第18話 李人

 僕の父は、幼い頃から身体が弱く、病床に伏す毎日を送っていたと聞く。

 僕が東京に生まれてすぐ母は事故で他界し、ほどなくして父は病気でこの世を去った。

 病名はわからない。

 まだ幼かった僕にとって、病気の種類なんてものは理解する必要のないことだった。


「…やっぱり東京ここは息苦しいな、李人りひと


 僕の頭を撫でながら、父はよくそう言って笑っていた。

 入院することもなく、家の中で、母のいなくなった寝室から1日空を見上げることが多かった父は、頻繁にある街での暮らしの話をしてくれた。

 僕が何歳の頃だったか、記憶は曖昧だが、その街の話はよく覚えていた。


 東京とは違う、高いビルも立ち眩みしてしまうほどの人混みもない場所。

 美しく自然に囲まれた土地で、鳥の囀りや木々たちの囁きだけが広がる世界。

 澄んだ小川と、春には梅風うめかぜ、秋には秋声しゅうせいが吹く美しい街。

 父は、そんな場所で生まれ育った。


 小さい頃から絵を描くことが好きで、暇さえあれば近くの丘で空を描いた。

 真っ白い画用紙と絵の具セットを握りしめて、この丘を何度も訪れていたのだ。

 成長してからは、本格的に画家になる道を選ぶため東京の美大に通った。

 そこで絵の技術と東京の鬱屈、喧騒を学び、そうして再び生まれ育った街に還ってきた。

 そこから約1年、この街で画家を目指していた父だったが、ついに自力で歩くことができなくなってしまう。

 身体は痩せ細り、東京の病院に半ば強引に入院させられた。

 それから父がこの世を去るその時まで、この街に再び訪れることはなかった。


「あそこから見える空は、本当に綺麗なんだ。

 だから李人、お前もいつかあの街に行きなさい」


 幼かった僕の中に眠る父の言葉を思い出す。

 そうして時々、父はまるでおとぎ話でもするように遠い目をして、僕にそっと語りかけた。


「父さんが好きなあの街には、不思議な女の子がいたんだ。

 彼女はいつも黒猫を連れて、僕の描く絵を隣で眺めていた。

 今もまだきっとあの丘にいると思うんだ。

 だから李人、もしお前があの場所に行くことがあれば、彼女によろしく伝えてほしい」


 もう何度聞いたかもわからない丘で出会った結衣さんの話。

 何度も、何度も、何度も、僕に話してくれた。

 それほどまで父は、この場所を、この丘を、魔女さんを焦がれていたのだ。


「だから、あなたに会えてよかったです。魔女さん」


 ベンチに腰かけ、膝にパステルを乗せた魔女さんは、僕を静かに見上げていた。

 月明かりは僕らを照らし、冷たい風が強く、何度もこの丘に吹いていた。


「…結衣で構いませんよ。魔女は否定しないですけど」


 きっと、魔女さんが父と会っていたのは、美大を卒業してから再び東京に戻る間の1年間。

 毎日のようにこの丘で空を描いていた父の意思をついで、彼女は今もここで絵を描いている。


「結衣さん、あなたはどうして父の意思をついで、ここで絵を描き続けているんですか?」


 答えにくい質問だったかもしれない。

 意思を継ぐことに理由がないと言われれば、それまでだ。

 それでも、ちゃんと話を聞いてみたかった。

 父と結衣さんの間に、どんな物語があったのか。

 彼女のいう魔女の節目も、彼女の描く水彩画の行き先もまだちゃんと彼女の口から聞いていない。

 もっと教えてほしかった。

 幼い僕に言い聞かせた父の言葉をもう1度、思い出したかったのだ。


 最期まで僕は…。


 薄暗い視界の中で、結衣さんが口を開くのを待った。

 だけど、彼女の言葉を聞くよりも先に、僕の限界がきてしまったようだ。


 あと少しだったのに。

 身体が動かない。

 声が、出せない。


 僕は痙攣しながら、そのまま地面に崩れ落ちた。

 遠退いていく意識の中で、魔女さんが大きな声で何かを叫んでいるのがわかった。


 でも、僕の耳には届かない。

 闇の中に引きずり込まれるのがわかる。


 …だめだ。抗えない。


 必死の抵抗も虚しく、今にも途切れそうな僕の脆弱な意識は、夏の夜風と共に消し飛んでいった。










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