花橘(はなたちばな) 其の一
いにしへを花橘にまかすれば軒のしのぶに風かよふなり
― 式子内親王 ―
夜半に吹き荒れた
こんな夜に通って来ない夫のことを恨めしく思っていた。
花橘の君の元に通われてから、八年の歳月が経つ。
やっと、
その花橘の君も今はもう若くもないし、子もいない……この頃では、夫も宮仕えが忙しく、通われても塗籠の中で寝てばかりで袖を引いてもくれない。鼾をかいて寝ている宗憲の鼻を憎らしくて摘まんだりしたものだ。
それなのに……侍女が出入りの商人から、
花橘の君のことはもう飽きてしまったのだろうか。
男は浮気な生き物ゆえ、次々と新しい獲物を追い求める習性なのだから――。この屋敷も花橘の君も、いずれ打ち捨てられる運命なのかも知れぬ。
――そうなる前に潔(いさぎよ)く身を引いて、仏門に帰依(きえ)して尼になろうと密かに心に誓っていた。
昨夜の野分で倒壊した屋敷をみて、それはより現実味を帯びてきた。宗憲のことは恨むまいと思っても、この惨状に見舞いにも来ないことが、やはり恨めしく思える花橘の君なのだ。
屋敷の者たちに怪我はなかったと聞いたが、この状態ではとても暮らしが立ちゆかない。建屋と庭を見渡す廊下に立って、惨憺たる想いに溜息を吐くしかない女主であった。
「姫君」
乳母の
「昨夜の野分でこの有様じゃ……」
「まことに悲しゅうございます」
長年住み慣れた屋敷が荒れ果てて、かなり手を入れないと住めなくなったことを宇木島は嘆いていた。はて、この屋敷を修繕する費用はどうするか? 心が冷めてきた宗憲が出してくれる筈もなかろう。
「もう、この屋敷には住めませぬ」
「さようでございましょうか」
「母君が残してくれた、屋敷があばら家同然になってしまった」
「奉公に上がってから、このお屋敷で姫君のお世話をいたして参りましたのに……」
「屋根や塀が吹き飛ばされた屋敷など、
花橘の言葉に乳母は
花橘の君は早くに母君を亡くし、乳母の
父君は宮家の血を引く高貴な身分だと聞いていたが、誰なのか分からない。ただ、屋敷の調度品の中には宮家の紋章が入った品物が数々有り、
六の宮は母君が亡くなる前の年に没されたというので、もしやその御方ではないかと思われるが詳細は分からず仕舞いである。
その父君が建てられたのがこの屋敷で、あまり広くはないが贅を尽くした造りであった。特に庭の草木は美しく、母君が愛でていた
平安神宮の社殿では『右近の橘、左近の桜』が祀られており、橘は高貴な木なのである。
御所の
その橘が折れてしまったのだから、こんな荒れ果てた屋敷には未練もなくなった。
「乳母や、この荒れた屋敷は打ち捨てて、ふたりで仏門に入り先祖の
「姫君が出家なさるなら、この乳母もお供いたします」
「宇木島さえ、側に居てくれれば心強い」
「わたくしのお育てした姫君と一生供にする
どんな事が合っても離れないのが姫君と乳母の関係である。それは主従の関係だが、赤子の頃にその乳を飲んで育ったせいか、血を分けた肉親のように――その絆は深い。
七歳で母君を亡くし、その後は伯父君の
花橘の君は不運な姫君だと乳母の宇木島はいつも嘆く。
決して家柄が悪い訳ではないのに、後ろ盾がいないせいで北の方に成れなかった。今通っている近衛少将にも北の方が居られた。ところが、去年、流行り病で突然亡くなられてしまわれた。――まだ、その後釜は決まっていない様子なのだ。
この時代は、一夫多妻制で夫が妻たちの屋敷に通ってくるのが通常だったが、『
……きっと、若い女君が懐妊すればその方を北の方にお選びに成られることと密かにそう思っていた。すでに諦めているので悔しいとは思わない。《いっそ、わたくしなど居らぬ方が宗憲さまはせいせいするであろう》今度、宗憲が来られたら
わずかだが母君から受け継いだ家財がある。
「侍女たちに使えそうな家財や調度品を集めさせましょう。明日にでも商人を呼んで値踏みして貰います」
「おや、明日に……で、ございますか?」
急な話に乳母は
「乳母や、わたくしたちはもう誰も頼りにできません。これから先は、ふたりきりで生きて行かねばならない」
「わたくしは花橘の君と供にどこまでも参ります」
乳母はそう言いながら泣いていた。
野分が去った庭で、ふたりの女人は尼になることを誓い合った。黒髪を落とし尼になれば、華やかな祭事や
気丈そうに振舞ってはいたが、その言葉とうらはらに小袿の袖に涙が零れた。――無慈悲な運命を嘆き、姫君と乳母は手を取り合って泣いていた。
――何やら、門の辺りで人の声が騒がしい。
屋敷の塀などが壊れて、屋敷の中が丸見えになったので、花橘の君は慌てて
この時代は、高貴な身分の姫君は父親と夫以外の男性に顔を見られては
俄かにざわめき立つ気配に、花橘の君は不安が募る。
《もしや、壊れた屋敷に物取りの夜盗が入り込んだのではあるまいか?》
女主のこの屋敷では男手が少ない。夜盗だったとしたら、翌々不運だと嗤うしかない。――何もかも諦めて、もう
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