花橘(はなたちばな) 其の一

   いにしへを花橘にまかすれば軒のしのぶに風かよふなり

                           ― 式子内親王 ―


 夜半に吹き荒れた野分のわきのせいで、花橘はなたちばなの君の屋敷では庭の草木も倒れ、屋根や塀なども吹き飛ばされてしまった。昨夜は塗籠ぬりごめ中で、風の音が怖ろしく震えながら一睡もできなかった花橘であったが、一夜明ければこの惨状にすべもない。

 こんな夜に通って来ない夫のことを恨めしく思っていた。


 右近衛少将うこんのえしょうしょう藤原宗憲ふじわらのむねのりは、父君は右大臣、母君は大納言の娘で、由緒正しき血統の嫡男ちゃくなんである。今は正五位下、右近衛少将とあまり官位は高くないが、いずれは右大臣の任に就くと目される、将来有望な公達きんだちなのである。

 花橘の君の元に通われてから、八年の歳月が経つ。

 やっと、裳着もぎの儀式を済ませて、裳の腰紐を結わせ、髪上げをしたばかりの頃であった。狩りの帰り陰陽道の方違かたたがえで、藤原宗憲が一夜の宿を借り、この屋敷に逗留したのがえにしとなり、その後、幼い女主おんなあるじのことを心配して、度々訪れる内に妻のひとりに迎えたのである。

 その花橘の君も今はもう若くもないし、子もいない……この頃では、夫も宮仕えが忙しく、通われても塗籠の中で寝てばかりで袖を引いてもくれない。鼾をかいて寝ている宗憲の鼻を憎らしくて摘まんだりしたものだ。

 それなのに……侍女が出入りの商人から、内裏ないり近くの屋敷に若い女人を住まわせて足繁く通っているという噂を聞いた。

 花橘の君のことはもう飽きてしまったのだろうか。

 男は浮気な生き物ゆえ、次々と新しい獲物を追い求める習性なのだから――。この屋敷も花橘の君も、いずれ打ち捨てられる運命なのかも知れぬ。


 ――そうなる前に潔(いさぎよ)く身を引いて、仏門に帰依(きえ)して尼になろうと密かに心に誓っていた。

 昨夜の野分で倒壊した屋敷をみて、それはより現実味を帯びてきた。宗憲のことは恨むまいと思っても、この惨状に見舞いにも来ないことが、やはり恨めしく思える花橘の君なのだ。

 屋敷の者たちに怪我はなかったと聞いたが、この状態ではとても暮らしが立ちゆかない。建屋と庭を見渡す廊下に立って、惨憺たる想いに溜息を吐くしかない女主であった。

「姫君」

 乳母の宇木島うきじまがいつの間にか傍らにいた。

「昨夜の野分でこの有様じゃ……」

「まことに悲しゅうございます」

 長年住み慣れた屋敷が荒れ果てて、かなり手を入れないと住めなくなったことを宇木島は嘆いていた。はて、この屋敷を修繕する費用はどうするか? 心が冷めてきた宗憲が出してくれる筈もなかろう。

「もう、この屋敷には住めませぬ」

「さようでございましょうか」

「母君が残してくれた、屋敷があばら家同然になってしまった」

「奉公に上がってから、このお屋敷で姫君のお世話をいたして参りましたのに……」

「屋根や塀が吹き飛ばされた屋敷など、狐狸こりやもののけの棲み処同然じゃ……」

 花橘の言葉に乳母は小袿こうちきの袖で涙を拭う、あばら家になった屋敷に未練があるのだろう。――年を取って乳母も気が弱くなったと花橘の君は思った。

 

 花橘の君は早くに母君を亡くし、乳母の宇木島うきじまを母のように慕ってきた。

 父君は宮家の血を引く高貴な身分だと聞いていたが、誰なのか分からない。ただ、屋敷の調度品の中には宮家の紋章が入った品物が数々有り、みかどの五の宮か、六の宮ではないかと思われる。

 六の宮は母君が亡くなる前の年に没されたというので、もしやその御方ではないかと思われるが詳細は分からず仕舞いである。

 その父君が建てられたのがこの屋敷で、あまり広くはないが贅を尽くした造りであった。特に庭の草木は美しく、母君が愛でていたたちばなの木が此度こたびの野分で折れてしまった。

 平安神宮の社殿では『右近の橘、左近の桜』が祀られており、橘は高貴な木なのである。

 御所の紫宸殿ししんでんの右手にも橘の木が植えられている。そこの橘の苗を移植したのが、この屋敷の橘の木だと聞いている。

 五月さつき待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする、といにしえより多く歌人にも詠まれた。そして、橘の木のある屋敷の女主こそが『花橘はなたちばなきみ』の名前の由来にもなったのである。

