第6話 再会

 俺は桜子の家の前の道に駐車して、車から降りると、桜子の家の敷地に足を踏み入れた。広めの敷地に母屋と納屋が建っている。土地がふんだんにある田舎によくある構成だ。庭の柿の木も鯉が泳いでいる池も見覚えがあったが、記憶が定かでなかった。

 俺はガラガラと玄関の引き戸を開けて、「ごめんください」と挨拶した。それが田舎で人の家を訪れるときの流儀だった。出てきたのは、桜子の母親だった。髪は白髪になり、腰も少し曲がっていた。俺は「ご無沙汰しています」と挨拶した。おばさんは、すぐに俺のことを認識して、「あら~、誰かと思えば、樹くんだね? しばらくだね~。すっかりいい男になって~」などと大げさに出迎えてくれた。

 家の居間に上がると、ソファに白黒の猫がいた。近所で見つけた猫で、三年前から子猫の頃から飼っているということだった。俺は猫の隣に座った。「ルナ」と呼ばれる猫は、俺に撫でられるがままになっていた。桜子は、部活の指導で学校に行っているが、あと一時間くらいで帰宅するのではないか、ということだった。

 麦茶をいただきながら、おばさんに佐都に戻ってきたことを話した。その後、おばさんが桜子の近況について話してくれた。桜子は今、中学で国語の教員をしているという。また、再婚はしていないという話だった。

「ときに樹くんは結婚してるよね?」

 俺が「まだです」と答えると、おばさんは「あら~、本当」と半ば憐れむような驚きの声を発した。

「実は目下婚活中で、たった今、婚活BBQに行って来たところなんです」

「あらそう。樹くんも結婚する気あんだね。どうだいウチの桜子は?」

 冗談めかしながらも本気とも取れた。

「それは……光栄です」

 おばさんは笑い出した。「光栄」は大仰だったようだ。

「前に学校の先生と付き合うことになったと聞きましたけど」

「だいぶ前の話だね。その人とは同居してたんだけどね。別れたよ」

 おばさんは膝上に移動した猫を撫でながら言った。

「あの子は堪え性がなくて困ってしまうわ。まあ、仕事は見つかって良かったけど」

 不意に「ドドド」というエンジン音が聞こえてきた。「透が帰ってきた」とおばさん。エンジン音が消えると、しばらくしてから「ただいま」という声がして、上がってきたのは高校生くらいの男の子だった。俺はその子を見て、「あっ」と声を上げそうになった。その子は功にそっくりの船で見た子だったからだ。彼は俺に会釈すると、二階に上がった。

「大きくなりましたね。しかし、功によく似ていますよね」

 おばさんは透が今年から高校生になり、サッカー部で熱心に練習していることや、学業成績が上位であることを自慢げに話した。

「よく育ってくれたわ」

「父親のことは記憶にないんですか?」

「ないでしょう。まだ二、三歳の頃に出て行ってそれっきりだから」

「父親に会いたがったりしないんですか?」

「そうだね。子どもの頃は、そういうこともあったかもしれんけどね。今は、何も言わないね」

「そうですか……」

「功くんとは連絡取ってるの?」

「いえ、もう十年以上連絡取ってません」

「そうかい。どうしてるのかね~。たまには家に寄ってくれてもいいのにね~」

「まったくです」

「さて、そろそろ夕食の仕度しないと」おばさんは時計を見て言った。七時に五分前だった。「樹くんも食べて行ってね」


 俺が居間のテレビでイブニングニュースを見ているとき、桜子が戻ってきた。約十年ぶりに会う桜子は俺の顔に一瞬「誰?」という表情を見せたが、俺とわかるや否や驚きと喜びの表情に変わった。

「樹? うわっ。びっくり!」

 アポなしで来て驚かせたかった、と俺は言った。お互いに三八となった今、外見は中年のそれへと変わっていたが、桜子の反応から今でも昔の記憶が確かにお互いを結び付けていることを確認できた。

 俺たちは飲み物と刺身やからあげなどの料理を運んで桜子の部屋に行った。記憶とは明らかに異なる部屋になっていた。映画のポスターに代わりに透が描いた絵が飾られ、俺たちが抱き合ったベッドもなくなっていた。

