第10話 無邪気
「いらっしゃい、お客さん」
次の日、階段を駆け上がると魔女さんが僕を待っていた。
キャンバスには既に空が描き終えられていて、ホウキを片手に端に建てられた手すりに腰掛けている。
今日の空は青空で、遠くの方にまばらな雲が浮かんでいた。
「待ってましたよ、ちゃんとホウキ持ってきたんですからね」
彼女のとなりにはパステルが座っている。
相変わらず、足元にはチーズが置かれていた。
「今日はパステルもいるんですね」
僕の言葉に当然だと言わんばかりの顔をして、魔女さんの足に絡むようにすり寄っている。
どうにもパステルは僕に冷たい気がするのは気のせいだろうか。
「この子飛ぶのが好きなんですよ」
そう言って、魔女さんがパステルの喉元を撫でると、気持ち良さそうにごろごろと鳴いた。
首元には赤い首輪がちらりと覗き、可愛らしい文字で『PASTEL』と書かれているのが見える。
「君も飛んでみたいんだね」
僕の言葉にパステルは小さく頷いた。
その様子を微笑みながら静かに見ていた魔女さんが、ゆっくりと僕に向き直る。
それから手に持っていたホウキに優しく跨がり、パステルに目配せをした。
「では見ててください、いいですか?行きますよ」
そう言うと、強い風が魔女さんを囲うように吹き荒れた。
白いワンピースの裾がゆらゆらと揺れ、胸まで伸びた長い髪の毛が楽しそうに踊りだす。
パステルが勢いよくホウキに飛び乗り、それと同時に魔女さんの身体はふわりと宙に浮き上がった。
見間違いじゃない。
正真正銘、彼女は浮いている。
木の葉を纏った風が徐々に穏やかになっていく中、魔女さんは得意気な顔をして空に昇っていった。
「どうですか?すごいでしょう」
ふふんと鼻を鳴らす魔女さん。
なぜかパステルまでもが胸を張っているように見える。
「すごいですね、魔女って」
無意識に口からこぼれた称賛の言葉に嘘はなかった。
いつまでも見つめていたいと思ってしまうほど、その姿は神々しく美しかった。
「そうでしょう?」
彼女はホウキに跨がったまま、無邪気な笑顔を浮かべている。
「…僕にもそんな力が欲しかったです」
偽りのない僕の想いだった。
すると次の瞬間、彼女は驚いたような哀れむような表情をして、それから静かに地面に向かって降り立った。
いつの間にか風も完全に止んでいて、一瞬にしてこの丘に静寂が訪れる。
パステルはホウキから飛び降り、チーズの元へと勢いよく駆けていった。
「…こんな力、あっても何も変わりませんよ」
諭すわけでも、まして怒るわけでもなく、淡々と彼女は言った。
その目は、静かに僕だけを捉えている。
普段の彼女とは少しだけ違う歪な雰囲気。
それだけは、何の力も持たない″人間″の僕にもなんとなく理解できた。
何か、気に障るようなことを言ってしまったのだろうか。
そう思っていると、魔女さんは慌てたように無理矢理笑った。
「私、別に魔女じゃなくたっていいんです。こんな力、欲しくもなんともないんです」
それは、僕が初めて耳にした魔女さんの本当の心の声だった。
いつも純粋で、明るく無邪気に微笑む彼女の中にある、どうしようもなく″人間らしい哀しみ″だった。
「何か、あったんですか?」
僕の問いに、彼女は曖昧な顔で笑って見せた。
「…私の話、聞いてくれますか?お客さんではなく、ひとりの友達として」
今この場所にいるのは紛れもなく僕らふたりだけで、そばに置かれた空色のキャンバスだけが静かに僕らを見守っていた。
そうして語り出した魔女さんの過去と、彼女が明かす″空を描く理由″を僕は知ることになった。
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