れきし脳

泡沫恋歌

観音様と女房 其の一

 駿河湾するがわんのぞむ、沼津ぬまづから男は乾物の商いに来ていたが、荷がなくなったので在所ざいしょに帰ることになった。江戸に行ったら浅草寺せんそうじにお参りしてくるように言われて、雷門かみなりもんまで来たが陽が暮れた境内には人影もない。

 仕方なく寺を後にしようとしていたら、どこからともなく貧しい身なりの年寄りが現れた。物乞いかと思い、巾着きんちゃくから小銭を投げてやると拾って返した。

「あっしは乞食じゃござんせん」

「そりゃあ、悪かったなあ」

「旅のお方、こんな夕暮れにどこへ行きなさる」

「沼津の宿から江戸に商いに来た者だが、雷門にお参りに来てみたが陽が暮れて誰もいない、観音様の護符ごふも貰えないのでもう帰るところだ」

 男は落胆して、そう答えた。

「陽が暮れると御坊たちは本堂の奥に帰ってしまわれる」

「訪れるのが遅かったようだ」

 汚い年寄りだと思っていたが、柔和にゅうわな目をした育ちの良さそうな爺様である。

「今から沼津の宿しゅくにお帰りですかい」

「いいや、今夜は宿屋を探して泊るつもりだ」

「だったら、あっしの話を少し聴いてくれまいか」

 いきなり、そんなことを言い出した。

 寂しい年寄りかと思い少し相手をしてやろうかと男は思った。どうせ、この後は宿屋で寝るだけなので急いではいない。


「あっしは清吉せいきちと飾り職人でござんす。親の代からの職人で小さいながらも雷門の参道に店を構えておりやした」

 独りごとのように、爺様が喋りだした。男はふむふむと気のない相槌あいづちを打った。

「おせんという気立ての良い働き者の嫁がおりやして、それとあっしのおっかさんと三人暮らしでござんした。嫁して五年経つが赤子あかごはまだ授からなんだ」

 いつの間にか、二人はお堂の石段に腰を下ろして話し始めた。

「ある時、飾り職人の集まりで、吉原にかんざしを卸すことになりやした。あっしも腕を買われて廓から注文を受けて、商いの話をするため初めて吉原へ行ったんでさあ。昔から堅物と呼ばれていた、あっしはそういう悪所に足を踏み入れたことがなかったもんで……すっかり、吉原の煌びやかさに当てられちまった。廓の主人に遊んでゆけと勧められて、遊女を抱いてしまったが、それが間違いの元だった――」

 爺様は深いため息を吐いた。

 どんな事情か知らないが、ああいう悪所には男を狂わせる瘴気しょうきでも漂っているのだろうか。

 月明かり下で爺様の話に男は耳を傾けていた。いつの間にか境内の石灯籠にぼんやりあかりがともっていた。


 あっしは、それから吉原通いがやめられなくなっちまった。

 馴染みに夕凪ゆうなぎという女郎ができて、そいつにぞっこん惚れ込んでしまい、家業も身が入らず遊んでばかりで店から金を持ち出しては夕凪に貢いでやした。

 女房のおせんは、そんな亭主に文句も言わず我慢していましたが、うちのおっかさんは倅が吉原通いをするのは、お前が子を産まないからだと、「この役立たずの石女うまづめ出て行け!」とよく怒鳴っていやした。

 厨房の片隅で泣いている、おせんを何度か見かけたこともあったが、あっしには情をかけてやる優しさすらなかった。

 元々、おせんはおっかさんが働き者の娘がいるからと連れてきた嫁で、深川で生まれ育ったが、十五の時に両親や兄弟を流行り病で次々と亡くして、身寄りもなく、天涯孤独な身の上でした。

『女は三界に家なし』というが、姑に「出て行け」と言われても、おせんに帰る家などはありやせん。


 ある夜、あっしは吉原で遊んで真夜中近くに帰ってきてやした。

 ほろ酔い加減でふらふら歩いていると、浅草寺の雷門辺りに白い人影が見えたんでさあ……。よく見ると、あっしの女房おせんだった。

 こんな時分に、何をやっているのかと隠れて見ていたら、裸足で雷門と本堂を行ったり来たりしていた――あれはだった。

 浅草寺ご本尊は観世音菩薩かんぜんおんぼさつで、隅田川で漁をしていた漁師兄弟の網にかかったもので、その仏像を兄弟の主人に見せたところ、これは有難やと自分の家をお寺にして供養したそうで、それが浅草せんそうじ寺の始まりでござんす。

 おせんは嫁にきた当初から信心深い女だった。

 観音様は多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。――そう言って、朝晩欠かさず『南無観世音菩薩なむかんぜんおんぼさつ』おせんは観音様にお参りしてやした。

 無心になってお百度を踏む女房を見ていると、あっしは急に酔いが醒めて気分が悪くなってきた。……いったい何をがんかけしているのだ。お百度参りは吉原通いをしている亭主への当てつけみたいで不愉快だった。

 そんとき、あっしは《この女は亭主に呪いをかけているんだ》きっとそうだ。そうに違いない。

 吉原通いが止められない後ろめたさから、あっしは勝手にそう思い込んで。――そのまんま踵を返し吉原へ逆戻りした。


 それ以来、家にも帰らなくなっちまった。

 数日後、遊ぶ銭がなくなったので家に戻ったあっしは、手文庫から銭を持って出ようとすると、おせんが、「それは明日出入りのお店に払う金子きんすです」と文句を言いやがる。「うるせいっ!」と頭にきたあっしはおせんを殴った。恨めしそうな目で黙って耐えているあいつが余計に憎らしく思えて、さらに殴る蹴るの仕置きをしました。

 遊女の夕凪に岡惚おかぼれしていたあっしは、女房のおせんがうとましくて仕方なかったのです。

 その後、女道楽が止まらなくなったあっしは、廓に出入りしていたやくざに騙されて、ついに博打にまで手を出してしまい。瞬く間に身代しんだいを潰して店も人手に渡っちまって、おせんとおっかさんは店を追われて小さな長屋へ移っていた。

 そして銭の無くなったあっしを夕凪は冷たくあしらう様になった。

 しょせん女郎なんて……銭のない客なんて相手にしやせん。――そんなこと分からず、会ってくれない夕凪に恋慕れんぼして、頭に血がのぼったあっしは「夕凪に会わせろー」と廓で大暴れして役人にしょっ引かれちまった。

 そのまんま、石川島人足寄場いしかわじまにんそくよせばに送られる破目になりやした。馬鹿な男でさあ――。


 そうして罪人ざいにんになったあっしをおせんが見送りにきた。

 手に持っていた観音様のお守りをあっしに渡そうとお役人に泣いて頼んでいました。そのけな気さに心打たれたお役人の温情に許されて、

「お前さん、待ってるから……達者で帰ってきて……きっと観音様が守ってくださる」

 涙を流しながら紐のついた護符をあっしの首に掛けてくれた。――罪人は手には縛めがあるんでね。その時、おせんの熱い涙と心情に触れて、あっしはやっと目が覚めた。

 これから三年、石川島人足寄場で罪を償って還ってきたら、今度こそ良い亭主になろうと観音様と女房に誓いやした。

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