 俺たちは円形のローテーブルの周りに座って、ビールと烏龍茶(俺は運転しなくてはならなかった)で乾杯すると、空白の十年を埋めるべく、その間のお互いの人生について話した。桜子は通信教育で教職免許を取得して、今の中学の国語教師の職を得たという。次に俺が今の状況を話すと、「お互いにどうにか自立できてよかったね」と桜子。俺が最後に電話で話したときのことに触れると、桜子はそのとき話した人と結婚を前提で付き合い、同居するも一年しないうちに同居を解消したことを話した。

「同居でいろいろとわかるでしょ。その人も同居する前は、優しかったし、いろいろと話し合えた。だけど、同居すると、そういうところが消えて。亭主関白っていうのかな。家事は全部わたしがやって当然みたいな。そんなところに嫌気が差してね。そのうち一緒にいるのも苦痛になってしまって……。それから他にも付き合った人はいたけどね。なかなか難しいね。樹はどう?」

 俺は桜子と最後に連絡を取ってから今までに付き合った人は二人いたが、いずれも半年以内に別れていた。その内の一人は、自分が好きになっただけに、別れは辛かった。クラブで知り合った子で、なかなか映画や本に造詣が深くて、気が合った。しかし、俺はその頃、まだ時給で働くバイトの身分で、結婚相手として問題があった(俺は三一で相手は三三だった)。彼女は「結婚を考えられないからもう付き合えない」と言って、俺から去っていった。それからしばらく俺は生きる希望を失い、半ば自暴自棄になり、酒やタバコに加えて、ピンサロの女に溺れた。俺がその過去の古傷について話すと、桜子は「お互いにパートナーに恵まれないね」と笑った。

「そういえば、船で透に会ったよ」

 俺は言うべきことを思い出した。

「ほんとに!?」

「うん、透だったとはね。功と似てるな~と思って、正面からマジマジと見てしまったよ」

「似てるよね。でも性格はどうかな。あの人みたいにチャランポランじゃない」

「功から連絡は?」

「もう何年もないよ。今、どこで何をしているのやら」

「俺ももう連絡先もわからない。両親に訊けば教えてもらえるかな」

「かもしれないけど、今更連絡取ったところで、どうなるわけでもないし。透が会いたがれば別だけど」

「……今、透は何をしてるの?」

「さあ、夏休みの宿題でもやってるか、音楽聴いてるか」

「ちょっと話してもいいかな?」「もちろん」

 俺は桜子といっしょに透の部屋に行った。透は机に座って夏休みの宿題をやっているようだった。壁にはサッカー選手のポスターや俺の知らないミュージシャンか誰かの白人のポスターが貼ってあった。桜子が俺のことを高校の頃の友達として紹介してくれた。

「船であなたに会ったそうよ」と桜子が言うと、透は俺のことをまともに見た。しかし、見覚えがないようだった。桜子に向かって首をひねった。

「透くんは、甲板で音楽聴いてたよね」

 俺が言うと、「はい……」と驚いた様子で俺のことを見た。「すみません。やはり覚えていません」

「ハハ、謝ることはないよ。俺の方こそマジマジと見て、礼儀知らずのことをしたから、謝るとしたら俺の方だよ。それほど似てるんだ。お父さんに。透くんは覚えてないだろうけど。俺は昔、お父さんと親しくしていてね。そう、ちょうど今の透くんの歳に知り合ったんだ。俺にとっては眩しい存在だったよ。人気があった。スポーツも勉強もできたし、性格が気さくでね。俺なんか、ほんとに暗かったし、彼と友達でなかったら、俺の高校時代はもっと暗かったと思うよ。お母さんとも知り合ってなかったかもしれないしね……」

