第8話 曇天
今日の空は泣いていた。
どこまでも沈んだ色をした暗雲と、こっちまで泣きたくなるような大粒の涙雨。
傘をさしながら登る石垣の階段はいつも以上に滑りやすい。
初めてこの丘に訪れてから、どれくらいの日が過ぎただろう。
あれから、魔女さんの描く水彩画を見にくるだけの冷やかしの日々が続いていた。
「雨の日でも描いてるんですね」
「ひぇっ」
雨音にかき消され、近づく足音に気が付かなかったのだろう。
僕の声に驚いた魔女さんは、透き通った間抜けな声をあげていた。
彼女はいつもとは違う場所、休憩所の屋根の下で曇天の空を描いていた。
キャンバスにはグレーの雲と黒い雨が降り注いでいる。
「
溜め息混じりの声で空を仰ぐ。
しかしその目は、雨空ではない別の何かを見つめているように思えた。
「魔女なら晴れにできるんじゃないですか?」
そうだ、魔女なら天気をどうにでもできる。
僕に虹を見せてくれたように、この心まで冷えてしまいそうな空を晴れにすることだって可能なはずだ。
「しませんよ、それじゃ意味がないんです」
「意味がない?」
「そうです、意味がないんです」
彼女の隣に置かれたベンチに腰掛けて、カバンから取り出した文庫本を開く。
湿気のせいでうまくページが捲れない。
…嘘だ。
湿気のせいでも、ましてや雨のせいでもないことは、僕が一番よくわかっていた。
隣を見ると、魔女さんが哀しそうな目で僕を見つめている。
お願いだから、そんな目で僕を見ないでほしい。
「…魔女さんは、他にどんな魔法が使えるんですか?」
彼女の眼差しが心に痛くて、苦し紛れの問いを投げかける。
そんな僕の想いを知ってか知らずか、魔女さんは明るい声で笑って言った。
「空を飛んだりできますよ」
「ホウキに跨がって飛ぶんですか?」
「正解です」
「うわ、ベタですね」
思わず吹き出してしまった僕の顔を見て、気に入らなさそうな顔をする魔女さん。
そんな表情ですら、どこか愛くるしさが滲んでいる。
「ホウキは、持ってきてないんですか?」
彼女がいつも抱えている荷物の中に、ホウキのような目立つものは見当たらない。
いつも画材を背負い、ひぃふぅと苦しそうな声で階段を登ってくる印象が強いのだ。
空を飛べばこんなところまで徒歩でくる必要もないのに。
「歩くのが好きなんですよ。歩かないと太るし」
「そういうとこ、魔女らしさがゼロですね」
「魔女だろうと人間の女の子だろうと、太るのはイヤなんです。乙女なんですよ?」
へへへ、と照れ笑いを浮かべながら、魔女さんは曇天の描かれたキャンバスの縁を優しく撫でた。
「なら、明日はホウキで来てください。飛んでるところ見てみたいです」
断られるだろうか。
一瞬、そんな心配が脳裏を過ぎったが、当の本人は何食わぬ顔で笑っている。
「いいですよ、魔女の真髄をお見せします」
降り止まない曇天の下。
雨で濡れた髪を耳にかけ、妖艶な笑みを浮かべる彼女はまさしく魔女そのものだった。
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