アロイスは、ネーポムクおじさんの家の近くまで来ていた。林沿いを湖の方向へ行くと、野原に大きくなだらかな丘が見えてくる。丘の反対側は切り立った崖のような岩場になっており、道は丘を回りこんで森へと続いていた。日が傾き始めている。森の入り口からおじさんの家まで一本の小道が通っており、それが唯一、森の中で歩いても安全とされている道だった。村人にとって、おじさんの案内なしにここを外れれば命の保証はないというほど、森は未知の領域だった。アロイスも、林では小道を出て散策することはあったが、森では決して小道を出なかった。

 おじさんの家に着いたものの、あたりに馬車は見当たらない。常緑の針葉樹林の静謐な香りを味わう余裕もなく、苦しい息を繰りかえしながら玄関へ向かう途中、地面に小刀が落ちていた。木製の柄には、細かくうねる模様が象嵌されている。両手で隠せるほどの大きさだが、物騒に鈍く輝いている。アロイスは小刀を拾い、昼食を入れていた布に包むと、外套のポケットに仕舞った。おじさんの家は、足が生えたように地面から少し高くして建てられており、家の周りを、手すりのついた木のデッキが囲んでいる。重い足で階段を上がり、扉を叩くと、おじさんが戸口に出てきた。訪ねてきたアロイスの尋常でない様子に、面食らった様子だった。

「アロイスじゃないか。どうしたんだい」

「おじさん……ヴィクとヴァルドと、エーレンが来てませんか」

「いや、うちには来ていないよ。それより、大丈夫かい?」

「どこに行ったか……」

 言いかけたところでめまいがして、アロイスは膝に手をついた。おじさんが肩を支えてくれる。体を起こすと頭と視界がぐらぐらと揺れ、床板の木目や剥がれ落ちたペンキのくずから、おじさんがいつも首に巻いているスカーフの千鳥格子、明るい空にうっすらと浮かぶ月まで、思わぬものが異様に目を引きつけた。

「急いでいるみたいだが、少し休んだ方がいい」

「すみません、おじさん……急に、走ったから」

 支えられながら、アロイスは暖炉のそばのソファに腰かけた。近くには、他にもいくつか椅子とソファが寄せてあり、クレメンス先生がいた。暖炉棚の上では、一匹の黒い猫が丸くなって寝ている。ベルベットの青い首輪をつけた、村でもよく見かける猫で、アロイスの家にもたまに顔を出していた。

「先生は、どうしてここに?」

 アロイスが訊ねると、先生は困ったようにほほえむだけだった。ためらって口を開こうとしない先生を見て、アロイスは困っておじさんを見上げた。おじさんも困惑していた。おじさんは、部屋の奥からカップを取ってきて暖炉のケトルでお茶を淹れると、アロイスに差し出した。そして二人の近くに、小さな三脚の椅子を持ってきて腰を下ろす。アロイスは話題を変えた。

「おじさんは、おまじないって知ってますか?」

「おまじないか……。知っているよ。私たちは同郷でね」

 おじさんは暖炉の火を眺めながら言った。三人の上に降りた沈黙に耳を澄ませながら、アロイスは少しずつお茶を飲んだ。冷たい外気を繰りかえし吸いこんでいた喉の冷たさと痛みが、お茶の熱に解されていく。お茶を飲み終えると、カップを脇のテーブルに置き、アロイスは再びおじさんを見上げた。

「ヴィクとヴァルドと、エーレンの居場所を知りませんか?」

 おじさんは深い息をつきながら、拒絶するように小さく首を振った。アロイスが黙って返事を待っていると、根負けして口を開く。

「知っているよ。だが、行かない方がいい。今晩にでも、三人とも村に戻るだろうから」

「教えてください。僕、行かなきゃ」

 おじさんは渋い顔で目を伏せると、また首を振った。

「すまない……。彼らが戻るのを待った方が賢明だ」

「お願いします。教えてください。大事な友だちなんです。おじさんが教えてくれなくても、森に入ってでも探さなきゃいけないんです」

 おじさんの返事はなかった。アロイスが立ちあがり、脱いであった外套を再び着込み始めると、おじさんは観念して重そうに腰を上げた。

「ひとりで森を歩かせるわけにはいかないよ。そういうつもりで言ったのかもしれないが……。案内しよう」

「ありがとう。おじさん」

 おじさんについて部屋を出ていくアロイスを、先生が呼び止めた。

「オフェリアが君に、大変な目に遭わせて申し訳ない、と言っていたよ」

「おまじないのことなら、いいんです。母さん、楽しんでましたから。もう行きます」

 先生は無言で頷き、重い表情で手を振る。アロイスはお別れをして、外に出た。小道に切り取られた空は桃色とすみれ色に染まり、夕暮れが迫っていた。

 アロイスが階段を下りて誰もいないあたりを見回していると、おじさんが家の裏手から、馬を一頭つれて戻ってきた。黒く美しい毛並みの、優しい大きな目をした馬だった。豊かで長いたてがみと尾が、ふさふさと風に揺れる。おとなしく、おじさんのすぐ後ろについてゆったりと歩きながら、おじさんのスカーフに人懐っこく鼻を押しつけている。馬とおじさんはアロイスのそばまで来て止まった。茫然と見上げると、馬は柔らかく器用な鼻先で、おじさんの榛色の髪を優しくかき回した。

「僕、馬に乗ったことはないんだけど……」

「大丈夫。そこに足を掛けて」

 馬の横に立ったアロイスは、おそるおそると鐙に足を掛けた。アロイスには高さが足りず、おじさんに押し上げてもらって、滑らかな形をした鞍の上に乗り上げた。鐙から足が抜ける。その後ろへ、続いておじさんが乗った。落ち着かずもぞもぞするアロイスの前に手綱を通して握り、おじさんは馬を進めた。

「二人だからあまり飛ばせないが、歩くよりはましだから。しばらく我慢してくれ」

 家の裏手へ回ると小さな厩舎があり、そのさらに裏手に獣道のような小道が口を開けていた。歩いたまま狭い小道へ入ると、奥で広い道となって続いていた。馬は、さほど速くはない代わりに激しくも揺れない、優しい速足で道を走って行った。道は、緩やかに登っていく。振り落とされる心配はなさそうではあったが、浮き足立つような尻の座りと、長いたてがみを手に巻きつけて馬の首に手を添えているだけの不安に、アロイスは悲鳴を上げたかった。気を紛らわせるように、おじさんが話し始めた。

「オフェリアを責めないでやってくれ。彼女は、良かれと思ってやったことだから」

「わかってます。責めたりしません」

 アロイスは答えたが、弾みに合わせて内臓が浮遊し、口を開けば出て行ってしまいそうで落ち着かない。話をすると少し緊張が解れ、アロイスは言い足した。

「おまじないのことは、まだよくわからないけど。何だか……僕の力になってくれている気がします。母さんも楽しんでいたから、オフェリアは責められません」

 おじさんは安堵したように笑った。

「そうか。それを聞けて、よかった。おまじないは、そのためにあるものだから」

 登りだった道が平坦になった頃、おじさんは馬の歩を緩めた。アロイスは馬の乗り心地に慣れ、風を切る速さを楽しめるようになりつつあった。少し歩いて進むと、道の左右の木立が開けて広い場所に出て、先には白いのっぺりとした壁が立っている。窓や扉はなく、凹凸のない滑らかな表面をしている。学校から見えていた、あの白く四角い建物だった。どの辺も同じほどの長さで、さいころのようだった。おじさんは馬を降り、アロイスが降りるのを手伝った。こわばった背中と、いやというほど鞍に叩かれて痛む尻をさすっているアロイスに、おじさんは馬の首を撫でながら言った。

「私が案内できるのは、ここまでだ。この白い建物の面の一つに、木の扉がある。その扉を叩きなさい。すぐに人が出て来る」

 白いさいころの方を指し示すおじさんに、アロイスは頭を下げた。

「ありがとう、おじさん。無理を聞いてくれて」

 おじさんは申し訳なさそうに少しほほえむと、再び馬に乗り、森の中へと引き返して行った。

「おじさん。この森で、首輪をした犬を見かけませんか?」

 後ろ姿に声を投げると、おじさんは馬の向きを変えてその場で半周した。

「犬なら、そこの建物で飼われているよ」

 一周して、おじさんと馬は森へ消えた。アロイスは白いさいころに向かって行った。



 壁に沿って歩いていると、どの面も白くのっぺりとしていたが、ある一面の中央に、木の扉がひとつあった。焦げ茶色で装飾も何もない簡素な木の扉で、真鍮の丸い取っ手がついている。扉は風雨に晒されているはずだが、表面は傷んでいない。アロイスは扉を叩いた。待ちながらふと背後を振り返ると、森の向こうで燃えるように夕焼けが広がっている。取っ手が回る音がして、再び前を向いた。

「ようこそ。待っていましたよ」

 広く開かれた扉から、穏やかで、丁寧で美しい発音をする声が聞こえた。戸口に出た人の体は、白い肌と銀色に輝く金属でできていた。アロイスは、このような姿をした人を見たことがなかった。その人は優しくほほえんだ。安心させるように、裸の頭を少し傾げる。雪でできたような真っ白な肌に、澄んだ緑色の目が煌めいていた。

「どうぞ。入ってください」

 その人が道を開けるために動くと、きし、きし、きゅ、と雪を踏むような音がかすかに聞こえた。アロイスがおそるおそる扉の中へ入ると、背後で静かに扉が閉まる音がした。びくりと振り返ったアロイスに、穏やかな声のその人は、白い手を差し出した。

「サティーといいます。アロイス君」

「どうして僕の名前を?」

 怪しむより先に、うっかり握手に応えてしまったアロイスの手を、サティーは優しく握り返した。サティーの腕も手も、白い肌に包まれている。握った手は柔らかく、爪は硝子のようだった。

「あなたを待っていたからです。さあ、ついて来てください」

 先導し始めたサティーについて、アロイスも歩き始めた。ずっと先まで長い廊下が伸び、前方に焦げ茶色の扉が見える。すずらんの形をしたランプが等間隔に並ぶ天井と壁は白くのっぺりとして、床には赤い絨毯が敷かれていた。アロイスは、後ろからサティーを観察した。後頭部から首を通って尻の上まで、ひょうたんの形に背面の皮膚は透けて、銀色や鈍色の金属が複雑に組み合わさって動いているのが見える。肩甲骨のあたりから腰にかけて丸く大きく白い皮膚が避けている様は、背中が広く開いたドレスのようだった。衣服をまとわないサティーの後ろ姿からは、あの軋む音が先ほどより少し強く聞こえていた。

「あの、サティーさん」

「サティーと呼んでください。何でしょう」

「僕の友だちは、無事ですか? 無事に村へ帰れますか?」

「あなた次第ではありますが、大丈夫ですよ。無事に村へ帰るでしょう」

 釈然としないながらも安堵する。少し心に余裕ができ、気になっていたことを訊ねた。

「あの……都の人ですか?」

 サティーは肩越しに振り返って、ほほえんだ。横顔から見える睫毛は白く、眉のない白い顔は、滑らかな形をしている。

「私はロボットという種族です。あなたの言う都ではありませんが、遠い街で生まれました」

「ロボット……」

「車輪とか、てことか、ぜんまいを知っていますね。あのような仕組みをもっと複雑に高度に作ったものをたくさん組み合わせて、あなた方にとっての食事と同様、何らかの動力を得て動く体を持つ者が、ロボットです。その中で、サティーという名前を与えられ、ある人の寵愛を動力にして生きるロボットが、私です」

