第5話 黒猫
読み始めた2冊目の文庫本が中盤に差し掛かる頃、時刻は昼をとうに過ぎた15時を回っていた。
彼女は時々「うーん」や「ちがうな」と独り言を呟きながら頭を抱えていて、なるほど、苦しみながら作品を造り上げるその姿はまさに芸術家らしいと思った。
「いつも空を描くんですか?」
「はい、空が好きなんです。ここから見る空は
また別格ですよね」
「確かに、そうかもしれませんね」
まさに空ヶ丘という名にふさわしい場所だと思った。
「お腹空かないんですか?」
「空きますよ、でも描いてる途中は手が離せなくて結局夕方まで断食するんです」
「プロですね」
そんな話をしていると、後ろから小さな声が聞こえてきた。
どうやらそれは子猫の甘えるような鳴き声だったらしく、振り返ると、階段を昇ってきた真っ黒い子猫が1匹、口に絵の具を咥えて座っていた。
魚か何かと間違えてるのだろうか。
そんなことを考えていると…。
「ありがとう、おいで」
絵を描いていた彼女が座り込み、黒猫に向かって手招きをした。
自分が呼ばれていることをちゃんと理解しているのだろう。
その真っ黒な子猫は、にゃあと小さく鳴くと僕の横をすり抜け、彼女の足元に駆け寄っていった。
ぴょんぴょんと跳ねるような走り方がなんとも可愛らしい。
そんなことを思いながらその光景を眺めていると、彼女はさらに話しを続ける。
「ごめんね、急に別の色が欲しくなっちゃって。あとで何でも好きなもの買ってあげるから」
子猫は彼女の言葉に応えるように、もう一度にゃあと優しく鳴いた。
心なしか喜んでいるように見えなくもない。
「チーズ?ほんとにあなたはチーズが好きね」
子猫の鳴き声がチーズに聞こえたのだろうか。
彼女はよしよしと満足そうな顔をして、それから再びキャンバスに向き直った。
それを見届けた子猫は、満足そうな足取りで華麗に階段を駆け下りていった。
「あの子猫、あなたのペットですか?」
「ペットというより、相棒ですかね」
「相棒?」
「チーズ好きな私の相棒ですよ。子猫なのに私のこと子供扱いする子なんです。私がおっちょこちょいだから」
そう言ってにやりと笑う彼女。
どうやら、子猫と話すことができるらしい。
…これは面白いこと聞いたぞ。
僕は吹き出してしまいそうになるのを抑えながら、子猫と会話ができるという彼女を見つめた。
そういえば小学生の頃にも、そんな風に猫と会話する女子を見たことがあったな。
その人は高学年になる頃にはもう会話できなくなっていて、そのことについて本人に尋ねた時に顔を真っ赤にして怒られた苦い思い出がある。
もしかして目の前のこの人もそういった類いなのだろうか。
「今、私のことイタい女だと思いました?」
「…いや、別に」
「絶対思いましたよね?ほんとに猫と会話できるんですよ私」
「はぁ…」
僕の訝しげな表情がどうやら表に出てしまっていたらしい。
それに気付いた彼女は少しムッとして、それからもう一度にやりと笑った。
美しく綺麗な顔立ちをした彼女の表情が、小さな子供のようにころころと変わる。
意外に子供らしい一面があるようだ。
「″この街には魔女がいる″そんなことをお友達やご近所の方から聞いたことありませんか?」
尚もキャンバスに描かれた空を見つめながら、声だけを僕の方へと向けている。
「ありますけど…」
「魔女は
「…まあ、なんとなく知ってはいましたが」
「そういうことです」
自信に満ち溢れた顔で、口の端をつり上げて笑う彼女。
何がどういうことなのか、さっぱりわからない。
「あの、あなたは魔女だってことですか?」
「正解です」
「…はぁ」
「信じてないですね?なら、これならどうでしょう」
彼女はそう言うと、指をぱちんと強く鳴らした。
お互いしばらく無言が続き、生温い風が一度だけ強く吹く。
そして再び、沈黙が訪れた。
「…魔女って指も鳴らせるんですね」
「ちがう!もう少し待ってください!」
何がしたいのだろう。
ふざけてるようには見えないけれど、真面目にやってるようにも見えない。
なんとも失礼な話だけど、ここは適当に受け流して…。
キャンバスを見るとまだ絵は未完成のようで、出来上がるにはもうしばらく時間がかかりそうだった。
「…あの」
「きた!」
僕の言葉を遮るように、彼女が空を見て叫んだ。
来たって、一体何が…。
そう声に出すよりも早く、彼女の言わんとしていた言葉の意味を理解した。
彼女が指差したその先にいたそれは滑空しながら、彼女の近くのブランコに降りたったのだ。
「カラス、呼んだんですか?」
降りたったのは、1匹の大きなカラスだった。
ブランコの頂点に留まり、静かに彼女を見つめている。
その姿は、まるで命令を待つ召し使いのように見えた。
ただの偶然だろうか。
いや、でもそれにしてはタイミングがよすぎやしないか?
「これで信じてくれました?」
へへへと自慢げに笑う彼女。
どうやら偶然ではないらしい。
もしもそうだとしたら、これはなかなかすごいと思う。
「…なら、ヘビも呼べるんですか?」
「ヘビは気持ち悪いから嫌です」
僕は、ついに堪えきれなくなって吹き出した。
そんな僕の様子を見てか、続いて彼女も笑い出す。
しばらくふたりでお腹を抱えて笑い、そうしているうちに太陽はわずかに傾き始めていた。
「また明日も来ます、魔女さん」
「お待ちしてます、お客さん」
この日の事は、今でも鮮明に覚えている。
本当に雲一つない青空の下、白い服に身を包んだ彼女と彼女が呼び寄せた1匹のカラス。
都市伝説だと思っていた。
クラスメートのただの冗談じゃなかった。
この街には、本当に魔女がいたのだ。
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