 その橘が折れてしまったのだから、こんな荒れ果てた屋敷には未練もなくなった。


「乳母や、この荒れた屋敷は打ち捨てて、ふたりで仏門に入り先祖の御霊みたまを弔い、念仏三昧の日々を過ごしましょう」

「姫君が出家なさるなら、この乳母もお供いたします」

「宇木島さえ、側に居てくれれば心強い」

「わたくしのお育てした姫君と一生供にする所存しょぞんでございます」

 どんな事が合っても離れないのが姫君と乳母の関係である。それは主従の関係だが、赤子の頃にその乳を飲んで育ったせいか、血を分けた肉親のように――その絆は深い。

 七歳で母君を亡くし、その後は伯父君の大宰大弐だざいのだいにが後見人として姫君をみてくれていたが、西海道(九州)に赴任となり遠く都を離れて、いつまで経っても戻って来られない。

 花橘の君は不運な姫君だと乳母の宇木島はいつも嘆く。

 決して家柄が悪い訳ではないのに、後ろ盾がいないせいで北の方に成れなかった。今通っている近衛少将にも北の方が居られた。ところが、去年、流行り病で突然亡くなられてしまわれた。――まだ、その後釜は決まっていない様子なのだ。

 この時代は、一夫多妻制で夫が妻たちの屋敷に通ってくるのが通常だったが、『きたかた』と呼ばれる妻だけは北の対屋たいのやに住まい、夫と共に家族と同じ屋敷で一生暮らしていくのだ。北の方は妻たちの中で最も地位が高く、家柄の良い家の娘、嫡男を産んだ妻、寵愛の深い女人などが、殿上人てんじょうびとの正妻『北の方』に選ばれる。――子どもを生んでいない花橘の君は不利だった。

 ……きっと、若い女君が懐妊すればその方を北の方にお選びに成られることと密かにそう思っていた。すでに諦めているので悔しいとは思わない。《いっそ、わたくしなど居らぬ方が宗憲さまはせいせいするであろう》今度、宗憲が来られたら授戒じゅかいを受けて出家しますと伝えるつもりなのだ。

 わずかだが母君から受け継いだ家財がある。家刀自いえとうじゆえ、それらを処分して、侍女たちにお金を与えて暇を出し、乳母とふたりで尼になったら、残った金品はすべて寺に寄進して、そこの庵に住まわせて貰うしか仕方あるまい。

「侍女たちに使えそうな家財や調度品を集めさせましょう。明日にでも商人を呼んで値踏みして貰います」

「おや、明日に……で、ございますか?」

 急な話に乳母は狼狽ろうばいしていた。

「乳母や、わたくしたちはもう誰も頼りにできません。これから先は、ふたりきりで生きて行かねばならない」

「わたくしは花橘の君と供にどこまでも参ります」

 乳母はそう言いながら泣いていた。

 野分が去った庭で、ふたりの女人は尼になることを誓い合った。黒髪を落とし尼になれば、華やかな祭事や道行みちゆきとも無縁になってしまう。夫に捨てられた我が身ゆえ、ひっそりと身を隠すようにして生きていくより道がない。――とはいえ、尼になれば全ての煩悩を断ち切らなければならない。夫への未練がまだ胸の奥で燻っている花橘の君は、我が身の憐れを嘆いていた。

 気丈そうに振舞ってはいたが、その言葉とうらはらに小袿の袖に涙が零れた。――無慈悲な運命を嘆き、姫君と乳母は手を取り合って泣いていた。


 ――何やら、門の辺りで人の声が騒がしい。

 屋敷の塀などが壊れて、屋敷の中が丸見えになったので、花橘の君は慌てて御簾すみの奥に身を隠した。

 この時代は、高貴な身分の姫君は父親と夫以外の男性に顔を見られてはまずい。夫となる男性とは何首か歌の遣り取りがあってから、お互いに気に入れば、男性が家に通って来る習慣だった。それでも御簾のかなたか、几帳きちょうで遮って会話をするだけで、初夜まで妻の顔を直接見ることは許されなかった。姫の容姿については、乳母や側近の女房(侍女)に取り入って、訊くしかなかったのである。

 俄かにざわめき立つ気配に、花橘の君は不安が募る。

《もしや、壊れた屋敷に物取りの夜盗が入り込んだのではあるまいか?》

 女主のこの屋敷では男手が少ない。夜盗だったとしたら、翌々不運だと嗤うしかない。――何もかも諦めて、もう自棄やけになっていた。

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