 サティーはゆっくりと穏やかで、心地よい発音をする声で話した。アロイスは黙りこみ、深く考えたことのない領域の話を理解しようと努力した。通り過ぎる左右の壁には扉や窓はなく、絵や花で飾られてもいなかった。アロイスはサティーに訊ねた。

「寵愛って?」

「私は、この建物内の光を動力にしています。しかしある人の寵愛を失えば、ここの照明は全て落ち、私は動力を失います。だから、私の動力は寵愛そのものなんです」

「それじゃあ、ここの明かりが消えたら、死んでしまうということ?」

「ええ。動力を失うと、私の体の機能は全て停止します。個体によっては、動力が得られれば再起動できる者もいますが、私の場合、この機能停止は不可逆です」

 二人は、木でできた扉の前に着いた。入り口にあった扉と同様に簡素だが、凹凸を彫って装飾されていた。サティーは真鍮の丸い取っ手に手をかけて、扉を開く前に振り向いた。

「この先にいるのが、私の動力である人です。遠い、遠い街の生まれで、変わった人ではありますが……私の愛する人です。どうか、恐がらないで」

 扉の先の部屋は正方形で、小さな客間のようだった。向かい側の壁に、焦げ茶色の木の扉がもうひとつある。すずらんの形のランプが壁に掛けられている他は、白い壁と天井は廊下と同様に飾り気がなく、暖炉の火が床の赤い絨毯を橙色に照らしていた。

 部屋の中央では二人掛けのソファが四つ、正方形の机を囲んで向かい合い、部屋の中でも帽子を取らないエーレンフリートと、アロイスにとって見知らぬ男性が、それぞれ腰を落ち着けている。見知らぬ男性は席を立つと、二人に近づいてきた。白いシャツと暗い灰色のベストを着た人で、灰色の髪と不精ひげでくたびれた風情ではあるが、歳は三十代を半ば過ぎたほどに見える。彼の立ったソファの背には、裾の長い灰色の外套が掛けてあった。サティーはアロイスを振り返る。

「エーレンフリートは知っていますね。あの人は、ズロガートさん。私の友人です」

 ズロガートはサティーの隣に立つと、灰色の目でアロイスを見下ろした。

「失せ物は何であれ、少ない方がいいと私は思うんだがね。お前はどうかね? アロイス」

 アロイスはズロガートを見上げた。せっかくの丸く朗らかな形をした目を険しく曇らせ、しっかりと通った高い鼻梁は、芯の強さと強情さを感じさせる。灰色の無精ひげを生やし、疲れた顔に親しみやすい笑みを浮かべているが、目の前にいながらここにはいないような、遠い雰囲気を持った男性だった。

「失せ物って……僕が身代わりになれば、ヴィクとヴァルドは助かるということですか」

「もしそうなら、どうする。身代わりになると約束できるか?」

 アロイスは唇を噛んだ。ズロガートは静かにほほえんで、答えを待っている。

「もしそうならですが。身代わりになります。約束します」

「そうだろうとも。この件に関しては、お前は焚きつけのようなものだったろうからな」

「あの二人を帰してくださるんですね?」

 アロイスを見下ろして、ズロガートは声を上げて笑った。

「さっきのは冗談だ。二人を解放しよう。エーレンフリート、ユーリャとあの二人を連れて帰れ。いつも通りにな」

「はい。いつも通りに」

 エーレンフリートはズロガートに一礼して、奥の扉へと消えた。すぐにまた扉が開き、エーレンフリートとユーリャ、縛られたヴィクトルとヴァルデマルが部屋に入ってきた。二人の首に巻かれた細い布を見て、アロイスは肌が粟立った。

「二人とも……」

 駆け寄ろうとすると、ズロガートに制される。ズロガートとサティーを見たヴァルデマルが、ユーリャの手を振り払ってズロガートの前へ出た。止めようとしたユーリャに突き飛ばされた形で体勢を崩し、二人とも床へ倒れこんだ。ヴィクトルの下で這いつくばったヴァルデマルは少し呻きながら、ズロガートとサティーを見上げた。

「あんたたち、都の人だな? 頼む。俺たちを都へ行かせてくれ」

 ズロガートは応えず、ほほえんで二人を見下ろしていた。哀願の言葉を繰りかえすヴァルデマルと悲しげに黙って首を振るヴィクトルを、エーレンフリートとユーリャが立たせて部屋を出ていった。部屋は静まりかえるが、扉の向こうからはくぐもった絶叫が聞こえてくる。声が聞こえなくなると、アロイスは震える息を吐き出し、ズロガートとサティーを見た。

「どうして、二人を都へ行かせてあげられないんですか」

「もうじき冬が来るからだ。さて、約束は約束だ」

「僕を殺すんですか」

「私たちの話に付き合うんだ」

 遮るように言ったズロガートを、サティーはほほえんで見上げた。

「そうですね。せっかくですから、もっと居心地のいい部屋でお話しましょう」

「おい、サティー」

「お二人にお茶を淹れさせてください。久しぶりにズロガートさんがいらっしゃると聞いて、ちょうど甘いお菓子も買ってあるんです」

 ズロガートは黙ってサティーを見つめ、目で説得していたようだったが、根負けしたようにため息をついた。彼は外套をソファに残して奥の扉へと歩いていき、サティーも彼に続いた。二人は扉を開けて待ち、動こうとしないアロイスに、ズロガートは不機嫌そうに言った。

「サティーが同席するんだ。安心して、さっさとついてこい」



 扉の先には、再び廊下だった。出てきた扉の左右にまっすぐ伸びている。アロイスが入ってきた時に歩いた廊下とほぼ同じ造りだったが、この廊下では両側の壁に扉が並んでいた。焦げ茶色ののっぺりとした扉が、すずらんの形のランプと交互に延々と続く。ズロガートとサティーは廊下を歩き始め、アロイスは慌てて追いかけた。小走りに歩きながら振り返ったが、先ほど出てきたばかりの扉は見失ってしまった。いくつか扉を過ぎたところで、先導する二人がアロイスを待って立ち止まった。追いついたアロイスは、息を弾ませて訊ねた。

「どこに向かってるんですか」

「お前など入れたくもない場所だ。本来ならばな」

 ズロガートが扉を開けた。二人に続いて扉をくぐると、その先にも廊下が続いていた。両側の壁には扉はなく、代わりに無数の紙が貼りつけられていた。等間隔にランプが頭を出している以外は、重なり合って厚い層をなす紙に壁は覆い尽くされ、緩やかに起伏している。アロイスは二人に続いて廊下を進みながら、通り過ぎていく紙を眺めた。

 紙とインクの材質や色味は様々で、アロイスには見たこともない字と図、絵や風景がびっしりと書きこまれている。焦げた紙や千切れた紙の小さな断片もあったが、他のものと同様に画鋲で留められていた。紙の一枚一枚が、思い出を留めた香りを発しているかのように、この廊下には不思議な、切なくなるほど知らない、遠く懐かしい匂いで満ちている。壁の紙に近寄って眺めながら歩いていたアロイスを、ズロガートが見咎めて言った。

「おい。よそ見をしていないで歩け」

「あの、これは一体、何なんですか」

「お前には関係ない。黙って歩け。じろじろ見るな。いいな」

 アロイスは黙って壁から離れ、好奇心を抑えてよそ見をせずに歩いた。しばらくすると、もう見慣れた焦げ茶色の扉の前に着いた。その先は部屋だった。先ほどの客間と同じくらいの大きさの部屋で、奥にもまた扉がある。客間にあったものと同じ正方形の机があり、ソファはふたつ、机の角に沿って並んでいた。

 壁のある一面には大きな戸棚が置かれているが、硝子戸から見える中は、鮮やかな色をした品々が溢れ返っていて、今にも戸がはち切れて開きそうだった。戸棚の周囲に留まらず壁沿いの床では、戸棚から溢れたらしい賑やかな色や形の品々が積み重なり、あちこちで小さな山をなしている。壁にも、奇妙な形や色をしたタペストリーや装飾品が、ところ狭しと重なりあって掛けられていた。

「アロイス君。どうぞ座ってください」

 サティーに勧められるままに、アロイスは扉に近いソファに腰かけた。ズロガートが別のソファに座る。サティーが戸棚の引き出しを慎重に開けて、二つのカップと包みを出してきたのを見て、ズロガートは苦々しく唸った。

「サティー。それはお前のものだろう」

「いいんです。人が使わなければ」

 ズロガートは苦渋を滲ませてアロイスを一瞥すると、小さく首を振る。

「使うのか? 今?」

 暖炉のそばでお茶を淹れながら、サティーはズロガートにほほえんだ。

「はい。今。ここにある全ての物は、あなたに使われるために、ここにあるんですから。アロイス君は、せっかくなので一緒に。お二人とも、どうぞ」

 サティーは二人の前に、カップと小さな皿を置いた。カップは、この村では見たことのない、繊細で優美な描線と色遣いで彩られている。お茶は湯気と共にアロイスの知らない香りを立てているが、二切れのお菓子には見覚えがあった。ツェツィリエおばさんの作る、甘いクリームと香ばしい種実の焼きタルト。サティーがズロガートの隣に座ると、ズロガートはお茶にだけ口をつけて、カップを置いた。

「アロイス。まじないについて嗅ぎ回ったようだが、何か掴めたのかね」

 お菓子に伸ばしかけていた手を引っこめて、アロイスはズロガートを見上げた。

「おまじないのこと、あなたは何か知ってるんですか?」

 ズロガートはほほえんだ。

「知っているとも。私も、サティーも。この村にだけ、まじないは存在しないのだからね。オフェリアが教えたのだろう? クレメンスやネーポムクも知っていただろう? エーレンフリートやユーリャにも訊くか? 彼らも知っている」

 アロイスは言葉を失って、ズロガートを見つめた。彼は続けた。

「なぜこの村にまじないは存在しないのか。庭師――私がそのように作り、手入れをしている箱庭だからだ。あの村にない物は無数にある。小型版でもないのに百科事典が三冊しかないなど、冗談だと思わなかったか? では、なぜあの五人はまじないを知っているのか。彼らは、庭番――箱庭の見張りだからだ。平穏な一年を繰りかえすべき村に、要らぬ変化が起きることを防いでいる。村の者にもわかるように言うなら、お前たちは、私が水を汲んだバケツの中で生きている魚のようなもの。庭師に手入れされ、庭番に守られる庭木だ。これで、おおよその事情が理解できるだろう。アロイス」

 目を回さんばかりに愕然としているアロイスを、ズロガートは返事を待つように眺めていたが、苦笑すると焼き菓子の皿を押しやった。

「お前にやろう。サティーには悪いが、あの村で作られたものなど、私は食べたくない」

 アロイスはサティーを窺ったが、サティーは表情を変えず聞いている。アロイスは茫然と、見慣れた焼き菓子に目を落とした。ズロガートはカップを取って続けた。

「もう一つ、説明しておこう。なぜオフェリアは、まじないが存在しない村の者に、まじないを教えたのか。好意的に見れば、彼女には信じられなかったのだ。祈りや願いという行為がありながら、まじないや願掛けをしない世界が存在するということが。あるいは、知らなかったのかもしれないな。彼女の役目に反するか否か以前の、単純な問題なのだろう。実際には、私へのささやかな反抗のようだが。他に質問はあるかね」

 アロイスは何かに縋りたかった。話をまだよく理解できない。聞かされたこと、見せられたものを全て忘れて、いつも通りの暮らしに戻りたかった。ズロガートの親しみやすそうで遠いほほえみが、とても無表情に見える。アロイスは頭を振って、口を開いた。