 俺は透の表情が冴えないことに気付いた。

「その人には興味ありませんから」

 透は冷たく言い放った。


「無理もないわね。彼の中では、功は最悪な父親だからね。実際、そうだし。似てると言われるのも嬉しくないんだろうね」

 桜子の部屋に戻ると、桜子は言った。

「じゃあ、会いたいなんていう状況ではないんだ」

「そうなんだよ」

 そう言う桜子は寂しそうな表情をしていた。桜子はこの問題で悩んできたのだろう。「無理もない」というのはその通りだ。しかし、子どもが父親に憎しみを抱いているのは、残念なことである。功が透の前に現れない限りは、この問題は解決の端緒に着くことさえできない。俺は何とかできないかと考えたが、自分が仲介できることに気付いた。俺は当事者ではないし、功も俺に対してなら、気後れすることもないだろう。このまま一生、子どもと会わないのは功にとっても不幸ではないだろうか? それはわからないが、俺自身、功が今、何をしているか、また桜子や透のことをどう思っているか知りたかった。そこで俺は功の実家に電話してみる、と申し出た。


 次の日に功の実家に電話して、功の母親に訊いたら、携帯番号に加えて、東京で司法書士の仕事をしていることも教えてくれた。俺は功がちゃんと働いていることに安堵した。

 その夜、自分の携帯電話から功の番号に掛けると、四度目のコールで功が出た。警戒するような声で「もしもし」という声には聞き覚えがあった。周りはしんとしていた。

「功か? 久しぶり」

「……誰ですか?」

「俺だよ……」

「……えーと」

「最近、佐都に戻った」

「ああ、やっぱり樹?」

「当たり」

「……久しぶり」

 俺がSkypeでのやりとりを提案すると、可能ということだったので、すぐにSkypeの音声通話に移った。

 功は三〇代前半から司法書士として働いているという話をした。また、それまで司法試験に挑戦していたことも。さらに、五年前に結婚して今、マンションに奥さんと二人で住んでいるという話も出た。お互いに近況についてひと通り話すと、功の方から桜子について訊いてきた。

「桜子とは会った?」

「ああ、昨日会ったよ。元気そうだった。今は中学校で国語の先生をしている。透にも会ったよ。功にそっくりなんだ」

「へぇ~」

 俺は船で偶然透に会って、功を思い出したことを話した。

「今度、写真もらったら、功にも送るよ」

「……俺のこと何か言ってた?」

「……功は桜子や透に会いたいとは思わないの?」

「思う。最近は特に」

「実は透は功のことをよく思ってない。まあ、自業自得だよな。でも、桜子は大人だし、功のこと許すかも。まず桜子に連絡取ってみたら」

 功に桜子の携帯番号とアドレスを教えてから、Skypeを切った。俺は浪人生の頃と同じように、二人の問題に首を突っ込んでいることに苦笑した。今の感じでは透が拒否する可能性が高いが、もし透と対面したら、お互いに驚くだろう。よく自分のDNAを残したいという人がいるが、功がそうだったら、最高に幸せな体験になるのではないだろうか? 自分にはあまりそういう願望はないが。


 それから数日後、夜、仕事中に桜子から功からメールがあったとLINEで連絡があった。俺たちはLINEで話した。桜子は功を許したわけではないが、昔のことは水に流せるだけの時間が過ぎたから、今更どうこう言わないと話した。

「私たちもう中年だもんね」桜子は言った。「今は昔のことを棚卸しするにはいい時期だね。樹には感謝してるよ。昔から樹には功のことでお世話になってるね。フフフ……。功、近々私たちに会いに佐都に来るって。そしたら、三人で会おうか?」

「いいね。功が来ること透に話した?」

「まだ。いずれ機会を見て話そうと思ってる。彼が功と会うことを承諾するとは思わないけどね」

「確かに……。でも、透ももう子ども扱いできる年齢でないし、彼の意見を尊重するより他ないだろうね」

 LINEでの通話を切ると、俺は仕事を再開しようとしたが、三人で会うことが気になって、仕事に集中できなかった。高校生の頃のようにというわけにはいかないだろう。こういうのを腐れ縁というのだろうか? 相当生々しいつながりだ。過去が今また蘇ろうとしているようだ。ただ、今は透がいる。特に功にとっては透の存在が大きいはずだ。功は自分が過去に犯した過ちと向き合わなければならない。彼はやはり桜子と透に謝罪しなくてはならないだろう。俺は傍観者だ。いや、違う。俺は桜子が独り身でいることを知って嬉しかった。今、桜子と付き合う上で物理的な障害はない。そして、それを望んでいる以上は、この問題にも関わらずにはいられない。

