花橘(はなたちばな) 其の二

 その時、牛の鳴き声が聴こえた。

「乳母や、牛車(ぎっしゃが訪れたようじゃ」

「姫君、そのようでございます」

 先駆さきがけの知らせもなく、この混乱の中で訪問者とは……花橘の君は戸惑った。乳母が外の様子を見ようと立ち上がって、御簾を出ようとした処で男の声がした。

「なんとも酷い有様じゃ! 花橘! 花橘の君はいずこに居られる?」

 あ! あのお声は、花橘の君の顔が輝いた。

「もっと早く来たかったが、橋が壊れていて渡れないので遠回りになってしまった。遅くなって、すまぬ!」

 まさか、見舞いにも来てくれぬ薄情な夫と恨んでいたのに、野分の後の危険な道も顧みず逢いに来てくださった。

宗憲まさのりさま!」

 御簾から指貫さしぬきの裾が見えた。堪らず、花橘の君は脇息きょうそくを倒して立ち上がった。


「おおっ! 無事であったか」

 勢いよく御簾の奥へ入ってきた宗憲は花橘の姿を見つけると肩を抱いた。夫に力強く抱きしめられて、花橘は安堵の溜息を吐いた。

「昨夜の野分は激しく吹き荒れた。花橘のことが心配でわたしは一睡もできなかった。野分が静まったら、すぐに屋敷を出発したのだが途中まで道のりが悪く、殊のほか時間が掛かってしまった」

 ああ、宗憲さまの広い胸、こんな時の夫の存在はなんと心強いことか。

「見舞いにも来てくれないのかと……お恨み申し上げておりました」

「何を申すか、花橘の君はわたしのじゃあ」

「嘘……内裏近くに若い女君を住まわせて通っておられると噂に聞きました」

「知っておったのか? あれは、そう遊び心で通ってるだけじゃ……あははっ」

 浮気がばれて、誤魔化そうとする宗憲に、

「わたしく、野分で屋敷も壊れ、夫にも捨てられてしまいそうなので……いっそ、髪を切って尼に成る所存でございました」

「なんとっ! 尼などとんでもない。そんなことをしたら、あなたと逢えなくなるではないかっ。ならば、このわたしも出家して僧になろう」

「まあ、そんなおたわむれを……」

 夫の言葉に花橘の君はくすくす笑った。

「こんな壊れた屋敷は物騒ぶっそうじゃ、いつ夜盗に狙われんとも限らん。花橘の君を、ここに置いてはおけね。わたしの屋敷に連れて帰るぞ!」

「えっ!?」

 その言葉に乳母とふたりで驚きの声を上げた。

「宗憲さまのお屋敷でございますか?」

 乳母の宇木島が確かめるように聞き返した。

「そうじゃ! 北の対屋たいのやが空いておる」

「そ、それって……」

 俄かに、信じがたい言葉に茫然としてしまうほどだった。

 夫の屋敷の北の対屋に住むことは『北の方』に迎えられるということなのである。


「宗憲さま、わたくしには子どもがおりませぬ。それでも北の方にしてくださるのでございますか?」

「わたしにはすでに七人の若君、姫君が居る。もうこれ以上、子どもは要らぬ。それよりも花橘の君が側にいてくれた方が心が安らぎ、仕事にも身が入るのだ。裳着もぎの儀式を済ませたばかりの少女だった、あなたにひと目惚れして妻にしたくらいだ。ずっとでていたが、北の方にすることができず心苦しく思っておったが……。先の北の方が亡くなった時に、花橘の君を北の方にすることを、すでにわたしの心の中で決めていたのだ。ただ、喪が明けるのを待っていたが、此度こたびの野分で時期が早まっただけのことじゃ」

 いつも塗籠の中で寝てばかりいたのは、心を許している証拠であったのか。それだけ夫婦の深いえにしを結ばれているからこそ――。

 夫の不義理を恨み、尼になろうと思っていた、おのれの浅はかさを花橘の君は心底恥じた。


「牛車は三輌さんりょう連れて参った。わたしと花橘は夫婦ゆえ同じ牛車に乗ればよい。乳母と側近の女房たちは残りの牛車に乗って、後の者は徒歩でついて参れ。身の回りの物だけ持ってゆけば良い、また後で家人けにんに取りに来させるゆえ、夜盗どもに押し込まれる前に、ここを非難するのじゃ」

 頼もしきかな、近衛少将の宗憲がてきぱきと采配を振るう。そんな夫の姿に花橘の君は思わず見惚れる。

 先ほどまで一緒に泣いていた乳母も嬉々として、侍女たちに荷物を纏めるように指図をしている――倒壊した屋敷の中に活気が戻ってきた。

 右大臣家の嫡男宗憲の住む屋敷は立派な神殿造りだと聞いている。明日から、そのような処に住むことに成るとは夢のようである。


「皆の者、支度は良いか? 参るぞっ!」

 乳房たちの支度も整ったようなので、いよいよ出発することになった。

「花橘や、我が屋敷に参ろうぞ」

 宗憲が優しく花橘の君の袖を引いた。野分で板が抜けた廊下を渡る時には、夫が手を差し伸べてくれた。その手の温かさに思わず涙ぐむ……。ふいに袴の裾を踏まれたような気がして振り返ると、その視線の先に橘の木が入った。《ああ! この木は……》大事な忘れ物をするところだった。

「宗憲さま、橘を! 橘の木を持って参りたく存じます」

「折れているが……」

「母君の形見の橘の木でございます。どうか……」

 訴えるような花橘の目に、優しく微笑むと、

「根が残っていれば、いずれ芽吹くであろう!」

 すぐに家人に命じて、橘の木を掘り起こして、荷車に乗せて宗憲の屋敷へと運ばれた。そして、北の対屋の庭に植えられた。


 数年後、右大臣になった藤原宗憲の屋敷で橘の木が立派に育っていた。

 北の対屋に住まう花橘の君は小さな姫君を連れている。北の方になった、翌年に念願の赤子あかごを産んだのだ。乳母の宇木島も年老いたが、幼い姫君の成長を楽しみにして暮らしている。

 ――思えば、あの野分のせいで屋敷は壊れ、乳母とふたりで尼になることを誓ったが、運命は逆転して、《災い転じて福と為す》花橘の君に運が向いてきたのだ。

 青々と繁った橘の木に可憐な白い花が咲いている。その爽やかな香りに、いっそう幸せな想いが満ちてくる。この木には亡き母君の御霊が宿っているのだと、そう花橘の君は思うようになった。――きっと、わたくしたちを幸せに導いてくれているのだ。

《有難いことだ》と、橘の木に向ってそっと掌を合わせた。

 幼い姫君が橘の花を手折って、短い御髪に差して朗らかに笑う。若橘姫の、その愛らしい姿に右大臣とその北の方が目を細めて見ている。晴れやかな、皐月さつきの風に庭の橘の枝がたおやかになびく。

 今では、花橘の君は幸運な姫君だと宇木島は自慢げにいうようになった――。

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