「この村にないものは、都にはあるということですか」

 ズロガートは煩わしそうにため息をついた。

「都は存在しない。お前のいるこの世界には、お前の村しか存在していないということだ。ここは、私が作った小さな箱庭。戯れに作った小さな世界だ。小さな村と、その周囲の狭い土地だけでできている」

 ズロガートの話を黙って咀嚼しながら、アロイスはカップを手に取った。ぬるい温もりがこわばった手を温めて解し、ぼんやりと口をつけると、知らない味が目を覚まさせる。アロイスはカップを置いた。サティーを見上げる。

「サティー。この人は、頭がおかしいの?」

「変わった人ではありますが、おかしくはないんですよ。アロイス君」

 サティーはほほえんだ。雪のような白い肌がゆっくりと、丁寧に動いて、哀しみ、寂しさ、愛おしさ、おかしみをはらんだ複雑な陰影で、ほほえみを浮かべる。エメラルドでできたような美しい緑色の目に、アロイスは視線を吸いこまれそうだった。再びカップの中へ目を落として考えると、ズロガートを見上げた。

「どうして、そんなことを僕に話すんです?」

 ズロガートは苦笑した。

「そうだな。本題だ。お前の帽子はどこだ?」

「帽子?」

「お前の母親が、毛糸の帽子を作っただろう。どこにある」

「あの帽子なら、失くしました。本当です」

 アロイスは落ち着きを取り戻して、焼き菓子を手に取り、少し齧った。ツェツィリエおばさんが秋と冬にだけ作る、香ばしく甘いタルトの、いつも通りの味。その間、ズロガートは考えている様子で、しばらくして口を開いた。

「ならば仕方がない。帽子もろとも、箱庭を伐採……」

「ズロガートさん。それだけは、最後にしてください」

 サティーがズロガートの袖を握った。アロイスは帽子のことを考えながら、黙って二人の様子を見ていた。

「何だ。かばうのか? サティー」

「かばっているのではありません。そうするのは、帽子がどうしても見つからなかった時にして欲しいのです。私はここで暮らしていますから、急に伐採されると、困ることが少しあります。前回がそうでしたから。お願いします。ズロガートさん」

「困るようなことがあるのか? お前はここから出ないだろう?」

「あなたがいない間の楽しみさえ、なくなってしまいます」

 手を握って頭を下げるサティーを見つめ、ズロガートはまた無言での説得を試みているようだった。しかし、やはり撤回しないサティーに根負けしたようで、ため息をつくとアロイスに向き直った。

「サティーに感謝するんだな、アロイス。お前に二日間やろう。その間に、帽子を見つけて持って来い」

「あの、伐採って……」

「さっきも言った通り、この世界は、バケツに汲んだ水のようなものだ。いつでも私はその中の水や魚を捨てて、新しいものに換えることができる。やむを得ない場合は、バケツごと捨てる。わかるな?」

「ひどい……!」

 震える手を机について、身を乗り出したアロイスに、ズロガートは首を傾げた。

「何を恐れることがある? アロイス。お前が帽子を持ってくれば、箱庭への手入れの強度を下げると言っているんだ。更地、抜根、伐採、間引き、剪定、摘芽――帽子を持ってくれば、変化の痕跡と記憶の剪定をするだけで済む。お前たちは帽子とまじないのこと、帽子を契機に起きた村の変化のこと、ここで見聞きしたこと、それら全てを忘れる。村は平穏に一年を繰りかえすだけで、誰かが死ぬわけではない。しかし帽子が見つからない場合は、箱庭を伐採する。変化の芽であるあの帽子が残らないよう、村の建物を全て廃棄し、再建する。これでも誰かが死ぬわけではないがな」

「そんな……僕だって帽子がどこにあるか、知らないのに」

「以前のように快適な孤独を謳歌したいのなら、喜んで二日間を無駄にするといい。しかし、もし、村で起きた何らかの変化を手放したくないのなら、何としても帽子を持ってくるんだ。そして私に望みを言え。好きなようにするといい。お前次第だ」

 ズロガートはアロイスから目を離して、カップに口をつけた。アロイスは自分にとっての日常に縋るため、焼き菓子を齧った。しばらく沈黙が降りた後、ズロガートが言った。

「ここで見聞きしたことは、村に帰っても誰にも話すんじゃないぞ。あの兄弟にもだ。言ったところで、信じないだろうがね。わかったら、帰るといい。サティーに送ってもらえ。サティーと一緒でなければ、迷うだろうからな」

 アロイスは焼き菓子を二つとも食べ終えて、お茶の残りを呷ると、立ちあがった。

「訊いてもいいですか」

「何だ」

 アロイスは言い淀んで俯いたが、再び顔を上げてズロガートを見据えた。

「本当に、この村は……あなたが遊びで作った箱庭なんですか」

「本当だ。実感などないだろうがね。そうだな、あの村に残っている、私の作為の一つを教えようか。村人と村の名前は、頭文字がAからZと一つずつ並ぶように、私が名付けた。アロイス、ベアトリクス、シャルロッテ、ドロテア、エーレンフリート……。村には、名前にSを頭文字とする者はいない。サティーと私がいるからだ」

 ズロガートは、指を折りながら村人の名前を挙げていった。アロイスは、肌の粟立つ腕を袖の上からさすりながら、黙っていた。ズロガートは続ける。

「ちなみにあの兄弟は、VW兄弟と呼ぼうと冗談で名付けたが、これほどの奴らだとは思わなかった。何度、同じ一年を繰りかえしても、都へ行くことを諦めない。ヴィクトルの片目だけが傷を負ったのは、私が意図したことではないんだがね」

「だったら、なおさら、あの二人の望みを叶えるべきではないんですか」

「残念だが、できない。都は存在しないのだから。新たに作ることはできるが、実際、村は都を必要としていない。私にとっても、百害はあるが一利もない。都は諦めるといい」

 アロイスは唇を噛んだ。

「二人は本気で、ヴィクトルの片目を治そうとしています。彼らに都へ執着させたくないのなら、あの片目だけでも、治すことができれば……」

 ズロガートが、嘲笑でも冷笑でもない、うつろなほほえみを浮かべた。

「ヴィクトルは、本心ではあの目を治したいとは思っていない。固執しているのは、ヴァルデマルの方だ。過去に何度も、思考の偏りを改める処置を彼に施したが、どうあってもあの片目を、文字通り目の敵にしてきた。自分たちは双子であるのに、なぜあの片目だけは自分と違うのかと。ヴィクトルはむしろ、あの片目が治ればヴァルデマルが離れてしまうのではないかと、密かに怯えているくらいだ。双子なのになぜこの片目が、そこまで嫌われるのか、とも。だから、彼ら二人のためであってさえ、都は必要ない。納得できるかね? わかったなら、暗くならないうちに帰ることだ」

 アロイスがのろのろと力のない歩みで扉の方へ向かうと、サティーが後ろから追いついてきた。サティーが開けた扉を見て、ふと疑問が浮かんだ。振り返ると、ズロガートが立ちあがって、奥の扉へ向かおうとしていた。

「待って。もう一つ、訊かせてください」

 足を止めて振り返ったズロガートは、恐ろしいほどうつろな無表情だった。思い出したように、親しみやすいほほえみを浮かべると、促すように首を傾げた。

「都が存在しないというのなら、僕の父親は、一体どこにいるんです?」

 ズロガートはいたずらっぽく笑った。

「さて。探してみるといい」

 彼はアロイスたちに背を向け、背中越しにそう言うと、奥の扉に消えた。アロイスはサティーに案内されて、来た道を戻り始めた。



 サティーとアロイスは、廊下を引き返した。紙の廊下を歩きながら、アロイスは呟いた。

「信じられないよ。とても……」

 サティーは足を止めて、アロイスを振り返った。苦笑いのような、悲しげな笑みだ。

「彼は、素直ではないんです。もう一度、よく考えてください」

「何を考えればいいの? 帽子を持ってこなければ、彼の遊びだっていうこの世界は、無かったことにされてしまうってことでしょう?」

 サティーはアロイスの肩をそっと叩いた。

「確かに、この箱庭は彼が作り上げました。それを、戯れだと表現したに過ぎません。その気になれば、全て忘れて、無かったことにできるとも。よく考えてください。私はロボットで、この体は人工の体液で満たされています。体のどの部分が壊れても、何度でも修理や交換ができます。では、あなた方は?」

 アロイスが見つめると、サティーはほほえんだ。

「怪我をすれば、血が出て、傷が治るでしょう? 生きているんです。あなた方、村の方々はみんな。けれど、場合によっては取り返しがつかないということを、たとえ見た記憶がなくとも知っているはずです。この村は、遊びなど、飽きたらやめてしまえるなど、単純なものではありません。この箱庭には、生命があるんです。人が、動植物が生きている、小さな世界です。人形遊びの村ではありません。今のは、皮肉ではありませんよ」

 アロイスは俯いて、考えた。壁から剥がれ落ちたらしい、足元の小さな紙片を見つめていると、サティーがそれを拾い上げ、壁に向かう。

「土地を焼き払うなどして、物理的環境を破壊することが、箱庭の伐採です。まっさらになった土地に村を再建し、村人を住まわせるのです。箱庭を更地にするとは、住人もろとも、箱庭そのものを抹消すること。ですが、彼の目的は殺生ではありませんし、この二つは、庭師である彼にも負担が大きいのです。あまりにも大きい」

「じゃあ、あの人は村をどうしたいの?」

「不変、変わらないことを望んでいます。そのために、主に記憶を操作します。それが、剪定や摘芽です。冬、村は眠りにつき、記憶が取捨されます。繰りかえすべき一年を送るための記憶と、世間話に必要な思い出だけを、あなた方に残して」

 余った画鋲が見当たらないのか、サティーは拾った紙片を別の紙に重ねて、抜いた画鋲で一緒に留めながら答えた。アロイスはその背中に問いかける。

「この村が何十年も同じことを繰りかえしているのは、記憶が消されるから? でも、どうしてみんな、何十年も年を取らずに、同じ姿でいられるの?」

「村の全員が、偽りの幼少期や昔の思い出を持っていますが、ごく最近の記憶は積み重ならないように操作しています。暗示とマインドコントロールを用いて。村の方々は、設定された年齢で外見の老化が止められていますから、気付かないようになっています」

「牛や馬や鶏は、毎年、死んで埋葬されるのに?」

 サティーは振り返った。

「そうですよ。村の方々も、同じなんです。亡くなった時、村で葬儀をしないだけ。外見は老化せずとも、生命があるかぎりはいずれ、死ぬ時が必ず来ます。ただ、変化を嫌うズロガートさんが、不変と永遠の繰りかえしという秩序の下で村を管理しているために、あなた方は歪な生を強いられているんです。だから、よく考えてください。どうか、自棄にならないで」

 サティーは再び先導し始めた。アロイスも続いて歩き始める。扉の廊下を過ぎ、ズロガートの外套が残された客間を過ぎ、何もない廊下を過ぎて、建物の玄関に着いた。

「私がお見送りできるのは、ここまでです。アロイス君」

 アロイスはサティーを見上げた。

「やっぱり、僕はどうすればいいのかわからないよ」

「アロイス君が望む通りにすればいいんです。今回は、アロイス君にその権利が巡ってきたんですから。変わらないでほしいこと、変わってほしいこと……思うことがあるのならば、帽子を探して、ズロガートさんと取引をするんです」