 そんなことを考えているとき、ドアをノックする音が聞こえた。俺は反射的にキーボードに手を置き、仕事をしている振りをした。

「仕事は順調?」

 実家に寄っている妹がいつものユニクロのスウェット姿で入ってきた。

「ぼちぼちかな」

「こんなの訳してるんだ。難しそう」と翻訳中の英文を眺めて、妹が言った。それは契約書の翻訳の案件だった。

「慣れればそうでもないよ」

「ふ~ん。ところで、この前のBBQどうだった?」

「いい経験だったよ。俺、BBQ初めてだったし。まあ、個人的にはBBQのようなまどろっこしいことはあまり好きではないかな」

「それで、出会いはあったの?」

「連絡先交換した人はいるけど、また会うことはないだろうな」

「何でよ?」

「……タイプじゃないから」

「贅沢言える立場なわけ? せっかく連絡先交換したなら、会ってみればいいじゃない」

「嫌だよ。お前だって、誰とでも会うわけじゃないだろ」

「そうだけど。わたしはお兄ちゃんのこと……。もういいわ」

 妹はドアをバタンと閉めて、部屋から出て行った。まさにこういう押し付けがましさを当てにして、俺は田舎に戻ってきたのだ。だが、見通しが甘かったようだ。恋愛抜きで結婚は難しい。想像できない。俺はしばらく恋愛していなかった。そのために、恋に恋するように、結婚に恋をしていたのだ。形だけの結婚は孤独を終わらせるどころか、むしろ孤独をいっそう深めるだろう。

 こんなことを思うようになったのも桜子の存在が大きい。またしても桜子への思いにとらわれそうだ。今度こそ、お互いにとって、最終的なパートナーとなれるだろうか?


 それから数日して、季節が秋に変わりつつあり、涼しくなってきた頃、夕食を摂り、仕事をもうひと頑張りしようとしてPCに向かっていたときに桜子から電話があった。

「ねぇ、今、ちょっといい? これから一緒に病院に行ってくれない?」

 その声色にはどこか差し迫った雰囲気があった。

「どうした?」

「透がバイク事故を起こしたって、警察から電話があって――」

 それからほどなくして、桜子の車が俺の家の前に来た。俺は急いで車に乗り込んだ。桜子は部屋着のスウェット姿だった。俺はジーンズにシャツという外出用の服装に着替えていたが、自分だけ悪い気がした。

「巻き込んじゃってごめんね。一人で行くのがちょっと怖くて」

 車が走り出すと、俺は窓を少し開けて、風を入れた。

「詳しいことはまだわからないの」

 桜子は一言そう言っただけだった。夜道、桜子のワゴンRは法定速度を多少オーバーして、音楽もなしにストイックに移動に専念していた。車内には不穏な沈黙が流れている。しかし、俺には沈黙を破ることができそうもなかった。

「実はね。昨日、功が来ること透に話したの」

 不意に桜子が沈黙を破った。

「透が功を憎んでいるのはわかってるけど、たぶんそんなに単純な話じゃないって思うの……。透も功に強い興味があるはずなの。透は小学校の高学年の頃から父親がいないことを一度も愚痴ったりしなかった。それは彼にとって父親の存在が小さいからではなくて、彼が必至になって父親の存在を無視してきたからだと思うの。きっと透も本心では功と和解したいのと思ってると思うのよ。だから、わたしは説得を試みた。でも、難しかった。透は会うつもりはないって言い張った。さらに私が功と会うことを理解できないとも……。まだ時期が早すぎたのかも。体は大きくなっても、精神面はまだ子どもなのよね。こんなことになるなんて。透に話すべきではなかった」

 桜子は目に涙を浮かべていた。

「それは結果論だよ。それにそもそも事故との間に因果関係があるかどうかわからないし」

 俺はそう言ってから、それが慰めでしかないことに気付いた。そこに因果関係があるかないかと言えば、あると考えるしかない。俺も桜子の立場なら同じことを考えるだろう。とはいえ、やはり結果論というのも確かで、このような結果を想定できたわけではない。出来事とは本質的に想定を超えているものだ。

