第4話 透の生誕

 桜子が出産したのは翌年のGWゴールデンウィーク中だった。そのとき、俺はと言えば、渋谷で大学の映画サークルの飲み会に参加していた。慣れない酒に酔って、帰宅したとき、留守電に桜子が出産した旨を告げる功の録音が入っていた。また、功は大学を休学して、しばらく桜子の実家で桜子と暮らすことにしたと告げていた。俺はそのとき新生活に適応することに精一杯で、すっかり桜子のことを忘れていた。俺は桜子の実家の番号がわからず、電話をかけ直すことができないことが歯がゆかった。

 結局、俺は二人、もとい三人に会うまで夏休みの帰省シーズンまで待たなければならなかった。

 俺は、帰省した翌日、桜子の家で三人と会った。そのとき男の子の赤ん坊・透をだっこさせてもらった。功も桜子も少し太ったようだった。二人とも幸せそうで、俺は嬉しかった。桜子のことはまだ好きだったが、妊娠・出産した今となっては、父親である功と幸せになることが一番なので、俺はそれを願った。

 俺はその夜、透が寝付いた後、カップルと飲んだ。俺は大学で映画サークルに入ったこと、サークルの奴と友達になったこと、まだ彼女はおろか、一度も女の子とデートしたことがないことを話した。功は「早く彼女つくれ。ただ避妊はしっかり」と自虐ネタをかまして、笑った。

「こんなに早く父親になるとはな。でも、俺たちは順番が狂っただけで、四〇になる頃には、きっと皆と同じような人生を送っているんじゃないかな」

「いや、皆が羨む人生さ。その頃には、子どもが成人になるんだから。好きなことができる」

 俺は言った。

「そうなるといいな」

 桜子がそう言うと、二人は顔を見合わせて笑った。


 俺は彼らの幸せな姿に満足して、東京に戻った。しかし、彼らの幸せは長くは続かなかった。

 功が桜子の家から出て行ったという話を聞いたのは、翌年のGW中だった。GWに帰省した俺は桜子に連絡して、桜子の実家に行った。そこで桜子は、立って歩くことができるようになった透の世話をしながら、功が三月の終わりに書き置きを残して、こつ然と姿を消したことを話した。

「まあ、兆候には気付いてたけどね」

 桜子はその具体例として、グアム旅行で功が旅行中の女子大生と嬉しそうに話してたいたことや佐都でも東京の情報が載っている雑誌を読みふけっていたこと、一度精密機械工場で働いたが、一カ月で辞めて、家で勉強していたことを挙げた。

 桜子は「ちょっと待ってね」と言って、居間を離れて、二階に向かった。俺は母親がいなくなって、不機嫌になった透をだっこした。透は俺の顔に手を伸ばして、俺の顔を熱心に触った。俺は父親の不在を思って、不憫になった。

 桜子は俺にA4のルーズリーフに書かれた短い文章を見せた。それは功の書き置きだった。


『桜子へ

 こういう形で桜子の元を去ることになってごめん。

 やっぱり俺には父親は荷が重かった。佐都での暮らしにももう耐えられそうにない。一方的で本当に申し訳ないけど、俺は自分の可能性を追求したいんだ。二人には寂しい思いをさせるかもしれないけど、これ以上、佐都にいても自分が腐りそうで。育児は俺がいなくても桜子とご両親とで何とかなりそうだし。俺なりに父親としての義務も多少は果たせたと思っている。

 落ち着いたら、また連絡する。返す返すもすまない。  功』


 俺は功の気持ちもよくわかった。しかし、「しょうがない」というのも桜子には悪い気がした。俺は「功は生活、大丈夫なんだろうか?」と実際的な心配を口にした。

「私の家で暮らすことにしたとき、親から三〇〇万ほどもらったんだって。だから、当面は大丈夫じゃないの」

 それにしても三〇〇万では大学四年間を送るには少なすぎる。バイトと学業の両立は楽ではないだろう。それが功なりの自分への罰ではないだろうか、と俺は思った。

「功も茨の道を歩むことになりそうだな。でも、きっと帰ってくるよ」

「……いい加減なこと言わないでよ。そんなのわからないじゃない!」

「ごめん」

 俺は桜子の強い口調に気圧された。そして、桜子が深く傷付いていることに気付いた。それから沈黙が続いた。

「わたしも功の気持ちはわかるし、賛成したと思うよ。最初は一人で育てるつもりだったし。でも、相談しても良かったのに。相談しなかったことが悔しいわ」

 桜子は悲しそうな顔をした。

「……たまには東京に来なよ。そしたら案内するよ」

 俺は何か桜子が元気になるようなことが言いたかった。

「ありがとう。落ち着いたらね。で、樹は大学楽しいの?」

 それから、俺の話になった。俺は、手広く本を読んでいたが、大学生活が楽しいかと聞かれればそうでもなかった。功のような友達もできていないし、東京と言っても都心まで特急で四〇分くらいかかり、都会生活を送っているとは言い難かった。それに当然のことながら、金銭的にも制約があった。それに加えて、自分が都会に向いているとは思えなかった。映画を見に渋谷に行くことはよくあったが、カフェや服屋などのおしゃれなスポットに入るのはためらわれた。俺にとってはむしろ八王子の方が落ち着いた。八王子のゲーセンや若者の多い通りをぶらつくくらいが自分の身丈にあった余暇の過ごし方だった。

 俺がざっくりとパッとしない大学生活について話すと、「わたしも大学生だったら、同じだと思うわ」と桜子。「なかなか私たち田舎者には難しいよね。でも、あまり変なことになってないようで、安心したわ。やばそうな宗教に走った人の話聞いたからさ」

 俺が人づてに聞いた宗教に走った同級生の話をしたら、案の定、桜子が言及したのは彼のことだった。俺たちは彼の話で盛り上がった。

「一度、断ったのにさ。功がいなくなったら、また来たの。人がまいっているときにつけ込もうとしているのよ。そういう態度に嫌気が差して、門前払いしてやったわ。彼はもう同窓会で同級生に合わせる顔がないでしょうね。あんな風に手当たり次第に勧誘してたら、皆から嫌われるってどうしてわからないのかね」

 俺たちが話をしているうちに、透がむずがり出した。桜子は透のおしりを嗅いで、「うんち」と顰め面をした。俺は桜子がおしめを取り替えるのを見ていた。母親としての桜子が俺には大きく見えた。

 俺は蛯原宅で夕食をごちそうになってから桜子の車で家まで送ってもらった。別れるとき、「また夏にでも帰ったら寄ってね」と桜子。実際は、俺はその夏には寄らなかったが、次の夏とその次の夏に桜子の家に寄った。大学生活最後の夏に寄ったとき、俺たちの関係に変化があった。

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