「取引?」

 ぽかんとしたアロイスに、サティーは苦笑いをした。

「そうです。ズロガートさんも言っていたでしょう? 彼の望みは、村の変化の芽となる帽子の排除です。大丈夫。彼の望みと、あなたの望みは、競合しないはずですから。あなたの願いは、きっと叶えられます」

 サティーは扉を開け、アロイスに道を譲った。外ではすでに日が落ちて暗く、暖炉で火が燻るように、わずかな赤色だけが森の向こうの空に残っていた。アロイスは一歩外に出た。隔離されていた日常、懐かしい匂いを胸いっぱいに吸いこんだ。別れを告げようと振り返ると、サティーが先に切り出した。

「あと、もうひとつ。取引を有利にするためには、庭番たちと話してみるといいでしょう。庭番たちには、それぞれ何らかの特権や技能が与えられています。帽子を見つける手がかりにもなるはずです。残念ながら、私からは目立ったお手伝いはできません。彼が、あなたの望みは私の入れ知恵かもしれないと勘ぐれば、何が何でも退けるでしょうから」

「うん。ありがとう、サティー。でも、どうして僕に教えてくれるの? あの人の寵愛を失うのは、恐くないの?」

 サティーはほほえんだ。

「私の望みも、彼の望みとは競合しないからです。少し、お小言はいただくかもしれませんが。だから、私のことは気にしないでください」

 アロイスはサティーに別れを告げ、巨大な白いさいころから森の小道へと向かった。森の入り口ではネーポムクおじさんが、小道の脇に転がった倒木に腰を下ろして待っていた。おじさんは立ちあがってアロイスに手を振ると、近くに繋いでいた馬を連れて歩いてくる。

「おかえり。アロイス」

「迎えに来てくれてありがとう。おじさん」

 おじさんに手を借りて、アロイスは馬に乗った。おじさんが続き、馬は走り始める。まだ茫然としている頭に、地を蹴る蹄から伝わる揺れが心地よかった。

「おじさん……庭番なんだね」

 彼は驚いたように言葉に詰まっていたが、やがて口を開いた。

「そうだよ」

「庭番について、教えてくれる?」

 おじさんが、諦めたようなため息をつくのが聞こえた。

「村と村人、そしてサティーを監視し、変化の芽をいち早く摘むのが私たちの役目だ。その他に、それぞれが村で仕事を持っている。エーレンは、村で自給できない不足を補うのが仕事で、ズロガートからサティーへ送られる荷物や手紙も運ぶ。だからズロガートの他で唯一、この箱庭の外へ出られる。オフェリアは、村の外へ宛てられた手紙の対応。クレメンスは、村人の健康管理。ユーリャは、郵便が機能していると信じこませるために配達をしている。私は村人が森に入らないよう見張るのが仕事だが、誰も入ろうとはしないからただの猟師だ。庭番同士でも互いに知らないことがあるから、直接本人に話を聞いた方がいい。これでいいかな?」

「うん……でも、どうしてオフェリアは母さんにおまじないを教えたりしたの?」

 少し振り返ると、おじさんは困ったようにほほえんだ。

「前々から彼女は、変化の芽となるかならないかという小さな種を、密かに村人全員に蒔き続けてきてね。おまじないも、そのひとつ。罪はないし、些細なことだから、あの人も大目に見ている。だが、これほど変化の芽が大きくなってしまったことは初めてだ」

 おじさんは続きをためらって口を噤んだが、ふっきれたように続けた。

「彼女は、まごころでできた娘だよ。役目に反するとしても、今まで彼女の善意は、不思議と間違わなかった。今回も、君にとって今はつらいかもしれないが……」

 アロイスはぼんやりしていた。今まで考えもしなかったことを頭に詰めこんだために、これまでの常識が頭の中から追い出されようとしていた。一人になって、静かに記憶と考えを整理する時間が欲しかったが、一方で、聞かされてきた、わけのわからない他人の事情に飲みこまれたくないとも思った。だからいま少しだけ、何もかも忘れられるように、自身にとって強烈な話題を選び、おじさんに訊ねた。

「おじさん。僕の父さんのこと、知りませんか?」

 沈黙の後、おじさんは答えた。

「フロリアンのことなら、君に話してはいけないと言われている。すまない」

 それから二人とも黙ったまま、馬は森の小道を駆けていった。しばらくして馬が速度を落とし、おじさんの家に出た。空には、月が昇っている。

「ちょっと待っていてくれ」

 そう言って、おじさんは馬を軒先に繋いで、家に入って行った。戻ると、小さな紙の包みをアロイスに手渡した。

「ドロテアさんのことを聞いたよ。具合を見て、食べられそうな時に一緒に食べてくれ。さっき釣ってきた魚と、森のきのこだ。早く元気が出るといいんだが……」

 受け取った包みはずしりと重い。

「ありがとう。母さんにも伝えます」

「ここからは、一人で帰れるね」

「うん。ありがとう、おじさん」

 おじさんと黒い馬に手を振って、アロイスは森を出て行った。



 帰宅すると、家の寝室にはベアトリクスとクレメンス先生がいて、眠るドロテアを心配そうに囲んでいた。アロイスは外套やマフラーを壁に掛けて、寝室に顔を出した。二人も座れば、満員になる狭い部屋だった。先生が杖を手に席を立ち、居間へ出てきた。

「アロイス。ドロテアの熱が、また……」

「大丈夫なんですか?」

「熱さましの薬で、少し落ち着いているよ」

 ベアトリクスも寝室から出てきて、沈んだ顔を二人に向けた。

「ドロテアさんに編み物を教えていただいてたの。夕方頃に突然、倒れてしまって……。本当にごめんなさい、私が無理をさせてしまったせいだわ」

「母さんに限って、編み物で無理がたたるなんてことはないよ。大丈夫」

 震えながら、小さく首を振ってうつむく彼女の肩を、アロイスはそっと叩いた。

「クレメンス先生を呼んでくれて、母さんについててくれて、ありがとう。ベアタ」

「本当に、ドロテアさん、大丈夫……?」

「大丈夫。熱はよく出るんだ」

 ベアトリクスが確認するように先生を見上げると、先生も頷いた。

「心配しなくていい。アロイスの言う通りだ。それより、ベアタ。イジドールやシャルロッテも心配しているだろう。後はいいから、帰った方がいい。今までよくついていてくれた。助かったよ」

 ベアトリクスは少し渋ったようだったが、やがて頷いた。彼女が身支度をする間、アロイスは台所から小さな包みを持ってきて、差し出した。

「よかったら、食後にでも食べて。ツェツィリエおばさんの、りんごのパイ」

 ベアトリクスの澄んだ琥珀色の目が、浮かんだ涙に暖炉の火の明かりを受けて、美しい夕焼けの色で輝いていた。彼女は元気のない笑みを浮かべ、包みを受け取った。

「ありがとう。いただくわ。……大好きなの」

「送ろうか」

「いいの。大丈夫。ドロテアさんのそばにいて。じゃあ、またね」

「ありがとう、ベアタ」

 ベアトリクスが帰り、荷物をまとめ始めた先生をアロイスは呼びとめて、椅子を勧めた。

「先生は、村の庭番なんですね」

「ああ。エーレンから聞いたよ。その通りだ」

「この村の人は、ちゃんと生きてるんですよね」

 先生は苦渋に満ちた顔で、手元の杖に目を落として黙りこんだ。しばらく考えた後、観念したように首を振ると、口を開いた。

「この箱庭の外には、また別の箱庭がある。私は知らないが、どこかに箱庭ではない、ズロガートの生まれた外の世界がある。この村の人間はみな、外にいる人間のクローンだ」

「クローン?」

「外の技術では、見た目や体のつくりだけ、まったく同じ人間を何人も生み出すことができるんだ。そうして生み出されたクローンの体を、ズロガートの設定した年齢まで成長させる。そして、設定年齢で成長を、老化を止める。あるいは、若返らせる。そんな技術が、外にはあるんだ。ただ、クローンも生命体であることに変わりはない。命が終わる時は必ず来る」

 先生は沈痛に続けた。

「この箱庭ができて、初代の村人が生まれてから、九十年近く経った。二十年前にはすでに、私たち全員が二代目に入れ替わったよ。庭番には記憶を保持する特権があるが、生命だけは村人も庭番も変わりない。私自身、二代目のクレメンスだ。先代が記憶を遺してくれた」

 黙りこんで俯いたアロイスの頭を、先生はそっと撫でた。

「私の役目の関係でズロガートと話した際、彼から聞いたことがある。クローンにせよ、成長と老化の調整にせよ、記憶の操作にせよ、外の世界でこの技術が生まれた当時、倫理的な問題から実験さえ躊躇われていたそうだ。しかし数十年もすれば、誰もがそれを恩恵と捉え、瞬く間に関連技術や研究が氾濫した。外の世界では今や、動植物以上に、予備部品としてのヒト、労働力としてのヒトが量産されているそうだ」

「僕も、誰かのクローン?」

 先生は何も言わず、悲しそうに目を細めた。アロイスは話題を変えた。

「このあたりで毛糸の帽子を見かけませんでしたか? 深緑色と、白の」

「いいや。私は見ていないよ。それが、ドロテアの帽子なんだね」

「はい。見つけたら、僕に知らせてくれますか? あの人に止められていますか?」

 先生は頷き、ほほえんだ。

「止められていないから、構わないよ。知らせよう」

 先生が帰った後、アロイスは母の様子を見に寝室へ向かった。ドロテアの眠りは深い。寝室の明かりを消し、台所へ向かうと夕食の支度を始めた。ネーポムクおじさんからもらった魚やきのこも、少しだけ使った。

「アロイス、帰ったの?」

 物音に目を覚ましたのか、寝室からドロテアの声がした。

「うん。帰ったよ。夕飯にしよう。そっちに持って行くから」

「ありがとう。ごめんね、また心配かけて」

 アロイスは夕食の支度を済ませ、寝室へ運んだ。引っぱっていった椅子に腰かけ、二人で夕食をとる。温かい食事に口をつけると、体の冷えも、心の冷えも、解されるようだった。小さく安堵の息をつく息子を見ながら、ドロテアは口を開いた。

「あのね。近頃のこと、ベアタにお礼をしたくて、ケープを作ったの。明日、学校で渡してくれる?」

「それで熱を出したの?」

「違うわよ。でも、ちょうどいいのがあったの」

 探るように見るアロイスにドロテアは笑って手を振り、寝台の脇のテーブルに置いてある包みを差し出した。中には、オリーブ色のツイードのケープが入っている。胸元を黒いベルベットのリボンで結んでいた。その生地に、アロイスは見覚えがあった。

「前に、秋に間に合わせて作ったお前のコートで、着る頃にはだいぶ小さくなっちゃって、一度も着られなかったのがあったじゃない。袖上げをぜんぶ解いても足りなかった、あれ。悔しかったし、もったいなかったし、とってあったのを使ったの」

「渡しておくけれど、よくなるまではちゃんと休んでよ。母さん」

 彼女が頷くのをしっかりと確認して、アロイスは母に訊ねた。

「母さんは、どうしてあのおまじないをしようとしたの?」

「帽子のこと? そうね……」

 くまの色が濃くなるばかりの顔を上げて、ドロテアはほほえんだ。

「お前は人当たりがいいし、誰とでも仲良くできるけれど、何だか、そのせいで誰とも馴染めてないように見えたの。学校の友だちとも仲がいいのに、すぐに一人になろうとするみたいで。それは悪いことじゃないけれどね。うちは父さんが家にいないし、さみしい思いをしてるのではないかしらと思ってね。だから……お前と父さんと私、家族がまた一緒に暮らせるように、そしてお前には、心を開ける友だちができるようにと、あの帽子のおまじないに願いを込めたの」

