷蘭は泣き叫び、錯乱し、気を失って倒れた。

 その日から、惷蘭は床に着いてしまった。妻の見舞いにきた劉操に、

「あなたが劉鳳を殺したのです! わたしの劉鳳は返して!」

 激しく劉操を責めた。そして惷蘭はふたりの娘を連れて母方の実家へ帰ってしまった。


 たとえ惷蘭が去ったとしても……一国の君主である劉操には、後宮に女たちをはべらせている。

 その中で特にお気に入りの愛妾、麗鈴れいりんは、元は踊り子であったが、戦勝の宴に呼ばれて、美しく舞っている姿を劉操が見染めて後宮に入れた。麗鈴は歌や踊りなど芸事も秀でていて、客馴れしているので、もてなし方も上手く、劉操にとって気の置けない、唯一、癒される女であった。

 寵愛されている麗鈴は後宮でも力を持ち始めていた、惷蘭が去った後の事実上、劉操の本妻の地位であった。やがて、麗鈴は懐妊して子を産むが女児であった。なんとしても世継ぎの男児を産んで、劉操の正妻になりたいと麗鈴は強く願っていた。

 翌年、二人目を懐妊出産するが、またしても女児であった。劉操も麗鈴も深く落胆した。

「あの女が呪いをかけているから、男児が生まれない!」

 挙句、麗鈴が道士に調べて貰った結果が、惷蘭が劉操に後継ぎが生まれないように呪詛じゅそしているというのだ。

 あろうことか、劉操は麗鈴の讒言ざんげんを信じて、実家で娘たちとひっそりと暮らしていた惷蘭を無理やり城に牽き立てて、厳しく尋問を行い、そして自害させたのである。

 それでも惷蘭への嫉妬が収まらない麗鈴は……死して、なおも美しい惷蘭の遺体に対して整えた髪を掻き乱し、衣服を引き裂き、その口には糠を詰め込み棺桶にも入れずに葬らせたのだ。――げに怖ろしきは女の嫉妬である。

 その様を見ていた、惷蘭が産んだふたりの娘たちも母の後を追って自害してしまった。大恩ある将軍、李硅の娘に対する余りにも冷酷非道な劉操の行いに、家臣たちも眉をしかめたが……誰も彼をいさめることは出来なかった。

 この事件の翌年にも麗鈴は子を産んだが、またしても女児で、しかも生まれながらに身体に奇形を持つ児だった。――家臣の中には「惷蘭様の呪いだ」と噂をした。


 その頃には、劉操の麗鈴への寵愛もだんだんと薄れてゆき……若い女たちに移りつつあった。

 従って、後宮での麗鈴の力も衰え始めていた……。あろうことか、自分の召し抱える侍女に、劉操が手をつけたことを知った麗鈴は激しく嫉妬して、その侍女を折檻の果てに惨殺してしまった。その事実を知った劉操は憤怒した。嫉妬深く凶暴な性格の麗鈴には、ほとほと愛想が尽きていた劉操は、ついにこの女を処刑してしまった。麗鈴が産んだ三人の娘たちも「我が子ではない!」と母親と共に葬った。

 親として、人間として、尋常ではない劉操の行いである。


 そのように、私生活では悶着が絶えない劉操だったが……だが、戦略は冴渡っていた――。

 嫡子の劉鳳を殺された恨みから、劉操は呂晃を征伐する好機を狙って暗躍していた。隣国の小さな国を次々と侵略していき、序々に包囲網を広げていった。

 折りしも、呂晃の国が再び大洪水に見舞われた。国力の弱った呂晃の元へ劉操は大軍で攻め込んで行った。――劉操の圧倒的な勝利だった。ついに城を落とし、呂晃の首も落とした。

 兵士たちの戦勝品はもちろん敵の大将の首だが……彼らのもうひとつの楽しみは君主の後宮の女たちである。出来るだけ早く攻め入って、女たちが自害する前に我がものにしなくてはいけない。

 劉操は呂晃の後宮へと進み行く、すでに呂晃の正妻をはじめ、数人の女たちが折り重なるようにして自害していた。どれも身分は高いが若くも綺麗でもないので興味はない。呂晃は意外と堅物で後宮に若くて綺麗な女たちがいなかった。侍女たちは兵士の慰め者にくれてやる。

 戦いで血が滾る、この躯を慰めてくれる女はいないものかと探してみたが……好みの女がいなくて劉操は落胆した。

「殿! 殿!」

 劉操に呼び掛けながら、兵士が捕虜とみられる女を連れてきた。

「この女が隠れ部屋に潜んで居りました」

 見れば、まだ若い娘で高貴な衣服を身に着けている。呂晃の親族の者であろうか。

「そなた、名をなんと申す?」

 怒ったような顔で娘は黙っていた。その態度に怒った兵士が娘を小突こづいた。

「きさま! 殿にお答えせぬかっ!」

 娘はキッと怒りの眼で劉操を睨んだ。

 その眼は誰かに似ている。そうだ、呂晃にそっくりだった。捕虜になった呂晃の首を刎ねる時、そんな眼で劉操を睨んでいた。

「おまえは呂晃の娘だな?」

「……わらわは斎姫さいき

「斎姫だと……」

 斎姫といえば、今は亡き劉鳳の婚約者だった姫である。正妻との間に出来た姫で、呂晃が特に可愛がっていたと噂に聞いた。七歳で呂晃の国に行った劉鳳だが、斎姫とも気が合って、まるで兄妹のように仲が良かったと聞く。

 その劉鳳を殺してしまったので、斎姫がとても嘆き悲しんで……後のちまで呂晃を困らせていたという。

 ――その斎姫、たぶん歳は十五か、十六であろう。

 肌の色が貫けるように白く、高貴な顔立ちである。身体は十分に成熟している、まだおぼこ娘かも知れない。――今夜の夜伽よとぎの相手は、この女に決めた。

「その娘を後で、わしの部屋に連れて参れ!」

 そう言い置いて、劉操はその場から立ち去った。

「今夜は殿がおまえを可愛がってくださるぞ」

 兵士はにやりと野卑やひな笑いを浮かべ、斎姫を引き立てた。

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