第4話 パステルカラー

 どこまでも続く青く深い空を眺め、感覚だけを頼りにキャンバスへと絵の具を撫でていく。

 時より強い風が吹き、美しく可憐な彼女の髪を激しく揺らしている。

 水彩画と呼ぶのだろうか。様々な青を重ね合わせ、滲むような色が一面に広がっていた。


「お客さんは、何しにここへ?」


「景色を見に…」


「あぁ、いいですよね。ここから見える山、川、田圃たんぼ、それに空も。どれも大好きです」


 そばに建てられた小さな休憩所で、僕は文庫本を開いていた。

 隣には、水彩画を描く女性。

 整った鼻梁が横顔にえる。

彼女が絵を描き始めてから、はや一時間が経過していた。


 今、この場所には僕と彼女しかおらず、世界がまるでこの丘の上にしか存在していないような錯覚にまで陥りそうになる。


「いつもここで描いてるんですか?」


 僕の問いかけに、くすりと笑って頷いた。


「そうですよ、毎日」


「毎日?」


「毎日です」


 目はしっかりと空を見つめ、時々キャンバスに視線を落とす。

 筆を持った右手は止まることを知らず、うねるような動きでそのキャンバスを空色に染めていく。

 複雑なその中間色は、消えるように淡く美しい。


「絵描きさんなんですか?」


「はい。こうして水彩画を描いて、それを売って生計を立ててるんです」


「きっと大人気なんでしょうね」


「残念ながら火の車です」


そう言って、彼女はくすりと笑った。

その笑顔がとても綺麗で、僕はなぜだか言い知れぬ幸福感に包まれた。



 読み終えた文庫本を閉じて彼女の横顔を静かに見つめていると、時々、どこか儚げな表情で空を見ていることに気がついた。

その理由を聞いてみたところで、きっと答えてはくれないだろうな。

時々僕を見てにこりと笑う彼女を見て、そんなことをぼんやりと思った。


「引っ越してきたんですよね?どうですか、この街は」


「思っていた通りの、笑っちゃうくらいの田舎でした」


「それがいいのです」


「はい、僕もそう思います。だからここに来たんです」


 そうですか。彼女は嬉しそうな顔でそう呟いて、空色のパステルカラーの上にまた別の色を重ねだした。

 広がった色は青ではなく緑系で、二次元だった空が一気に立体的な美しい風景画となった。

 その麗しさに、思わず感嘆のため息が漏れる。


「いつからここで描いてるんですか?」


「んー、20年くらい前ですかね」


「え?20年前?」


 この人は一体いくつなのだろう。

 てっきり僕の3つくらい上、つまり21歳くらいだと勝手に思っていた。

 まさか1歳や2歳の頃から描いている、なんてことはないだろう。

年齢を聞いたら怒られるだろうか。

もちろんそんなデリカシーのないことを端から聞くつもりなんてないけれど。

 


「それ、なんの本ですか?」


僕が読んでいた文庫本をちらりと見て、彼女は興味深そうに尋ねてきた。


「シェイクスピアです」


「お、ロミオとジュリエットですね!」


「残念、ハズレです」


 たわいもないやりとりが、この人と一緒だとなんとなく楽しい。

 それはきっと、僕に接する距離感が丁度いいからなのだろう。

 客と店員のような距離ほど遠くなく、気の許しあえる友人よりは少しだけ遠いこの距離感が心地良い。


「どうしてこんな田舎に引っ越してきたんですか?」


「ここは空気が美味しいと聞いていたので、都会のやかましさよりこっちの方が生きるのに辛くないかなって」


「どっちがより辛くないかより、どっちが幸せかで考えてみるのもいいと思いますよ」


「…肝に命じておきます」


 どうやら芸術的センスに溢れている人は、人生の生き方や考え方も優れているらしい。

 そんなことをぼんやりと思いながら、しきりに動く彼女の右手を見つめていた。

















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