 黙ってうつむくアロイスに、ドロテアは笑って言い足した。

「余計なお世話だったら、忘れてちょうだい。お前はしっかりしてるもの。学校の他の子たちと並ぶと、何だか大人びて見えるしね」

 アロイスは首を傾げて言った。

「それ、良い意味で言ってないね? 老け顔ってこと?」

「他の子が若々しいのよ、きっと」

「何それ、ひどい」

 ひとしきり笑って、アロイスは口を開いた。

「さみしくはないよ。父さんが帰ってこなくてもね」

 ドロテアは寂しげに表情を曇らせた。

「仕事があるのよ」

「都で?」

「そう。都で仕事をしているでしょう」

「本当に、都でいるのかな?」

 表情の強張ったドロテアに、アロイスは咎める目を向けた。

「どうしてそう信じられるの? 母さんの具合が悪い時、こんな時にも帰ってこない、言伝も寄越さない人を、どうして信じられるの?」

 ドロテアは悲しそうに、宥めるようにほほえんだ。

「そんなことを言わないで。仕事があるのよ」

 むっつりと返事をしないアロイスに、ドロテアは何も言わなかった。父親の話題も、母が父へ向ける、手放しにも見える信頼がうさんくさく神経を逆撫でして、アロイスは好きではなかった。話題を変えようと目を落とした食器の中に、あの森の食材を見つけて、口を開いた。

「このお魚ときのこだけど。猟師のネーポムクおじさんが、母さんを心配して分けてくれたんだよ。早く元気になるように、って」

 ドロテアは思い出すようにほほえんで、そばに立てかけた杖に目をやった。

「そうなの。あの人は本当に親切ね。この杖を修理してくれた時も、助かったわ」

「本当。どこかの誰かとは違うね」

 ドロテアの平手が飛び、アロイスはじりじりと熱く痛む頬に手を遣った。落胆と動揺を隠して、落としたスプーンを拾い、ナプキンの端で拭った。

「アロイス。言っていいこととよくないことが、お前にはわかってるはずよ」

「どうしてわかるの? 都にいるなんて、僕たちは騙されてるよ。母さん。父さんが母さんの夫かどうかも、僕が二人の子どもかどうかも、本当はわからないんだよ。母さんが憶えてることも、思い出も、母さんの知ってる父さんのことも、どうして本当だと信じられるの? いつの間にか、誰かがでっちあげて吹きこんだものじゃないって、言いきれる?」

 食事を続けようとしながらできず、ひとつひとつの言葉をこぼすように言うアロイスの震える手を見て、ドロテアは食器を脇へ置き、手を伸ばした。やりかたを思い出すようにぎこちなく、息子の手を包む。

「最近、お前について母さんにはわからないことも増えてきたわ。でもそれでいいの。ただ、アロイス。お前は私の子よ。それも信じられない? この村には、これほど見当はずれなことを言う人はいないわ。間違ったことでさえ、お前をそこまで信頼させられるのは、誰なの?」

 アロイスはそっと手を引っこめた。

「……言えない」

 ドロテアは苦い表情で、空を掴んだ手を下ろした。重い沈黙の中、アロイスは食事を続け、ドロテアはその姿を見つめていた。



 翌朝、朝食の食卓では言葉は交わされなかった。アロイスが玄関の扉を開けると、戸口に牛乳瓶が置かれていた。牛乳瓶を台所に仕舞って、家を出る。グードルンおばさんとテオフィールおじさんと、いつも通りの朝の挨拶を交わしながら通りを歩いた。

 学校へ向かう林の小道を抜け、校庭と校舎を囲む林と、その向こうに広がる常緑の森を見遣った。丘の上に覗く白いさいころが、やけに近づいて見えた。見ないように視線を落として、校舎に向かう。いつも通り、一番乗りの習慣で、鉢の下の鍵で校舎に入る。冷えた空気と静寂で心身を浄化するように、アロイスは静かな挙動で教室に入った。

 次に来たのは、ベアトリクスだった。いつも通りの時間と服装。アロイスは贈り物の包みを手に、彼女の席へ向かった。

「おはよう。ベアタ。今朝も牛乳をありがとう」

「おはよう。ドロテアさん、具合はどう?」

「大丈夫だよ。ありがとう。あの、これ……最近のこと、母さんがお礼をしたいって」

 息を弾ませ、寒さに頬を紅潮させているベアトリクスに、アロイスは包みを差し出した。驚きとはにかみがせわしなく入り混じる表情で、彼女は包みを受け取った。アロイスを見つめる目に、促すように頷くと、彼女は戸惑う手で包みを開いた。オリーブ色のケープが現れ、彼女の表情は嬉しさに華やぐ。

「ああ見えて、けっこう元気なんだ。母さん。だから、心配しないで」

「嬉しい……ありがとう。大事に使うね。また、お礼とお見舞いに行くわ」

「ありがとう。母さんも喜ぶよ」

 ベアトリクスはケープを丁寧に丁寧にたたみ、包みに戻した。アロイスが自分の席に戻ると、教室の裏口側の扉から、いつも通りの盛大な足音で双子が教室に滑りこんできた。その直後に、リーゼロッテ先生が教室に入ってくる。双子は駆け足で外套を壁に掛け、全員がそれぞれの席に着いた。先生は黒板からチョークを手に取り、四人を見回した。

「さあ、授業を始めましょう」

 授業中、アロイスはこっそりと双子の様子を窺った。普段と変わった様子はなく、昨日の騒ぎが夢のようだった。アロイスは自分自身に起きたことを思い出し、彼らの身にも起きたであろう何らかの出来事を思った。考えているうちに薄ら寒くなり、昨日のことを考えるのを中断して、授業に集中することにした。

「今日は、ここまでにしましょうね」

 読み書きと計算の授業を終え、先生はチョークを置く。ベアトリクスはノートを手に教卓に向かい、双子はなぜかすでに帰り支度を終えて教室の外へ向かっていた。アロイスは慌てて二人を呼びとめた。

「ごめん。少し訊きたいんだけど、何か急ぎの用事かな」

 双子は訝しげに顔を見合わせ、揃って首を振った。

「歩きながらでもいいか?」

「急ぎの用はないんだけどね」

 アロイスは手早く帰り支度を済ませて、二人に合流した。教室に残って勉強会をするベアトリクスと先生に別れを告げ、三人は校舎を出た。今日は理科の授業がなかったため、昼までにはかなり時間がある。

「珍しいね。アロイスが僕たちに話があるって」

 おずおずと口を開いたヴィクトルに、ヴァルデマルも黙って頷いている。いやな予感の通りになっていることに気が遠くなりながら、アロイスは平静なつもりで答えた。

「昨日、エーレンフリートの後をつけるって言ってたけど、あの後どうなったの?」

 二人はぽかんとした後、弾けたように笑いだした。

「何を言ってるんだよ。俺たち、そんなことしてないよ」

「一体どうしたの? アロイス」

 双子は笑いすぎて涙を浮かべながら、互いにふざけて小突き合っている。アロイスは愕然とした思いで、問い続けた。

「都へ行くんでしょう? ヴィクの片目を治すために……」

 二人の表情が凍った。顔を見合わせ、驚愕の表情で互いに首を振っている。ヴァルデマルは少し考えこんだ後、冷え切った目でアロイスを見た。

「どうして知ってる? ヴィクも俺も、他の誰にも話してないんだぞ」

「それは……」

「気味が悪いな。……行こう、ヴィク」

 言い淀むアロイスに不信の冷たい目を向けていたヴァルデマルは、言葉を短く切ると、ヴィクトルの手を取った。戸惑うヴィクトルが、彼とアロイスを交互に窺うのを見て、苦々しそうに首を振り、手を離した。

「何だってんだ。ヴィク、先に行ってる。いつものところでいるから、すぐ来いよ」

「うん。わかった。すぐ行くから」

 早足であっという間に遠ざかったヴァルデマルの背中を見送り、アロイスはおそるおそるとヴィクトルを見た。彼は複雑に沈んだ笑みを浮かべて、兄弟の背中を見つめている。

「どうして知っているのかは訊かない」

「ごめん。突然に」

「いいんだ。僕たちが都へ行きたいのも、それが僕の片目を治すためというのも、本当」

 アロイスはためらったが、ヴィクトルの真摯な目に見て、口を開いた。

「君たちに確かめたいんだけど……君は本当に、目を治そうとは思ってないの? 治ったら、ヴァルドが自分から離れるんじゃないかって思うの? ヴァルドも、君の目を治したいって真剣なのは……本当は、双子なのに目が違うことが、受け入れられないから?」

 ヴィクトルはほほえんで、ため息をついた。

「誰に聞いたのかは知らないけど、誤解されてるのはいやだから、話しておくね。ヴァルドは、僕が心配だから治したいと言ってる。でも本当は、双子なのに目だけ違うのが気に入らないから、とも言ってる。本当の本当は、自分を責めてるからだよ。そこまでは知らなかった? それとも、聞かされなかった?」

 アロイスは息を飲んだ。ヴィクトルは悲しいほほえみで続ける。

「僕たちは生まれてきた時、ヴァルドの足と僕の頭が同時だったって、言われてるよね。生まれてくる前、僕の目を蹴ってしまったんじゃないかとヴァルドは思ってるんだ。だから自分を責めてる。彼が僕を気にかけて、甘やかせてくれるのは僕も嬉しい。でも、僕だって心から治したいと思ってる。ヴァルドは何も悪くないのに、黙って自分を責めて苦しんでいるのは、見たくない。この目が治って、もしヴァルドが僕から離れるようなことがあっても、それだって僕は嬉しい。もちろん、逆の場合もね。わかってくれる?」

「ごめん、ヴィク。僕……」

「気にしないで。僕たち、アロイスとは今まであまり話したことがなかったから、たぶん誰かの想像を聞かされたんだと思う。でも、僕たちは本気なんだ。誰が話したのかは知らないけど、その人の考えは、見当はずれだよ。信じない方がいい」

 アロイスは力が萎えた思いで、頷いた。

「そうだね。本当にごめん。ヴィク。ヴァルドにも伝えておいてくれる?」

「わかった。君は、あまり気にしないで。それじゃあ、またね」

 手を振って、駆けていく。彼の話を反芻しながら、アロイスは帰路についた。



 郵便局に行くと客はおらず、オフェリアがひとり、箒を手に床掃除をしていた。入り口からは後ろ姿しか見えないが、ゆうに膝まで届く彼女の長い髪は、黒い滝のようだった。上品に波打つ髪は、窓からの光を受けて濡れたような光沢で輝いている。扉のベルが鳴りやむ頃、やっとアロイスを振り返った。

