花橘(はなたちばな) 其の二
その時、牛の鳴き声が聴こえた。
「乳母や、
「姫君、そのようでございます」
「なんとも酷い有様じゃ! 花橘! 花橘の君はいずこに居られる?」
あ! あのお声は、花橘の君の顔が輝いた。
「もっと早く来たかったが、橋が壊れていて渡れないので遠回りになってしまった。遅くなって、すまぬ!」
まさか、見舞いにも来てくれぬ薄情な夫と恨んでいたのに、野分の後の危険な道も顧みず逢いに来てくださった。
「
御簾から
「おおっ! 無事であったか」
勢いよく御簾の奥へ入ってきた宗憲は花橘の姿を見つけると肩を抱いた。夫に力強く抱きしめられて、花橘は安堵の溜息を吐いた。
「昨夜の野分は激しく吹き荒れた。花橘のことが心配でわたしは一睡もできなかった。野分が静まったら、すぐに屋敷を出発したのだが途中まで道のりが悪く、殊のほか時間が掛かってしまった」
ああ、宗憲さまの広い胸、こんな時の夫の存在はなんと心強いことか。
「見舞いにも来てくれないのかと……お恨み申し上げておりました」
「何を申すか、花橘の君はわたしの一番大事な妻じゃあ」
「嘘……内裏近くに若い女君を住まわせて通っておられると噂に聞きました」
「知っておったのか? あれは、そう遊び心で通ってるだけじゃ……あははっ」
浮気がばれて、誤魔化そうとする宗憲に、
「わたしく、野分で屋敷も壊れ、夫にも捨てられてしまいそうなので……いっそ、髪を切って尼に成る所存でございました」
「なんとっ! 尼などとんでもない。そんなことをしたら、あなたと逢えなくなるではないかっ。ならば、このわたしも出家して僧になろう」
「まあ、そんなお
夫の言葉に花橘の君はくすくす笑った。
「こんな壊れた屋敷は
「えっ!?」
その言葉に乳母とふたりで驚きの声を上げた。
「宗憲さまのお屋敷でございますか?」
乳母の宇木島が確かめるように聞き返した。
「そうじゃ! 北の
「そ、それって……」
俄かに、信じがたい言葉に茫然としてしまうほどだった。
夫の屋敷の北の対屋に住むことは『北の方』に迎えられるということなのである。
「宗憲さま、わたくしには子どもがおりませぬ。それでも北の方にしてくださるのでございますか?」
「わたしにはすでに七人の若君、姫君が居る。もうこれ以上、子どもは要らぬ。それよりも花橘の君が側にいてくれた方が心が安らぎ、仕事にも身が入るのだ。
いつも塗籠の中で寝てばかりいたのは、心を許している証拠であったのか。それだけ夫婦の深い
夫の不義理を恨み、尼になろうと思っていた、
「牛車は
頼もしきかな、近衛少将の宗憲がてきぱきと采配を振るう。そんな夫の姿に花橘の君は思わず見惚れる。
先ほどまで一緒に泣いていた乳母も嬉々として、侍女たちに荷物を纏めるように指図をしている――倒壊した屋敷の中に活気が戻ってきた。
右大臣家の嫡男宗憲の住む屋敷は立派な神殿造りだと聞いている。明日から、そのような処に住むことに成るとは夢のようである。
「皆の者、支度は良いか? 参るぞっ!」
乳房たちの支度も整ったようなので、いよいよ出発することになった。
「花橘や、我が屋敷に参ろうぞ」
宗憲が優しく花橘の君の袖を引いた。野分で板が抜けた廊下を渡る時には、夫が手を差し伸べてくれた。その手の温かさに思わず涙ぐむ……。ふいに袴の裾を踏まれたような気がして振り返ると、その視線の先に橘の木が入った。《ああ! この木は……》大事な忘れ物をするところだった。
「宗憲さま、橘を! 橘の木を持って参りたく存じます」
「折れているが……」
「母君の形見の橘の木でございます。どうか……」
訴えるような花橘の目に、優しく微笑むと、
「根が残っていれば、いずれ芽吹くであろう!」
すぐに家人に命じて、橘の木を掘り起こして、荷車に乗せて宗憲の屋敷へと運ばれた。そして、北の対屋の庭に植えられた。
数年後、右大臣になった藤原宗憲の屋敷で橘の木が立派に育っていた。
北の対屋に住まう花橘の君は小さな姫君を連れている。北の方になった、翌年に念願の
――思えば、あの野分のせいで屋敷は壊れ、乳母とふたりで尼になることを誓ったが、運命は逆転して、《災い転じて福と為す》花橘の君に運が向いてきたのだ。
青々と繁った橘の木に可憐な白い花が咲いている。その爽やかな香りに、いっそう幸せな想いが満ちてくる。この木には亡き母君の御霊が宿っているのだと、そう花橘の君は思うようになった。――きっと、わたくしたちを幸せに導いてくれているのだ。
《有難いことだ》と、橘の木に向ってそっと掌を合わせた。
幼い姫君が橘の花を手折って、短い御髪に差して朗らかに笑う。若橘姫の、その愛らしい姿に右大臣とその北の方が目を細めて見ている。晴れやかな、
今では、花橘の君は幸運な姫君だと宇木島は自慢げにいうようになった――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます