れきし脳
泡沫恋歌
観音様と女房 其の一
仕方なく寺を後にしようとしていたら、どこからともなく貧しい身なりの年寄りが現れた。物乞いかと思い、
「あっしは乞食じゃござんせん」
「そりゃあ、悪かったなあ」
「旅のお方、こんな夕暮れにどこへ行きなさる」
「沼津の宿から江戸に商いに来た者だが、雷門にお参りに来てみたが陽が暮れて誰もいない、観音様の
男は落胆して、そう答えた。
「陽が暮れると御坊たちは本堂の奥に帰ってしまわれる」
「訪れるのが遅かったようだ」
汚い年寄りだと思っていたが、
「今から沼津の
「いいや、今夜は宿屋を探して泊るつもりだ」
「だったら、あっしの話を少し聴いてくれまいか」
いきなり、そんなことを言い出した。
寂しい年寄りかと思い少し相手をしてやろうかと男は思った。どうせ、この後は宿屋で寝るだけなので急いではいない。
「あっしは
独りごとのように、爺様が喋りだした。男はふむふむと気のない
「おせんという気立ての良い働き者の嫁がおりやして、それとあっしのおっかさんと三人暮らしでござんした。嫁して五年経つが
いつの間にか、二人はお堂の石段に腰を下ろして話し始めた。
「ある時、飾り職人の集まりで、吉原に
爺様は深いため息を吐いた。
どんな事情か知らないが、ああいう悪所には男を狂わせる
月明かり下で爺様の話に男は耳を傾けていた。いつの間にか境内の石灯籠にぼんやり
あっしは、それから吉原通いがやめられなくなっちまった。
馴染みに
女房のおせんは、そんな亭主に文句も言わず我慢していましたが、うちのおっかさんは倅が吉原通いをするのは、お前が子を産まないからだと、「この役立たずの
厨房の片隅で泣いている、おせんを何度か見かけたこともあったが、あっしには情をかけてやる優しさすらなかった。
元々、おせんはおっかさんが働き者の娘がいるからと連れてきた嫁で、深川で生まれ育ったが、十五の時に両親や兄弟を流行り病で次々と亡くして、身寄りもなく、天涯孤独な身の上でした。
『女は三界に家なし』というが、姑に「出て行け」と言われても、おせんに帰る家などはありやせん。
ある夜、あっしは吉原で遊んで真夜中近くに帰ってきてやした。
ほろ酔い加減でふらふら歩いていると、浅草寺の雷門辺りに白い人影が見えたんでさあ……。よく見ると、あっしの女房おせんだった。
こんな時分に、何をやっているのかと隠れて見ていたら、裸足で雷門と本堂を行ったり来たりしていた――あれはお百度参りだった。
浅草寺ご本尊は
おせんは嫁にきた当初から信心深い女だった。
観音様は多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。――そう言って、朝晩欠かさず『
無心になってお百度を踏む女房を見ていると、あっしは急に酔いが醒めて気分が悪くなってきた。……いったい何を
そんとき、あっしは《この女は亭主に呪いをかけているんだ》きっとそうだ。そうに違いない。
吉原通いが止められない後ろめたさから、あっしは勝手にそう思い込んで。――そのまんま踵を返し吉原へ逆戻りした。
それ以来、家にも帰らなくなっちまった。
数日後、遊ぶ銭がなくなったので家に戻ったあっしは、手文庫から銭を持って出ようとすると、おせんが、「それは明日出入りのお店に払う
遊女の夕凪に
その後、女道楽が止まらなくなったあっしは、廓に出入りしていたやくざに騙されて、ついに博打にまで手を出してしまい。瞬く間に
そして銭の無くなったあっしを夕凪は冷たくあしらう様になった。
しょせん女郎なんて……銭のない客なんて相手にしやせん。――そんなこと分からず、会ってくれない夕凪に
そのまんま、
そうして
手に持っていた観音様のお守りをあっしに渡そうとお役人に泣いて頼んでいました。そのけな気さに心打たれたお役人の温情に許されて、
「お前さん、待ってるから……達者で帰ってきて……きっと観音様が守ってくださる」
涙を流しながら紐のついた護符をあっしの首に掛けてくれた。――罪人は手には縛めがあるんでね。その時、おせんの熱い涙と心情に触れて、あっしはやっと目が覚めた。
これから三年、石川島人足寄場で罪を償って還ってきたら、今度こそ良い亭主になろうと観音様と女房に誓いやした。
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