「いらっしゃい。アロイス。この間は……」

「先生から聞いたよ。気にしないでね。このあたりで、毛糸の帽子を見なかった? 深緑色と、白の」

「ああ、例の……。ごめんなさい。私は見ていないの。見つけたら知らせるわ。どのあたりで失くしたの?」

「林の中で。でも、犬が持ち去ってしまったんだ。薄茶色でふさふさした、大きな犬」

「薄茶色で、ふさふさの犬……」

 オフェリアはふと目を上げた。近くで見ると疲れた様子で、目元にはくまの色が濃い。

「知ってるの?」

「以前、ズロガートが連れているのを見たことがあるわ。それだけだけれど」

「じゃあ、やっぱりあそこの犬なのかな。ありがとう。もう一度、探してみるよ」

 アロイスは続けて訊ねた。

「オフェリアは村の外への手紙の対応をしてるって聞いたけど、一体どうやって?」

「他の人が受け取る手紙を、見たことがある?」

 アロイスは首を振る。オフェリアは気だるげに続けた。

「白紙なの。私かユーリャが受取人に、ある言葉を言いながら手渡すと、出した手紙の返事が来たという満足を、一時的に彼らの記憶に植えつけられるのよ。内容は必要ない。返信は、全て私が出しているの。彼らはそれで満足して、やがて全て忘れる。家に手紙が残っているはずだけれど、読み返しても疑問には思わないの。しばらくすれば、前に出したものとまったく同じ内容の手紙を書いて、郵便局へ持って来るわ」

「でも、僕の父さんの手紙は白紙じゃなかったよ。前に一度、見たけど」

「そうね。唯一、本人が書いている手紙だもの。あ、ウータと文通している隣村の花屋は別ね。あれは私だから」

 言葉を失っているアロイスに、オフェリアは深く青い目を向けてほほえんだ。

「他の手紙は、時々は私が話を合わせて返事を書いているの。何の意味もないけれどね」

「オフェリアが? どうして? ズロガートに怒られないの?」

「時々、お仕置きを頂戴するわ。でも、退屈なんだもの」

 ズロガートのことを思い出すと、口の中に苦い味が広がった。

「オフェリア。彼は、どうしてこの箱庭を作ったの?」

 彼女は窓の外へ目を遣りながら、おもむろに口を開く。

「表向きは、旅へ連れて行かないサティーを住まわせるため。でも本当は、彼は気付いていないけれど、サティーを愛しているからよ。愛しているから、特別な箱庭に住まわせたの。その時、サティーが生物の存在を望んだから、渋々この村を作ったの。ここは、ひとつの村がひとつの世界を構成する、とても小さな箱庭。あの人が作った数多の箱庭の中でも、ここは特別に小さくて、特別にのどかなの。何もかも特別にできているわ」

 アロイスも窓へ目を向ける。遠くに、山脈が見えた。

「それなら、あの山の向こうには何があるの?」

「何もないの。見てみたいなら、あの人に頼めば連れて行ってもらえるわ。頑張って何日か歩いていけば、あの山脈の尾根に立てる。白紙よ。その先の土地は」

 オフェリアは窓から目を離した。アロイスは迷ったが、訊ねることにした。

「どうして、母さんにおまじないを教えたの? 他にも、あの人に隠れて、似たようなことをしてるのはどうして?」

「今回のことは、申し訳ないと思っているわ。そうね。願うことも祈ることもできるのに、おまじないも願掛けも験担ぎもない世界があるとは、想像がつかなかったの。あの人に対する、ささやかな憂さ晴らしでもあるけれど」

 アロイスは母やヴィクトルの話を思い出し、あと一歩踏みこんでみる。

「それはズロガートも知ってた。でも、本当は別の理由があるんでしょう?」

「どうしてわかったの?」

 オフェリアは明るく笑った。湖面が陽光を受けてきらきらと輝くような、無邪気でどこか超然とした笑みだった。彼女は続ける。

「本当はね、退屈なの。手紙の返事を楽しみに待っていた人に、白紙を渡すだけの仕事で私は一生を終えたくはない。不変の秩序など、結局はあの人の恣意的な支配なんだから。変化を許したって、この村はきっと平穏に暮らしていくわ。この箱庭と住人の変化を許さないのは、あの人の臆病のせい。だから、ここの皆が、それぞれ今より少しだけ幸せになるための可能性を、私は育てているの。おまじないも、そのひとつ」

「おまじないで、それが変わるの?」

「もちろん、おまじないだけでは変わらないわよ。……そうね、可能性を育てることは、植物を育てることに似ているわ。土壌、水、日光、湿度、風通し。環境を整えてあげれば、後はそれ自身の生命力と意志、そして少しの運命の問題。植物はそれだけで逞しく育っていくけれど、人はそうじゃないわね。不運に見舞われて育たないもの、お膳立てされても育つ意志がないものもある。可能性は多い方がいいわ。だから私は、この村に変化の種を蒔き続け、その芽が育つよう環境を整え続けるの。そうして咲いた花が次の種を蒔いてくれることが、私を生かしてくれるから」

 オフェリアの話はまだ理解しきれなかったが、アロイスはまた別の庭番の話も聞くことにした。最後に、おそるおそる訊ねる。

「父さんが自分で手紙を書いてるって、本当?」

「本当よ。都に住んでいるということは嘘だけれどね。昔はここにも住んでいたの。ごめんなさいね、それ以上は口止めされているの」

 驚きながら、アロイスは彼女に礼を言って郵便局を出た。戸口からは、自転車を押して裏手へ消えていくユーリャの後ろ姿が見え、すぐに彼を追った。

 郵便局の裏手では壁から庇が出ており、その外は煉瓦を組んだ花壇が並ぶ裏庭になっていた。オフェリアが世話をしている花壇で、冬にさしかかった今、剪定された庭木の合間で、寒い季節に咲く花々が裏庭を彩っている。ユーリャは配達用の鞄を肩に掛け、庇の下で自転車に油布の覆いを被せていた。

「ユーリャ。どこかで、毛糸の帽子を見なかった? 深緑色と、白の」

「僕は見てない。クレメンス先生から聞いたよ。見つけたら君に渡せばいいんだろう」

「うん。お願い。……ねえ、ユーリャはこの村のこと、どう思ってるの? ユーリャも、庭番の仕事で退屈な思いをしてるの?」

 ユーリャは訝しげにアロイスを見下ろした。いつも自転車を飛ばして、ぶっきらぼうで、それでいて自信なげで、冬の曇り空のような色の目をしている彼は、今日はいっそう元気を落とした様子に見えた。考えこんだ様子でアロイスを見つめてから、やがてユーリャはためらいがちに口を開いた。

「退屈だとは思わない。郵便配達が好きだから。でもサティーは……きっと、寂しい思いをしていると思う」

「この箱庭がなくなったら、どうするの?」

「僕には、難しいことはわからない。寂しいが、その時はその時さ。……そうだな。そうならない代わりに、ズロガートとサティーが文通をしなくなったとしても、僕には惜しくない。もし君がそのために何かするつもりなら、僕も協力する」

 アロイスはいつになくユーリャが頼もしく見えて、冗談を言った。

「自転車に乗せてくれる?」

「それはだめ。僕の話、聞いてた?」

 彼は珍しく笑った。彼の白っぽい金髪が日に照らされて、月色の絹糸のように煌く。

「ユーリャ。僕の父さんが今どこに住んでるのか、知ってる?」

「口止めされてて、詳しくは言えないけど。時々は帰ってきて、君のこと見守ってるよ」

 驚いてユーリャを見上げると、彼はまぶしそうにアロイスを見ていた。アロイスは彼に礼を言い、郵便局を後にした。

 馬車屋に向かうと、エーレンフリートは厩舎の前で雑巾を片手に、幌を外した馬車の汚れを落としていた。声をかけると、青年はじんわりとにじんだ汗を拭いながら顔を上げた。額の汗を拭うにも、彼の目印となっている帽子は取らなかった。

「エーレン。どこかで、毛糸の帽子を見なかった?」

 ふう、と息をついて彼は腰に手をついた。

「君のことは聞いたよ。僕は見ていないけど、見つけたら知らせる」

「ありがとう。お願い。あと、このあたりで、薄茶色で大きな犬を見かけなかった?」

「毛が長くてふさふさした犬? その犬なら、森で見たことがあるよ。ズロガートが犬を飼っているらしいが、その犬のことじゃないのか? そうでなきゃ、ネーポムクの猟犬だろう」

「そうなんだ。……ねえ、エーレンがこの箱庭の外に出られるって、本当?」

 エーレンフリートはきまり悪そうに目を逸らし、雑巾を近くに置いたバケツへ投げた。

「そうだ。あの人は、自分が生んだ数々の箱庭を旅し続けていて、旅先からサティーに手紙を出すことがある。それを受け取りに行き、運んでくるのが僕の仕事の一つなんだ。本来ならユーリャもこの仕事をしてもいいんだが、あの子が外に行きたがらないから、この箱庭までは僕が運んで、ユーリャにはサティーへ届けてもらっている」

「自分で作った箱庭を自分で旅するって、どういうこと? どうして?」

 アロイスが訊ねると、青年は困ったようにうなじを掻いて考えこんだ。

「他の箱庭のことは、怒られるので詳しくは言えないが……。この箱庭の外には、裏庭とか、荒野とか、広野、っていう世界がある。その中に、彼の作った無数の小さな世界が群れとしてあるんだ。あの人はそれらを旅して暮らしているが、どこかに留まることはない。人間関係も使い捨てだ。彼自身はどう感じているのかは知らないが、あの旅は……僕から見ればだが、寂しくて、不毛だ」

「でも、ズロガートはサティーを大事にしてるんでしょう? どうして置いてけぼりに?」

 青年はため息をついた。アロイスから目を離し、バケツに向かって雑巾を洗う。しばらくして、頬に飛んだ水をぐいと拭って、思いきった様子で口を開いた。

「昔、彼は変わるものに振り回されるのが心底いやになって、変わらないものに囲まれた場所で生きたいと願った。真の孤独を求めた。そしてそれを叶える多くの箱庭を作り、旅を続けた。暇を持て余していたのか、ある日、至極変わりやすいもの、例えば人の友情を皮肉って、精巧な機械の頭に余白を与え、非常に不安定なロボットを作った。その余白で、迷いや不安、ためらいや疑念が渦巻くようにと。それがサティーだ」

 話しながら、エーレンフリートは雑巾を押し洗いしている。冷たい水と冷たい風に触れた手が、桃色に色づいていた。ひとしきり話した後で彼は雑巾を絞り、話を続けた。

「滑らかに身動きし、精確な数の計算ができ、五感の無垢な記録ができる以外には欠陥だらけの、頭が空っぽの、冗談みたいなロボットを連れて、彼はしばらく一緒に旅をした。ばかにしながら、軽蔑しながらね。そして突然、この箱庭を作り、あの白い建物にサティーを閉じこめたんだ。彼はまた旅に出て、時々ここへ帰ってくる」

 アロイスには、深い事情の部分はうまく呑みこめず、その裏にあるズロガートやサティーの感情や思惑にも想像がつかなかった。ただ、ずっと燻っている単純な疑問をぶつけた。

「どうしてサティーを閉じこめるの?」

 エーレンフリートは雑巾を片手に立ちあがり、苦笑いでアロイスを見下ろした。

「彼はサティーを愛してしまったんだ。たとえロボットでも、サティーがもし変わってしまったら? かつて自分を身勝手に振り回した他の人間のように、移ろいやすい心を剥き出しにしたら? 彼はそれを恐れている。村もサティーも変わることはないだろうけど、念のために見張っているのが、庭番の僕たち」

 アロイスが唖然としているのを見て、彼は少し笑った。

「僕だってどこかの誰かのクローンだけれど、僕の心は僕だけのものだ。その心の底から思うよ。彼には、彼自身の変化を認めて欲しい。彼が探していた変わらないものは、すでに彼の手の中にあるんだということを。それは、あるひとつが得られたなら、他のすべての人間が敵になっても、移り気な運命に翻弄されても、苦難がその意味を大きく変えるほどのものなんだから。それに、サティーへのあの人の愛情は、庭番みんなが知っている。認めようとしないのは、もはや彼一人だ」

