薬を売る資格(3)

 彼は暫くの間、物言いたげな顔をしてこちらを見ていた。やがて彼は、俺の顔を見

たまま口を開いた。こう言ったトラブルは、お互いが『嘘は言わないが事実は言わな

いのが定石』というセオリーを思い出したような表情をしながら。

 「店長、事情は大体想像付きます。店長が怒るような、言い返したくなるような

言動や態度を、彼はとったのでしょう?」お。分かってくれる? そうなんですよ。

店舗内の空気、彼、結構悪くしてるねん。俺が『分かってくれるか』と安堵の気持ち

を抱いた時、彼は驚くべき言葉を発した。


「店長、事情は分かります。それでも店長、申し訳ないですが彼に謝って下さい」

「えっ? 俺だけが謝るの? おかしくないですか? こっちが悪くないと言う気は

無いですが、こっちだけが悪いという訳ではないんですよ?」

「分かりますが、現状、薬剤師の確保が非常に難しくて、薬剤師を一人採用するのに

もかなりのコストが掛かりますし、しかも、もし今、彼に辞められると、彼の欠員を

埋める事が出来ないんです」


 うーん、それは大変だ。店舗営業が出来なくなるのか。そして俺が我を張って折れ

ないでいると彼は退職するかもしれない。そうなると、営業不可能な店舗が存在して

なおかつ、その責任の一部を俺自身が負わないといけなくなる。というか、そんな責

任、負う事なんて出来っこない。営業遺失金とか無理です。


 俺は、彼に言った。

「分かりました。そんな事態は招きたくないので、彼に謝ります。ただ、彼とは

一緒に働くことは出来ないので、出来ればどちらかが異動というのは無理ですか?」

「それは大丈夫です。薬事部の方で動いて、彼の方をこの店から異動させます」

 俺の要望を予想していたかのように、彼は即答した。まぁ、例の薬剤師からも

「こんな店から出たい」とか言われていたのかもしれないが。


 俺は、ニヤニヤ笑っている薬剤師の所に行き、

「暴言吐いて、ご・め・ん・ね☆」と丁重にお詫びを申し上げ奉り、彼は

「ほんと、店長たるもの部下への言動は気を付け欲しいよね」とありがたいお言葉

を俺に授けて下さった。しばくぞ。


 こうして、この件は一件落着したのだが、その数年後に起こった薬事法改正。今まで足りない足りないと言われていた薬剤師が足りてしまうのだ。

 この業界に居て、こんな事態がまさか起こるとは思っていなかった。いわんや当の

薬剤師の方々も同じだろう。更に『薬剤師の特権的階級が永続的に続く』と思って

いた極一部の薬剤師の方にとっては青天の霹靂だろう。


 状況が一変すれば、特権享受組への接し方も一変する。いや、今までの自身の行動

が、そのまま自分に跳ね返ってくるくらいの変わりようだろう。実は、特権享受組の

皆さんは、正社員契約でなく契約社員の方が多かった。契約社員の方が給料は良いし

不要な残業はしなくても良い(やっても時間外は確実に加算される)

 契約で守られているから、契約外の作業は拒否する事が出来る。一般の人間が気に

する雇用の不安は、『薬剤師』という資格が担保してくれる。そう考えると無理に

正社員にならなくても大丈夫なのだろう。


 ところが法律が改正されると、本部は人事評価の低い契約社員は、契約満了になる

と再雇用の契約を結ばない。これはまぁ当然。彼らは転職先を探す。だが、状況が

微妙に変わっている事を彼らは知ることになる。

 そうは言っても薬剤師は大学に六年通い(当時は四年間)、高い学費を支払って専門知識を獲得した上位資格である。転職先に困る事は無い。ただ、今までのように『店舗に存在してくれてるだけでいい』と人事担当者が発言し、王侯貴族を迎えるような待遇をしてくれる企業が減っている事に気が付く。


 そして、年齢が高い場合は仕事に於いて、相応の実力とリーダーシップと責任を

求められる。これはどんな仕事でも当たり前の事であり、一緒に働いた薬剤師の

皆さんほとんども、責任感とプロ意識を持って働いてくれていた。彼のような例外を

除いてだけど。

 リーマンだって、こういう責任感の欠如した人間は、山ほどいる。ただ、薬剤師と

いう上位資格で法律に守られている事を前面に押し出す態度を取る人間は、極少数と

いっても目立ってしまうのである。


 その彼らは、折角の資格を持ちながらも、店舗では最低限の仕事しかしない。日進月歩の医薬品業界。特に薬剤師となれば、常に最新の情報を手に入れてなければいけない。これを放棄すると同じ薬剤師の中で、大きな後れを取ることになる。

 更に、非調剤店舗だと調剤業務も無い。仲の良い薬剤師と雑談をした時、調剤作業

をやらないと、不思議なもので、そのスキルはどんどん落ちていく。と言っていた。


 それは不思議でもなんでもなく、実際、仕事だろうがスポーツだろが、そんなもん

だろう。なので非調剤店舗から、調剤店舗に異動する薬剤師は、異動前に本部で、調

剤業務の練習をする事もある。実際、調剤業務で取り扱う処方箋薬は、量を間違え

たり、成分を間違えると服用者が簡単に体調不良になったり、死んだりする(実話)

 だから薬剤師本人が、自分のスキルに一定の自信(過信では無い)を持って、調剤

作業にあたらないといけない。あやふやなスキルと知識では出来ない業務である。


 特権階級を享受していた彼らは、こういった調剤業務は勿論、『仕事をするための

最低限の心構え』すらも放棄してしまっている。転職はできるだろうが、環境が変わ

ったのである。周りの同じ薬剤師はライバルになっているので、スキル的に彼らに追

いつかないといけない。

 ただ、心構えを急に変えるのも大変だろうし、差を縮めるのも大変だろう。ライバ

ルだって走っているのである。それも基本的に走り慣れている。彼のように、状況

が変わって慌てて走り出している訳ではない。差を詰めるのは相当大変だろう。


 俺は、薬事法が改正され、本部の薬事部が、『勤務評価に悪い契約社員の契約延長に慎重になっている』という噂を聞いたとき、例の事件の彼を思い出し、最初は感情的に(お疲れさーん。これから大変だね。が ん ば れ )と器の小さい事を思ってしまったが、その後彼の社会人人生を考えると、少し暗い気持ちになり、更に自分も人の事を笑ってられないと考えなおした。人生なんて、なにでどう転ぶかなんてまるで分からない。

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