第6話 虹
「いらっしゃい、お客さん」
次の日の朝、あの丘に登るとすでに魔女さんは絵を描き始めていた。
こちらに目を向けず、黙々と筆を走らせている。
時々、何かを考えるように空を仰ぎ、そうして何度も頷いていた。
今日の空は昨日とは違い、灰色に濁った雲が支配的に見える。
隙間から覗く青空と、ヤコブの梯子が美しい。
「今日の天気はどうですか?」
「グレーとブルーの比が秀逸です、描き甲斐があるってもんですよ」
魔女さんの隣には、昨日絵の具を届けてくれた黒猫が大人しく座っている。
足元には約束のチーズがいくつか並べられていて、満足そうに彼女の描く水彩画を見つめていた。
「この子の名前、なんていうんですか?」
「パステルです」
パステルか。
発想が絵描きの彼女らしい、可愛い名前が付けられている。
パステルは僕の方には目もくれず、ひたすらに彼女に寄り添っていた。
僕にもあれくらい懐いてくれるペットが欲しい。
「今日はなんの本ですか?」
「アガサ•クリスティです」
「ほほう、推理モノですか」
今日も昨日と同じように、絵を描く魔女さんの隣で小説を読む。
本を読むと、時間の流れが恐ろしいほど早く感じてしまうため、気付くと3,4時間経過していることもしばしばだ。
この丘の上でも例に漏れず、いつの間にか陽は少しずつ傾き始めていた。
「お客さん」
「はい?」
「お客さんは、晴れと曇りどっちが好きですか?」
「曇りですかね、僕ヤコブの梯子を見るのが好きなんです」
ヤコブの梯子。
別名、
由来は旧約聖書の中に登場するヘブライ人のヤコブが見たとされる夢にある。
彼は、天使たちが雲の隙間から照らす光の柱を往来する幻想的な光景を夢で目撃した。
空から伸びる光が、まるで天使が伝う梯子のように見えたのだ。
そこから、雲の隙間から射す光の柱を人はヤコブの梯子と呼ぶようになったそうだ。
「その感性、素晴らしいです」
そう言って、嬉しそうに笑う魔女さん。
もしかしたら、彼女もヤコブの梯子が好きなのだろうか。
空を見上げると、数本の光の柱がこの街の大地を照らしている。
光は田圃に、遠くの山の端に、家々にまで伸びていた。
「魔女さんは、いつもひとりでここにいるんですか?」
いきなりの僕の質問に驚いたのだろうか。
魔女さんは走らせていた右手を止め、一瞬何かを考えた素振りを見せた。
パステルまでもが、僕の方へと振り返っていた。
「知りたいですか?」
にんまりと笑う魔女さん。
パステルはため息をつくように小さく鳴いた。
「知りたい…です」
「少しずつ、教えてあげます。魔女について興味があるのでしょう?」
当たり前のように会話しているこの女性が、中世ヨーロッパで恐れられていたあの″魔女″であるというのは、未だに信じがたい。
それでも彼女は確かに黒猫と会話をし、カラスを呼び寄せることができる。
昨日、彼女がそう言っていたように、つまりはそういうことなのだろう。
「他にも、何かできるんですか?魔法を使えるんですよね」
「そうですね、たとえば…」
こほんと小さな咳払いをして、魔女さんは筆を置いた。
パステルが彼女から少し距離をとり、チーズを咥えて座り直す。
その目には、若干の呆れが浮かんでいるようにも見える。
『自分は子供扱いされている』
そう言った彼女の言葉に嘘はないらしい。
「虹、見せてあげます」
そう言うが早いか、魔女さんは強く指を鳴らして空を仰いだ。
途端、雲の隙間から射す光が揺らいだかと思うと、驚くほど冷たい風が僕と彼女の周りに吹き荒れる。
初夏の熱を持った僕の身体が、急激に冷えていくのを肌で感じていた。
そばに置いた文庫本のページが、音をたててぱらぱらと捲れていく。
「…あそこ見てください」
魔女さんが指さした先を見ると、田圃から山に向かって、カラフルな光が滲み始めていた。
赤から始まり紫で終わる七色のぼんやりとした淡い光。
その光景に、僕は思わず息を呑んだ。
くっきりと縁が浮かび上がり、それはついに完璧な虹になった。
「どうですか?すごいでしょう」
得意げな顔で魔女さんは笑った。
パステルがにゃあと鳴き、彼女はパステルにぎこちなくウィンクをした。
今度こそ確信した。
間違いなく、彼女は本物の魔女だったのだ。
あまりの衝撃に言葉も出せず、だらしなく口を開いた僕を見て魔女さんが笑った。
「虹を自由に出せるなんてロマンチックなんですね、魔女って」
僕の言葉に、魔女さんは首を横に振った。
「天気を操れるんです、今はここから虹が見えるように部分的に天気を晴れと雨にしたって感じです」
空を見ると、いつの間にか虹は消えていた。
でも、きっとあれは幻じゃない。
目に焼き付いたあの光景を僕は絶対に忘れない。
僕はこれから先の未来で、何度もこの景色を思い出すだろう。
そしてそのたびに、魔女さんの描く水彩画とパステルと、笑ってしまうほど不思議なこの日々に戻りたいと、そう思うのだ。
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