第7話 エメラルドグリーン
「今日は遅かったですね、お客さん」
ここによく訪れるようになって数日が過ぎたある日。
既に陽は沈みかけていて、橙色の光に照らされた魔女さんが妙に艶やかに見えたことを覚えている。
今日は彼女の足元にパステルはおらず、目の前に置かれたキャンバスには、すでに綺麗な空が描かれた後だった。
「学校行ってて…」
詳しいことは、何も伝えなかった。
伝えたところで別に意味のないことだと思ったし、それ以上魔女さんは何も聞いてはこなかった。
ここから見えるこの街の風景は、気を抜けば泣いてしまうほどに美しい。
人知れず感動の渦に身を投げながら、僕はふらふらと丘の中央部へと歩み寄った。
すぐそばの休憩所に置かれた木のベンチに腰掛けて、魔女さんを横目にカバンから1冊の文庫本を取り出す。
それを見ていた彼女は想像していた通り、にやりと笑って言った。
「今日の本は、なんですか?」
その微笑みに、思わず笑みを返してしまう。
「ウィリアム•フォークナー」
「…すいません、知らないです」
困ったような顔をして、魔女さんはキャンバスに視線を移した。
つい、それにつられるようにして、僕もそこに描かれた美しい水彩画を見つめる。
今日の空は、また昨日とは違った空だったようだ。
快晴とまではいかないが、エメラルドグリーンを基調とした不思議な色の空がそこには描かれていた。
煙のような雲もちらほらと見える。
魔女さんの描く空を見るのはこれで何回目だろう。
空の絵を見つめる度、毎回まるで別人が描いたように色遣いが異なっていることに気がついた。
きっとそれこそが彼女の芸術家としての味であり、誰にも負けない個性なのだろう。
「今日も綺麗な空だったんですね」
「そりゃあもう、毎日心を打たれます」
一体、彼女は何枚の水彩画をこうして描き続けているのだろうか。
描かれた絵は、一体どこの誰の元へと送られていくのだろう。
きっと誰か熱烈なファンがいるはずだ。
こんなにも美しい水彩画を売っているのに、彼女の生活が火の車というのはどうしても信じがたい。
「魔女さんの絵、いつも買ってくれるお客さんとかいないんですか?」
何気ない僕の質問に、彼女はなんて答えるだろうか。
しかし魔女さんは僕の目を真っ直ぐに見つめ、それから困ったように笑うだけだった。
彼女は時々、まるで世界には自分独りしかいないような、そんな切ない顔をする。
それがなぜだろうか、僕の心にちくちくと刺すような痛みを走らせる。
「…あなたのような人に」
呟くようにそう言って、それから黙ってしまった。
僕のように彼女の絵を美しいと思う人間が、きっとたくさんいるのだろう。
当然、僕も彼女の熱烈なファンになりつつある。
思わず声を出してしまうほど鮮やかで、それでいて色の濃淡が驚くほど細かく描かれているその絵は、どれくらいの価値があるのだろう。
「この絵、1枚いくらなんですか?」
「聞いちゃいます?」
僕の問いかけに疑問符で返す魔女さん。
聞いてはいけないことなのだろうか。
もしかしたら、引いてしまうほど高価なのかもしれない。
根拠はないが、そんな気がする。
「1億とか…」
「そんなはずないじゃないですか、私の絵にそんな価値はありませんよ」
慌てて首を横に振って、魔女さんは全力で否定をした。
どうやら予想は外れたらしい。
なら、一体どういうことなのだろう。
「お金じゃない、って言ったらどうしますか?」
「お金じゃない?」
一瞬、魔女さんの目に戸惑いの色が浮かんだ。
不安そうに見えるその表情だが、口元だけは平静を装うようにつり上げて笑っている。
どこかぎこちないその笑顔に、彼女の考えている答えが透き通って見えた。
いや、見えてしまった。
「それって、魔女だからですか?」
僕の曖昧な質問に、魔女さんは小さく頷いた。
「そういうことです」
彼女が″毎日″ここで空の絵を描く理由。
その答えは、彼女にしかわからない。
そう思っていたのに、なんとなく想像できてしまったのは、僕がきっと誰よりもその絵を受け取る必要がある人間だからなのだろう。
沈んでいく夕陽を魔女さんと見つめながら、僕らはいつまでもそこに立ち尽くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます