観音様と女房 其の二

 人足寄場にんそくよせばに流されたあっしは、おせんの夢を度々たびたびみていた。

 夢に出てくるのは相手が自分のことを想っているからだと、いにしえより言い伝えられている。あっしは夢の中でおせんと語り合い、むつみ合っていた。おせんが夢に現れるとあっしは元気が出て、きつい人足寄場の作業も我慢ができた。

 怪我けがすることなく、やってこれたのは観音様とおせんのお陰だと、今でもそう思っているんでさあ。

 不思議なことに、こんな所に送られて来たら、あんなに岡惚れていた女郎の夕凪のことなんぞ思い出しもしねえ。しょせん痴情ちじょうで結ばれた男女の仲なんて薄っぺらなもんだと悟った。――やっぱり、二世を誓った夫婦のえにしは深い。

 ここから還って来られたら、もう一度やり直したいと願って、その日が来ることを心の支えにして罪に服していました。

 今さらながら……馬鹿なあっしは女房が恋しかった。


 三年経って、ご赦免しゃめんになり、すぐさま浅草に舞い戻ったあっしだが、おせんもおっかさんも長屋にいない……驚いて、分けもわからず、気が狂いそうになっちまった。

 長屋の者たちに訊くと、あっしのおっかさんが二年前に病にかかり寝たきりになっちまった。おせんはひとりでおっかさんの面倒を看ながら朝昼晩と働いていたが、医者と薬代が高くてやっていけない。――ついに借金をこさえて、おっかさんが亡くなると同時にくるわに売られたという。

 散々虐さんざんいじめた、おっかさんも亡くなる前には、おせんに感謝しながら息をひきとったという。あっしの居ない間におせんがそんな苦労をしていたなんぞ知りもしねえ。帰ってきたら待っているとばかり思っていた。

 ……なんてこったい、おっかさんの薬代のためにおせんは女郎じょろうになっちまった。


 すぐさま、あっしはおせんを探しに吉原へ行った。

 あっちこっちの女郎屋を訪ね歩いて、ようやく売られた御店(おたな)を就き止めた。そこは吉原でも最下層の女郎屋で庇の傾いた古い御見世はどぶの臭いがした。この界隈の女郎たちはお歯黒族と呼ばれ、たった百文(二千円ほど)で身体を売る。どこも痩せた貧相な女郎が四、五人で客を取っているような女郎屋だった。

 亭主持ちで若くもない女が売られてゆく先の御店おたなはこんなもんだろう。

 うらぶれた女郎屋の格子見世こうしみせの中から道行く男に声を掛けるおせんが見えた。その憐れな姿にあっしは路地に隠れて泣きやした。小さいながらもお店の女将だったおせんをここまで零落おちぶれさせたのはあっしのせいだ……とても合わせる顔がない。不甲斐ない亭主のために苦界くかいに身を沈めた女房に泣きながら詫びていた。


 おせんを身請けしたくとも銭がない。

 何としても職につかねば……身から出た錆とはいえ、人足寄場帰りのあっしには世間の風は冷たい。方々の縁者に頼み歩いて、やっと親父の代から付き合いのあった飾り職人の親方の所で働かせて貰うことになったが、食うだけの僅かな賃金しか貰えねえ。

 それでも住む場所が与えられて良かった。これから何年かかろうとも、必ずおせんを身請けするんだと誓って、あっしは必死で働きました。


 あれから度々、おせんの様子を見に吉原に行きやした。

 けれども、いつも遠くから見ているだけで、男たちの慰め者になっている女房を救いだせない、自分が情けなくて……とても顔を合わせられなかった。

 格子見世こうしみせの中のおせんは見る度に痩せていって、具合が悪そうだった……心配で堪らないが、どうすることもできねえ。てめえの女房にも会いに行けない自分が心底情けなかった――。

 その内、格子見世でおせんの姿を見なくなっちまった。

 あっしは客引きをしている、やり手ばばあに小銭を掴ませて、おせんの様子を聴き出した。案の定、病気でせっているとのことだった。その口ぶりだと病気は重く余命幾ばくもない……という様子だった。

 心底驚いた、あっしはやり手婆あに有り金全部渡して、ひと目だけでもいいから会わせてくれと頼んだ。

 やり手婆あに案内されたのは階段下の暗く狭い行燈部屋あんどんべやだった。せんべい布団に寝かされていたおせんは、もう意識がないのか、昏々こんこんと眠っている。

 あっしは今際いまわきわの女房に駆け寄って手を握った。

 苦界くかいに身を沈めた女が、ここから抜け出る方法は三つしかなかった。一つは年季奉公を勤め上げたて「年明き」で女郎から足を洗うか、二つ目は、客に「身請け」されるか。――そして三つ目は、死んで仏様になった場合である。

 結局、あっしが不甲斐ふがいないばかりに身請けすることもできずに、みすみす死なせてしまう。「すまねえ……すまねえ……おせん……」泣きながら詫びた。

 あっしの零した涙がぽたぽたとおせんの頬を濡らす。――と、不思議なことにふいに目を開けた。

「おせんっ」

「お前さんかえ……」

「すまねえ、お前をこんな目に合わせて……」

「お帰り……会いた……かった……」

「死ぬんじゃねえ!」

「観音様が……迎えに……」

「おせん……」

『南無観世音菩薩』

 念仏を唱え、苦しそうに戦慄わなないて、おせんはがくりとこうべを垂れた。

 あっしは胸が詰まって何も言えず、泣きながら女房を抱きしめていた。おせんの身体からは、すでに死人の臭いがしていたんだ。


 最後まで側に居てやりたかったが、やり手婆あにかされて行燈部屋におせんを残したまま、あっしは出て行った。

 もっと早く身請けしてやれば良かった、盗賊にでもなって大金を作って、おせんを身請けできれば、あんな惨めな死に方をさせずに済んだのに……後悔で胸が張裂けそうだった。あっしは死んでしまいたいと……。帰り道、墨田川すみだがわに飛び込もうと考えていた。

 大橋の上で、

『南無観世音菩薩』

 と、念仏を唱えて橋の欄干らんかんを飛び越えようとした瞬間、着物のたもとを強く引っ張られて、あっしは尻餅をついた。振り向くと、そこにはおせんが立っていた。

「お、おせんっ!」

「お前さん、死んだら駄目だよ」

「……おめえ」

 それは影が薄く、この世の者ではないおせんの姿だった。

「観音様に罰当たりです」

「おめえに申し訳なくて……あっしはもう生きていけねえー」

「いいんですよ。これは子を産めなかった石女の罰ですから、お前さんは天寿てんじゅまっとうしておくれ」

「子なんか産めなくても、お前はいい女房だった。それに気づかずにおっかさんと二人で虐めて悪かった」

「いくらお参りしても子はさずからなかった。お前さんやお義母さんに子を抱かせてやれずに……」

 悲しそうな顔でおせんは頭を下げて詫びた。

 あの時、浅草寺の観音様にお百度参しゃくどまりしていたのは子を授かりたいためだったのかと、その時、初めてあっしは気づいた。邪心じゃしんから誤解していたことを恥じた。

「夫婦は二世にせいを誓った仲だよ。先にってるから、お前さんも後から来ておくれ……また来世らいせで暮らせるんだから……」

「ああ、今度こそは幸せに暮らそうな」

「あい。――その時が来たら、迎えに参ります」

 その言葉を残して、あっしの前からおせんは消えやした。

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