 病院に着いたが、透はICU(集中治療室)で治療中ということで、俺たちは治療が終わるのを待たなければならなかった。その間、若い男の警察官から事故の状況を教えてもらった。警察によると、単独事故で、透のバイクは下山田しもやまだのカーブを曲がりきれず、ガードレールに激突し、ライダーだけ崖下に転落した、ということだった。透が事故を起こした場所は、山道で崖は柿畑になっていた。

 数時間後、医師と看護師たちの一群がICUから出てくると、俺たちは別室で話を聞いた。そこには透のものと見られるレントゲン写真が三枚ほど掲げてあった。

「幸い脳や背骨は無事ですが、決して軽い怪我ではありません。最悪の場合、下半身不随になる可能性があります」三〇代から四〇代と思われる、精悍な顔つきの医師だった。俺たちのことを夫婦と見ているようだ。症状は、腕と肋骨を骨折、肺と肝臓を損傷、腰を複雑骨折ということだった。現在麻酔で眠っており、明日の昼には目が覚めるだろう、ということだった。レントゲン写真は正視に堪えなかった。

 俺たちはその後、白衣と帽子を着用して、ICUに入って、麻酔で眠っている透を眺めた。呼吸器を着用し、点滴を刺され、体を固定され、見るも無残だった。

 ICUから出ると、車に向かった。車に到着後、俺は運転を申し出ると、運転席に座り、車を出した。俺たちはまたしても沈黙の中、車の通りがほぼ皆無の深夜の道路を運転した。今では行きの時の緊迫感はなかったが、やはり重苦しい雰囲気に支配されていた。最悪の事態ではなかったが、あまり安心できる症状でもなかった。

「命が助かっただけでもよかった、と考えないと」

 俺は何度か言おうかどうか躊躇した後、口に出した。

「そうね」

 桜子は応えたが、感情は篭ってなかった。

 桜子の家に着くと、「ちょっと寄っててよ」と桜子が言った。俺は疲れていたが、桜子の部屋に上がった。桜子はしばらくぼぅっとベッドに腰掛けていたが、徐々にすすり泣きが激しくなり、やがて感情を爆発させた。「こんなことになるなんて!」桜子は顔を両手で覆って、そう叫んだ。俺は桜子を抱きしめた。それから俺たちは貪るようなキスを交わすと、桜子が俺の服を脱がし、自分の服も脱いで、俺の一物を扱いたが、それはなかなか固くならなかった。

 俺はその夜、桜子と同衾した。肌の触れ合いが切望された。惨事の後のショックが非日常を要請するのだった。性の交わりだけが俺たちに生み出せる唯一の非日常だった。俺たちは動物的な性交をした。

 翌朝早く、俺は桜子に車で送ってもらって、家に戻った。肌寒い雨の日がさらに気分を沈ませた。お互いに仕事へと身を投じなければならなかった。桜子は教師という職業上、授業をこなし、普段通りを演じなければならなかった。俺は「一日くらい休んでも平気じゃないか?」と言ったが、「そういうわけにも行かない」と桜子。


 次の日の夕方、俺はまた桜子の運転する車で病院に行った。桜子によると、透は麻酔から目覚め、ICUから大部屋に移ったということだった。

「功に事故のこと話したの。そしたら、週末にこっちに来るって」

 車の中で桜子は俺に言ったが、俺は(そしてたぶん桜子も)透の状態で頭がいっぱいで、今、功のことを考える余裕はなかった。

 透の病室に着いたとき、透はベッドを軽くリクライニングさせてテレビを見ていた。

「透、具合はどう?」

 桜子が透の様子に安堵の表情を見せて、透に言った。透は俺たちの方に視線を向けた。

「心配かけてごめん」

 透は桜子に言った。桜子は泣き出した。透は目が覚めたときは、全身が痛かったが、今は麻酔でなんとかなってる。片手が使えないのと、歩けないのは不便で仕方がない、と話した。「その体なんだから、仕方ないでしょ」と桜子。桜子は透から欲しいものや必要なもの訊いて、メモした。それから、桜子が「まあ何とか大丈夫そうで良かった」と言うと、透の口から思わぬ言葉が発せられた。

