三 鏡の中の殺人者
その日もキンチョールのCMを聞いた。雨が降っていた。構内パトロールを終えてカッパを干すプレハブ小屋を経由し、いつもと反対のドアから事務所に入った。ロッカールームの横を通り過ぎる直前に扉が開いて人影が出てきた。私は目を合わさず通り過ぎようとした。しかし大きな違和感を感じ取り、ふと相手を見てしまった。一瞬、自分自身が立っている気がして驚いた。しかしよく見ると本当にそいつは私で、2度驚かされた。「お疲れさま」と彼は言った。とんでもなくマヌケな発音だった。人には私の声がこのように聞こえていたのだと思い返すと顔が真っ赤になった。彼は紙袋を持っていた。どこか旅行に行ったお土産だろうか?とも思ったが上から覗くと中身がスカスカで、不吉な包丁だけが入っているのが見えた。彼は明らかに狂ってしまったような感じでニヤリと笑い、今からA子を刺しに行くところだと言った。何やら裏切られたらしかった。そして事務所に向かって歩き始めた。私は自分自身に触れることが汚らわしく怖ろしく感じたので夢でも見ているかのようにその場に突っ立っていた。しばらくして悲鳴や怒号が聞こえ、彼が飛び出てきて私のほうに向かって走ってきた。顔面蒼白で唇から血の気が引いてプールから上がった虚弱体質の小学生を思わせた。「これ…」と言って包丁を私に手渡した。そして蹲り、ウシガエルのような音を出してゲロを吐き出した。何事か呟いたあと彼はそのまま失神した。目からは涙が流れていた。
自分のロッカーに包丁を隠し外に出ると彼はいなくなっていた。そして悲鳴も怒声も聞こえず静まり返っていた。職場に入ると何事もなかったように皆働いている。なるほど、と思った。世界が、もしくは私だけの世界が狂ってしまったのだ。私は退職を決意した。午後から有給を取って帰りにコンビニに寄り、ATMから40万引き出した。この40万で私は人生最後の旅に出る。きっとそこでかけがえのないものに出逢えたら、地獄なんて消えてなくなる。そうに決まってる。しかし、あの包丁を握るに至った男はそうはならなかった。他人の人生まで最悪な形で終わらせてしまった。なんてことだ。なんて世界だ。まったく、この世に猫1匹でも救える神がいりゃこんなことにはならねえはずだ。猫1匹すら救えねえ神なんて、いねえも同然だ。
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