観音様と女房 其の三

 爺様の長い話を、沼津ぬまづ宿しゅくから来た男は聞いていた。

 それは悲しい夫婦の話だったが、最後に幽霊になった嫁が死ぬのを止めるあたりは、爺様の作り話かもしれないと思いながらも聞き入ってしまった。 在所ざいしょに帰ったら、江戸でこんな話を聴いたと酒の肴くらいになると思ったからだ――。

「三十年の歳月が流れた。長く飾り職人として働いていた、あっしも最近は身体が衰え、目のよく見えなくなってきた。たぶん、今夜あたり、おせんが迎えに来てくれるはずでござんす」

 爺様はそんなことを言う。――何も言えず男が黙っていると、

「旅のお方、お前さんは在所に帰ったら祝言しゅうげんをあげるんでやしょう?」

「えっ、どうして知ってるんだ!」

 その問いに答えずに、爺様はふところからごそごそ何かを取り出した。

「これは観音様のお守りでさあ。これを持って在所に帰って祝言を挙げなさい。きっと観音様がお前さんたち夫婦が幸せになるように見守ってくださる」

 男の手にそのお守りを握らせると、爺様は立ち上がり境内の闇へと消えていった。よく目を凝らすと、爺様の後ろから薄く女の影が寄り添うようについていっているではないか。もしや、おせんさんが迎えにきたのか。

 あの爺様はこの瞬間、浅草のどこかで息を引き取ったのかも知れない。――男はそう感じて『南無観世音菩薩』と念仏を唱えた。


 暮れ六つの鐘が境内で鳴った。

 男はお堂の石段から腰を上げて、今夜泊る宿屋を探すために歩きだした。彼方かなたに提灯の灯が見えたので、あの辺りに行けば宿やどは見つかるだろうと思った。

 爺様に貰ったお守りを懐に入れて明日は在所に帰る。これから所帯を持つ男に取って、爺様の夫婦話はいましめになることであろう。

 とっぷり陽がくれて、夜風が冷たい。ぶるっと震えて、浅草寺観音様を男は後にした。

 


                   ― 完 ―   


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