 話し終えると、青年はアロイスに背を向けて掃除を再開した。アロイスがその背中へお礼の言葉を投げると、振り返らずに手を振った。

 馬車屋の前の通りへ出て、アロイスは伸びをした。昨日のネーポムクおじさんも含め、庭番全員に話を聞いたが、まだ良い考えは思い浮かばなかった。広場から、昼を告げる鐘の音が聞こえてくる。帽子を見つけることに焦りを感じ始めてはいたが、同時に父親の正体について強い興味が湧き始めていた。だが、家に帰って母に聞きたくはなかった。母の手放しの信頼ぶりが、かえって不信感を煽るからだ。ズロガートの「探してみろ」との言葉通りならば、自力でも探し出せるということなのだろう。アロイスは鐘楼へ向かった。



「おや。今日はまた、どうしたんだい?」

「今日も、日記を見せてもらいたいんだけど……」

「熱心だねえ。まあ、あんな日記でも役に立つといいんだがね。お入り」

 招き入れられて、アロイスは鞄を下ろし、外套やマフラーを外していった。

「ねえ。フェーベは僕の父親のこと、何か知ってる?」

「あまり憶えていないねえ……すまないね。確かお前が生まれてすぐ、都へ出て行ったんだったかね。ドロテアからは聞いてないのかい? それより、お昼ご飯はどうしたね?」

「日記を調べながら食べようと思って。あっちで食べてもいい?」

「いいとも。お茶は好きに淹れてくれたらいい。私は仕事場にいるよ」

「うん。ありがとう、フェーベ」

 フェーベが上階へと消えると、アロイスは昼食の包みを出して、日記の隠し場所へと向かった。腰かけを移動させ、床板を外す。整然と並ぶ日記を見て、昨日のめまいを思い出した。床に座りこみ、呼吸を整える。日記や手を汚さないよう慎重に昼食を食べて緊張をやりすごしつつ、一番左端、最も古い日記を手に取った。

 年号を見ると、六十五年前だった。並んでいる出来事は昨日見た最新の日記と同じように見えたが、違いはすぐに見つかった。フロリアンが村にいて、代わりにある人物が存在しないのだった。正確には、注意深く読めば名前は散見されるのだが、何の行動も見せない、名前だけの、亡霊のような存在だった。そこで、すがるような願望に似た、小さな疑惑と仮説が生まれた。アロイスは震える手で昼食を脇へ置いた。体がかっと熱くなるのを感じながら、六十五年前の日記を戻し、年号を頼りに十六年前の日記を探し出した。

 自分の生まれた年を境にフロリアンは村から消え、亡霊同然だった人物がフロリアンの役割を埋めていた。冷えていく指先で日記の背を辿り、必死に自分の思い出を掘り返して年号に見当をつける。ズロガートが隠していたのならば、そしてもしアロイスの仮説が事実ならば、例えばあの「思い出」は「経験」、作られたものではない本物の思い出だった。

 十二年前、アロイスが四歳の時。ねだって買ってもらったばかりのりんごのパイを帰り道で落として、泣きじゃくったこと。ツェツィリエおばさんが新しいパイをくれたこと。

 七年前、九歳の時。家の裏のざくろの木から落ちて怪我をしたこと。心配しすぎたのかドロテアは熱を出し、グードルンおばさんが泊まりこみで二人の世話を焼いてくれたこと。

 そして二年前、十四歳の時。ドロテアが奮発して買った生地ではりきって仕立てたコートが、急に伸びたアロイスの背丈に合わず、一度も着られなかったこと。この時、よほど悔しかったのか、それとも嬉しかったのか、卵を買いに行く以外はめったに外出しないドロテアが、驚くべきことに鐘楼のフェーベの家まで赴き、長話をしていたこと。

 アロイスは十六年分の日記を注意深く浚った。ドロテアが繰りかえし語る「思い出」、とりわけ他の村人も巻きこんでアロイスがしでかした失敗は、フェーベの日記にも記されていた。確かに近年の記憶はない。しかし思い出として語られてきたものは本物だった。

 頬を熱い涙が撫でて落ちた。そして母親を疑ったことが恥ずかしく、申し訳なかった。今すぐ会って謝りたくなった。自分は十六年前、この村で生まれたのだ。クローンとして生まれ、年齢を設定されているのではない。両親の間に生まれ、十六年の年月を確かに重ねてきたのだった。自分一人、喜ぶべきではないとわかっていたが、それでも嬉しかった。

 アロイスは頬や目元を拭った。散らばった日記を整理して元の場所へ戻し、隠し場所を元通りにした。残っている昼食を口に詰めこみ、外套やマフラーを着込む。やはり何としても、帽子を探し出さなければならなかった。お礼の書き置きを残してフェーベの家を出ると、鐘楼を駆け降りる。一方、誰が本物のフロリアンなのかについては、考えられる人物が二人いるために、まだ不確かだった。しかしそれは、帽子を見つけ出した後で庭番の誰かに確認すればいいだけのことだった。彼らの口ぶりからしても、聞き出すことは難しくとも、確認するだけならば許されているように見える。

 鐘楼を飛び出すと、広場ではエーレンフリートが、何か黒いものをシャベルでつついていた。その隣で、ユーリャが箒を手に周囲を掃いて回っている。アロイスにも匂いでわかる。二人は馬の落し物を片づけているのだった。エーレンフリートはアロイスに気がつくと、手を振って手招いた。手を休めて額を拭い、シャベルの長い柄にもたれる。

「ちょうどよかった。アロイス。君の帽子が見つかったよ」

 作業を続けていたユーリャも手を止めて、彼を見上げた。言葉を失っているアロイスを見て、エーレンフリートは少し弾んだ息で言い足した。

「幌の修繕を頼みに、さっきネーポムクの家に行っていてね。その帰りに、馬がね」

 シャベルで馬糞の塊を示す。アロイスは話に身を乗り出しかけて、つんのめった。

「おじさんが?」

「ああ。彼が持っているよ。君から聞いていなかったそうだが、お詫びついでに直接返したいとのことだ。早く行ってくるといい」

「よかったな。アロイス」

 ユーリャも珍しくほほえみながら言う。お礼を言って駆けだしたアロイスを、二人は手を振って見送り、作業を再開した。

 アロイスは逸る胸を抑えて、森へと駆けていった。日は天頂から傾き始め、一日で一番明るい日射しを投げかけている。林の縁に沿って走りながら、フロリアンのことを考える。彼だと考えられる人物は、ネーポムクとズロガートの二人だった。目星はつけられても、確信するには至っていない。アロイスは十六年前の前後一帯の日記も調べたが、やはり子どもが生まれたことをきっかけに、何らかの事情で父親は家を出たようだった。彼の村での役割、つまり大工仕事は、それまで「森番」として実体なく村の外に存在していた、ネーポムクが引き継いだと考えられる。父親がズロガートならば庭番に命じるだけで済み、ネーポムクだとしても元が同一人物のために入れ代わりは容易いのだろう。

 アロイスは、ズロガートではあって欲しくないと思っていた。彼がどのような過去や苦悩を抱えているにせよ、彼をどうしても好きになれないことに理屈はなかった。一方で、ネーポムクが父親だったらと思ってみても、あの親切なおじさんに対してさえ憤りが沸々と湧きあがった。どのような事情があったにせよ、父親が一度も家に帰らなかったという事実は、アロイスの内面に深く冷たい淵を穿っていた。記憶が、自分のあずかり知らぬところで取捨選択されているとはいえ、アロイスの思い出のどこにも、父親はいない。時間に穿たれたその暗い深みは、時間にしか埋められなかった。希望通りの結末がまるで魔法のように、瞬時に埋めてくれるものでは決してなかった。

 足を止めて、少し休む。弾む胸が痛んで苦しい。じんわりとにじんできた汗を拭い、野原に伸びる道の先に目を向けた。前方では、丘が緩やかに腕を広げている。アロイスは再び走り始めた。

 ネーポムクおじさんの家は周囲一帯が静寂に包まれている。アロイスは立ち止まり、呼吸を整えた。時折、風にそよぐ無数の枝葉が立てる、慎ましく重厚な音が遠く聞こえる。森の静寂を乱さぬよう、そして真実に逸る心の準備をしながら、そろそろと戸口の階段を昇った。



 扉を叩いて待ったが、返事はない。戸口を離れて窓を覗くと、中にいるのはズロガートだった。足元に何かあるのか、視線を下げたまま動かない。ネーポムクおじさんの姿は見えなかった。アロイスは息を飲んだ。この家にはあの毛糸の帽子がある。彼も何らかの方法でそれを知って、ここへ来たに違いなかった。アロイスは玄関へ駆けもどり、扉を開いた。居間に立つズロガートが振り向き、感情の籠っていない笑みをアロイスに向けた。

「来たのか。アロイス」

 彼らの姿が、開けっぱなしの扉から入る明かりに照らされる。ズロガートは鎖を手にしており、その先に一匹の犬が繋がれていた。大きくしなやかな体躯、薄茶色と金色の交ざった長い毛、赤茶色の首輪。口には、毛糸の首輪を咥えていた。アロイスが帽子に目を遣ったのを察して、ズロガートは低く笑った。

「灯台元暗しだったよ。お前は灯台を知らないだろうが」

 ズロガートは鎖をいっそう強く引いた。犬は足を踏ん張り、鼻にしわを寄せて白い牙を見せて唸りながら、手荒く引っ張られる鎖に全身で抵抗している。アロイスは犬に駆け寄り、鎖を握って犬に力を貸すと、ズロガートに向き直った。

「何してるんだ! いやがってるじゃないか!」

「何を? 帽子を取り戻してやろうと思ってな」

 そう言って、再び強く鎖を引いて引き寄せる。犬の爪が床板を掻いて音を立てた。首輪で首が締めつけられて、犬は喘ぐような苦しい息をしているが、帽子を離さなかった。

「こんなひどいことができるなら、あなたは犬なんか飼わないだろう。この犬だって、ネーポムクおじさんが飼っているんじゃないのか。早く放してあげるんだ!」

「ネーポムクが飼っている? こんな手のかかる犬を?」

 ズロガートは笑って、鎖を引く力を緩めた。犬が何歩か後ずさり、重く鎖が垂れる。

「私が飼っているんだよ。そうだろう、ネーポムク」

 そう言って彼は、鼻で荒い息をしながらも口は頑として帽子を離さない犬を凝視した。言葉の意味が理解できないアロイスの目の前で、ズロガートの凝視が屈服させたように、犬が姿を変えつつあった。四肢が伸び、肩が横へ広がって、胸が広くなる。枯れ枝を折るような音を無数に立てて、骨格が変わっていく。耳が縮み、顔が起伏を変え、獣毛は白い肌に吸いこまれるようにして消えた。

 榛色の髪、苔色の目をしたその人は、衣服こそ纏ってはいないが、ネーポムクだった。首輪と鎖はいまだ残り、ズロガートは再び鎖に力を込めた。長い指と膝を床についたままネーポムクは抵抗するが、犬の体と違って徐々に引きずられつつある。二人の間に入ったアロイスは、鎖から離れた手を茫然と下ろし、何も考えられずに彼らを見つめた。

「おじさん……」

 頭を抱えて呟くしかできないアロイスに、彼は口に咥えていた帽子を手に取り、開けっぱなしの扉の向こうへ投げた。しかし、突っ張っていた腕を使ったために体勢を崩し、床に倒れてしまう。

