第9話 フラッシュバック

「それではまた明日。この丘で」


 僕にひらひらと手を振って、魔女さんは階段を降りていった。

 空を見るといつの間にか雨は止んでいて、雲もどこかへ消え去っていた。

 もう雨宿りをする必要もない。

 そろそろ僕も帰らないと。 


 この丘から僕の住んでいる家までは、およそ30分ほどの距離がある。

 暗闇の中にわずかに浮かび上がる田園と畑を抜け、小さな林の脇を抜けていけば、そこが我が家だ。

 

 魔女さんと笑顔で別れた僕が家に着く頃、空には星が点々と輝き始めていた。

 まるでプラネタリウムのような幻想的な景色に心を奪われながら、夜風を浴びる魔女さんを想う。


 僕が生きている今この瞬間は、本当に現実なのだろうか。

 夢を見ているのかと勘違いしてしまうほど非現実的な日常に、忘れていた未来の可能性を思い出してしまう。


 あの美しい水彩画が、彼女の子供のような純粋な笑顔がそうさせる。

 僕はきっと彼女の絵がどうしようもなく好きなのだ。

 鮮やかでいて繊細なエメラルドグリーンの色をした空の画が。

 どこか恐ろしく、それでいてどこか優しさを感じさせるパープルレッドの夕暮れの画が。

 曇天の空が。雲一つない青空が。

 


 魔女さんが空を飛ぶ姿を想像していたせいもあったのだろう。

 いつの間にか家の前まで歩いてきていた僕の視界の端に、一瞬彼女の姿が見えた気がして、思わず大きく振り返った。

しかしその先に見えたのは、大地を照らす青白い月の輪と、煌々と光り輝く鮮やかな星の水、天の川だった。

 織姫星おりひめぼしのベガ、彦星ひこぼしのデネブ、白鳥座はくちょうざのアルタイルで結ばれた夏の大三角形が一際美しい輝きを放っている。

 そんな光景を前にすると、涙が零れそうになるのはなぜだろう。

 無様に雫涙を落とさないようにと、僕は慌てて玄関の扉を開けた。


「…ただいま」


 誰もいない家。

 魔女さんと過ごす日々とは対照的な当たり前の日常がここにあった。


 教科書も入れられていない軽いカバンを足元に放り、乱暴にソファに腰掛ける。

 人生の指標である小説たちと魔女さんの描く水彩画だけが、今の僕にとって心を落ち着かせてくれるかげえのない宝物になっていた。


 目を閉じ、部屋に響きわたる無機質な時計の音に耳を澄ます。

 聞き慣れたこの音を聞いていると、幼かった頃の記憶が蘇ってしまう。


 僕はずっとひとりだった。

 だから、僕はひとりが好きだった。

 好きになるしかなかった。


 幼い頃、母を事故で亡くし、続けて父も病気で亡くした僕はずっと施設で育ってきた。

 そんなせいもあってか周りから好奇の目で見られ、時には容赦のないいじめのようなことも受けてきた。

 人が怖かった。誰かと一緒にいるのがたまらなく嫌だった。

 そんな過去が、こうして今の僕を形作っている。


 幼少の頃から唯一の友達が本だった。


 小学校が終われば施設に戻り、本棚に並べられた本を読む。

 そうして時間が過ぎていくのをひたすらに待った。


 魔女さんはそんな僕の過去を知ったらどう思うだろう。

 時々、すべてを見透かしたような目で僕を見る彼女は、普段どんなことを考えているのだろうか。


 それがどうしようもなく気になってしまう。

 だからこそきっと明日も、僕は彼女のいるあの丘へと向かうのだろう。


 そして僕にはもうひとつ、誰にも言えない秘密がある。

 いつか彼女にも話すだろうか。

 そしたら魔女さんはなんて言うだろう。

 僕は彼女のことを何も知らない。

 あの丘で、毎日空を見つめて空を描く彼女しか知らないのだ。



 いつの間にか眠ってしまっていた。

 魔女さんの夢を見ていたような気がする。

 たぶん、気のせいじゃない。







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