「そうだ。俺、やっぱり父さんに会うよ。せっかく生き残ったんだし。それに俺も本当は会ってみたいし」

 俺たちは功の話題には触れないようにしていたが、透から言い出したことで、顔を見合わせた。

「そっか。そりゃ功も喜ぶよ。もうすぐ会えるから楽しみにしてな」と俺。

「ごめんね。わたしが動揺させること言ったせいで、事故起こしちゃったんだね」

「違うよ。そんなんじゃないよ」と透はきっぱりと言った。

 俺たちは病室を出た後、担当医から話を聞くと、順調に回復に向かっている、という話だった。障害が残るかどうかはまだ何とも言えないということだった。


 俺たちは桜子の家に着くと、桜子の部屋でビールで祝杯をあげた。

「昨日は一睡もできなかったけど、これでやっと眠れるわ」

「俺もだよ」

「あっ、そうだ。功に連絡しないと」

 桜子はスマートフォンのLINEから功に「透が会いたいって!」とメッセージを送り、その後スタンプを送信した。

「これで功もきっと足取り軽くなるね」と俺。

「うん。でも、功が透にしたことを考えると本来なら足取り重いはずなんだけどね。この事故のせいで、透が変わった。功のことを考えながら運転していたとすると、功が導いたようなものかな。代償が大きすぎたけど」

「……どうかな。いずれにしても、功がいなければ透は存在しなかったわけだ。そして、俺もまたこうしてここにいなかったかもしれない。俺から見れば、功が桜子と俺をつなぐかけ橋なんだ」

「わたしから見れば、樹には不思議な縁を感じる。樹とは……つながれてる気がする」

 桜子は俺をまっすぐ見つめて言った。俺はその眼差しからはじめて桜子から告白されたことを悟った。しびれるような快感が走った。俺は桜子の髪の中に手を入れて、髪を撫でると、キスした。それから桜子が着ている、カーディガン、Tシャツ、次にジーンズを脱がして、俺たちは交わった。


 功が佐都に到着したのは秋晴れの日だった。船の改札前で待ち受ける俺と桜子の前に現れた功は昔の面影を残しながらも、頭が薄くなり、俺よりも二、三歳老けて見えた。ともあれ、俺たちは再会のときを迎えられ、お互いに笑顔を見せることができた。このことに俺は感慨を覚えた。

 時間は五時過ぎだったが、俺たちは功の意向を受けて、直接、透のいる病院に向かうことになった。桜子が運転する車の中で、功は桜子にこれまでのことを話した。弁護士を目指して、大学在学中から司法試験の勉強をしていたが、三〇で諦めて、司法書士の資格を取ったこと。佐都島には二年に一度くらい帰っていたこと。桜子に会いたいと思っていたこと。「特にここ最近は、人生が落ち着いてきたせいか昔のことが気になって。船の中や佐都の店かどこかで偶然会えないかっていつも思ってたよ。やっぱり、このままじゃあダメだなって。本当は自分から桜子に連絡すべきだった。……改めて出て行ってごめん」

「もういいよ。最初から一人で育てるつもりだったし。でも、透にはちゃんと謝ってね」

「うん。俺もそのつもりで来たし」

 俺は二人の会話を聞きながら、そこにどこか懐かしいものを感じた。俺は高校生の頃を思い出していたのだ。


 病院に着くと、俄に功の顔がこわばった。

「いざとなると、緊張するな」と功は病室に続く廊下を歩きながら言った。

「功は気をつけた方がいいかもな」

「気をつけるって?」

「ドッペルゲンガーを見たら死ぬって言うから。それほど似てるんだ」

「『ドッペルゲンガー』じゃないでしょ」と桜子は少し刺々しい口調で言った。

 病室の前に来た。功は「蛯原透」の名札をしばらく見つめた後、病室のドアを引いた。(了)

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間(あわい) spin @spin

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