妄想ランデヴー・ウィズ・ハンド

 『そよ野フウリン』は一部のネットユーザーに絶大な人気を誇るアイドルだ。愛称はそよかぜちゃん。幼少期から子役として活躍し、数年前まではメディアで見ない日はなかった。しかし子役の寿命は短く、小学校高学年になったところで一気にメディア露出が減った。その背景には、若干九才にしてハリウッドデビューまで果たした、天才子役、『芦谷マヤ』の存在があったとかなかったとか…。

 それはともかく、今年でそよ風フウリンは18歳。地下アイドルとして地道に活動しながら、芸能界のトップに返り咲くことを夢見ている。


 益谷はそよ野フウリンの熱烈なファンだ。彼女の活動しているライブハウスに通いつめるためだけに地元から出て東京の大学を受験、合格し、ライブハウスの近くのアパートで去年の四月から暮らし始めた。部屋には物品販売で購入したグッズがあふれている。益谷のバイト代の全てはそよ野フウリンのライブチケット代とグッズ購入代に注がれていた。


 壁一面にそよ野フウリンのポスターが張られた部屋の中、益谷は大の字になって床に広がっていた。右手は『手』と繋がれている。指と指を絡ませ、まるで恋人同士のように。益谷は目を瞑り、神経を右手に集中させながら、妄想に耽る。それはそよ野フウリンと海岸を歩いているというものだった。


 そよ野フウリンは夕焼けに染まる海をバックに、益谷を見つめている。益谷は「どうしたの、俺の顔に何かついてる?」と聞く。そよ野フウリンは笑顔で首を振り、「ううん。まさか君と恋人同士になるなんて、って思ってただけ」と言う。益谷が「俺のほうがビックリしてるよ。だって君はトップアイドルだろう」と返すと、そよ野フウリンは「ぼくがトップアイドルなのは、応援してくれる君のおかげだぬ!」と言って益谷の右手をぎゅっと強く握る。益谷はそよ野フウリンに向き合い、顔を寄せ、


「ぬぅおおおおお! 誰じゃあ、そよかぜちゃんを汚すのは! 俺か! 俺の馬鹿!」


 益谷はそこで妄想から冷め、床からはじけ飛ぶように立ち上がった。ぶつぶつと「そよかぜちゃんはみんなのもの。そよかぜちゃんは天使。そよかぜちゃんは女神。よって俺のようなゴミクズもといウジムシもとい汚れた存在が触れては……ああ、危なかった……」と小さな声で言いながら、自身の右手から『手』をそっと引き離した。

 午前三時半だった。益谷は無表情で『手』を白いダンボールに入れ、新しいガムテープで封を閉じた。冷蔵庫を開け、白いダンボールを入れる。冷蔵庫の扉の前で益谷は手を合わせて深くお辞儀した。


 ベッドの中、益谷は土曜日のことを思い出していた。その日はそよ野フウリンの握手会だった。いつものライブハウスで、益谷は何度も列に並んでそよ野フウリンと握手した。古くからのファンである益谷の顔を、そよ野フウリンは覚えている。

 「ずっと応援してくれて嬉しいな」とそよ野フウリンから言われた益谷は、「当然です」とドヤ顔で返し、アパートに戻ってから高速反復横跳びしながら「フウェエエイイヤッホウウ!」と奇声を発したのだった。


「そうだ、そよかぜちゃんの手はそのときまだあったんだ。一体、だれがこんな……」


 益谷は二時間ほどベッドの中でそよ野フウリンの手を切り離した犯人について考えていたが、二時間後にはいびきをかきながら寝ていた。益谷が起きたのは、月曜日の午後一時だった。益谷は身支度を整えると、通学用のリュックを背負って部屋から出た。この日の最高気温は天気予報によると38度だが、テレビを持たない益谷はそのことを知らない。

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