「逃げるんだ、アロイス! 帽子を……」

 声を上げた彼をズロガートは乱暴に鎖で引き寄せ、背を踏みつけた。肌に靴底を沈めて押さえこむと、帽子が消えた外を無感動に見遣る。アロイスは二人から何歩か離れた。

「何をしているんだ、逃げてくれ! 早く!」

 床にねじ伏せられたネーポムクが、くぐもって呻くような声を上げた。二人から目を逸らせて、アロイスは駆けだした。

 玄関を飛び出し、階段を駆け降りる。帽子はすぐそばに落ちていた。拾い上げてぎゅっと握ると、振り返って戸口を見上げた。ここからでは、二人は見えない。

 アロイスは引き返した。いつでも外へ逃げられる戸口に立つ。

「父さん」

 アロイスは帽子をしっかりと胸に抱き、膠着状態で睨み合う二人へ、決して大きくない声を投げた。その声に応えたのは、ネーポムクだった。彼は弾かれたように、唖然としてアロイスを見上げたのだった。そうして、しまったという様子で目を伏せる。

「父さんなんだよね」

 アロイスは震える声を絞り出した。ずっと呼びたかった人に、言いたかった言葉を。

「僕は何が何でも離れない。あなたができなかったことを、僕は繰りかえしたくない」

「……逃げろと言っているだろう!」

 ネーポムクが叫び、ズロガートが耐えきれないように低く笑った。

「親子揃って、手を焼かせる……」

 そう言って鎖を引き上げ、まだ足で押さえつけているネーポムクの顔を上げさせた。

「アロイス。こいつが父親だと、どうして確信できたんだ?」

「いい人だから。さっきも僕を気遣ってくれた。少なくとも僕の母さんなら、あなたよりこの人を選ぶ。彼を愛していると言っても、僕でもまだ納得できる」

「そうだろうな」

 ズロガートは冷笑を噛み殺している。アロイスは続けた。

「もうひとつある。あなたが、人間と結婚するような人じゃないからだよ。あなたにはもう、心に決めた人がいる。それは僕の母さんじゃないから、僕の父さんでもない」

 ズロガートは苦笑して肩をすくめた。

「庭番たちのおしゃべりにも、困ったものだな。退屈させている私も悪いがね」

「父さんを傷つけたら絶対に許さない。サティーが密かに願ってることを、教えない」

「そうか。それは困るな。もっとも、サティーが私に隠してまで願うことなど、あるのかね? 君は知っているのか、ネーポムク?」

 声をかけながら、ズロガートは再び彼の顔を上げさせて覗きこむ。ネーポムクは何も言わず、逆に問いかけるように静かなまなざしで、灰色の男を見つめていた。ネーポムクの首に食いこむ首輪が痣を作っているのを見て、アロイスは焦った。

「ズロガート。父さんを離すんだ。あなたはサティーの一番近くにいながら、あなたが一番悲しませてる。それがどうしてかさえ、あなたは知らない。知りたいなら、父さんを離せ。明日、僕の望みを叶えてくれたら、サティーの望みを教えてあげる。サティーもきっと喜んでくれる」

「期待はできそうにないな。アロイス」

 ズロガートの得体の知れない、無感情な笑みに気圧されながら、アロイスは虚勢を張るだけで精一杯だった。ズロガートという男は、冷淡だが冷血ではないという確信があった。彼には、サティーとサティーに関するあらゆることが弱味となる。服の中で、背中に冷たい汗が流れるのを感じる。

「信じられないなら、サティーに訊いてみたらいい。サティーはあなたに、はっきりとは言わないだろうけど。とにかく今、父さんに何かすれば、あなたはその答えを得られない。きっと、この先もずっと」

「必死だな。アロイス?」

 ズロガートが冷笑する。

「何とでも言ったらいい。あなたが父さんを離さないなら、僕は帽子を持って村に帰る。あなたたちから聞いたことを書けるだけ書き残して、村のあちこちに隠すことにする。記憶を消されても、何度でも思い出して、何度でもここまで来て、あなたを困らせる。村を消すと脅すなら、消せばいい。その時はみんな一緒。残されるサティーが悲しむだけで、僕たちは何も恐れることはない。今それを考えれば、悲しいけど」

 話しながら、緊張のためにじりじりと頭に血が昇るのをアロイスは感じていた。出せるものはすべて出し、いつの間にか上がっていた息を落ち着かせる。ズロガートは探るようにアロイスを見つめていたが、やがて元の遠くにいるような笑みを浮かべた。

「まあ、いいだろう。約束は約束だ。明日まで待つことにしよう。せいぜい頭を絞って、サティーの望みとやらを考えてくるといい。見当はずれな話を持ってきて、私の逆鱗に触れるな」

 そう言うと、彼はネーポムクの背から足を下ろし、鎖を床に落として玄関へ向かった。戸口に立っていたアロイスは、慌てて彼を避けてネーポムクに駆け寄った。ズロガートの姿はすぐに見えなくなる。



 アロイスとネーポムクは、暖炉のそばで座っていた。衣服を着込んで暖を取るうちに、凍えて震えていたネーポムクの体も落ち着きを取り戻したが、二人は終始、無言だった。ネーポムクおじさんがいつも首に巻いていた千鳥格子のスカーフは、首輪の痣を隠していたものだとアロイスはこの時に知った。互いに、急転した関係にふさわしい接し方を模索するだけの沈黙が、ただ過ぎていった。暖炉の炎を見つめながら、ネーポムクがおもむろに口を開いた。

「すまなかった。帰れなくて」

 アロイスも暖炉から目を離さなかった。目が合ってしまったらと考えると、とても父親の方を見られなかった。ただ気まずい沈黙を避けるために、互いにとって、さして重くはない言葉を探した。

「おじさんだったんだね。こんなに近くにいたんだ」

 再び沈黙が降りる。重くはない言葉の意図を汲んで、ネーポムクは答える。

「まだ、家には帰れないんだ。ドロテアと私は、ズロガートに罰を与えられている。彼女がよく熱を出すのは、罰の……私のせいだ。私は、村に入れない。近づけるのは林の中までだ。一歩でも村に入ると、二人のどちらかが死ぬと言われている。ズロガートの許しを得ない限り」

 アロイスはネーポムクを盗み見た。沈痛で真摯なまなざしでこちらを見つめる目と出会い、苦い気持ちで目を逸らす。彼は再び暖炉の炎へ目を戻した。

「犬の姿になるのは、罰ではなく庭番の能力だよ。自分の意思でもできるが、どんな手を使っているのか、ズロガートは強制できる」

 アロイスは黙って、林の中で出会った犬のことを思い出していた。彼は、林を散策するアロイスの習慣を知っていたのだろう。いつも、遠くから見守っていた。だから道に迷ったあの日、すぐに気付いたのだろう。頭ではそう理解しながらも、胸のあたりでちりちりと何かが焦げるような、知らない感情が沸々と湧きあがってくることにアロイスは戸惑い、苛立っていた。ネーポムクは、言葉をこぼすように吐露した。

「私は、家族の元へ帰りたい。だから今、死ぬのが恐ろしい」

 アロイスは彼を見た。彫りの深い横顔を、首筋まで伸びて緩やかに波打つ髪が覆っている。彼がネーポムクおじさんだった頃、何度もここを訪れては、頼りになるおじさんだと憧憬を持って見つめた顔だった。しかしおじさんはおじさんであって、父親ではなかった。

「どうして帽子を持っていったの?」

 ネーポムクは暖炉に薪をくべた。口元に、自嘲の苦笑いが浮かんでいる。

「笑うかもしれないが、家族との繋がりが欲しかったんだ。君からは聞いていなかったが、他の庭番たちから話を聞いて、これが例の帽子だと知った。君には悪いことをしたね。君が、ズロガートと取引するつもりでこの帽子を探していると聞いて、返そうと決めた矢先だった」

 肘かけ椅子に座りなおして、彼は訊ねる。

「いい考えが浮かんだようだったね」

 アロイスは膝に乗せた帽子に目を落とした。

「外のこともちょっとだけ聞いた。いろんなことを知ってて、不思議なこともできるあの人に僕ができることは、たぶんあれ以外にない」

「さっきは、うまくやってくれたじゃないか。つけこむ、とは言いたくはないが、私たちが彼に太刀打ちできるならば、それはサティーに関してだけだ」

 ネーポムクは暖炉の方へ身を乗り出すようにして膝の上に肘をつき、指を組んだ。

「彼はサティーのことを何でも理解していると自負してはいるが、実際のところ、他者の心情の機微を理解しないことも自覚している。だから、ありもしないサティーの心変わりや、それに自分が気付けないかもしれないということを密かに恐れているんだよ。彼の欠点はその一点で、私たちにとっての壁もその一点だ」

「彼はどうして気がつかないの? 彼が素直になりさえすれば、みんな丸く収まるのに」

 ズロガートに対する多少の苛立ちも込めてそう言うと、ネーポムクは苦笑いで吹きだした。体を起こして深く背もたれに背中を預けると、疲れた笑みでアロイスを見た。

「そうなんだよ。答えは簡単なんだ。彼に素直になってもらい、サティーへの愛情と、サティーからの愛情を認めさせればいい。サティーを所有物ではなく親友なり伴侶なりとして認め、サティーの心を信じて自由にさせるんだ。そうすれば、村の私たちも自由になれる」

「本当に?」

「本当だよ。庭番の間でも、以前から案だけはあったんだ。だが成功はしなかった。私たちのことを彼は、あくまで自分に都合よく設定して作り上げた人間だと考えているから、私たちの話は真剣に聞こうとはしない。いまだ彼は、自分の心も不変だと思いこんでいる。だから、不自然と抑圧のしわ寄せが周囲の私たちを困らせる」

 アロイスはサティーを思った。ズロガートの寵愛を動力に生きていながら、寵愛を失うことを恐れず、ズロガートのことを愛しているとも言っていた。あの美しい、深い思いを湛えた目。あふれんばかりの思いを秘めながら、感情を決壊させないあの不思議な表情。アロイスは手の中の帽子の、整然とした編み目を指でなぞりながら、独り言のように言った。

「サティーはきっと寂しがってる。あの建物に閉じこめられて、好きな人に、好きな時に会いに行くこともできずに。長い間、じっと待つしかないんだ。何て言うんだろう、こんな諺があった? 何だか、犬小屋に繋がれた犬みたい。家族に会いに行きたいのに、自分では会いに行けない。大好きな人に会えるのは、その人が来てくれる時だけ」

 言い終えて、こっそりとネーポムクの様子を窺うと、彼はぽかんとしてアロイスを振り向いた。しばらく何も言えずにいた後、暖炉に向かって頭を抱えている。

「村に犬小屋なんてない」

 村にないものを村人は知らない、と言い淀む彼の様子に、アロイスは笑った。

「ある人たちの気持ちを想像しただけ。誰とは言わないけど」

 他人の心のやわで弱いところを素手で触ってやることは、自分の気が晴れる。だがその相手が誰かの許しを得たいと願っているなら、それが相手にとって癒しとなることをアロイスも知っていた。心のわだかまりは、互いにまだ水に流せないとアロイスは思った。動揺から心を切り替えるように、ネーポムクが小さく咳払いをした。

「ここ数日でしっかりと育ってくれた変化の芽が、実を結ぶことを心から祈っているよ。誰とは言わないが。私にできることは多くないが、必要なら手を貸そう」

 不器用な仕返しに、アロイスは少しだけ笑って、暖炉に目を向けた。

「どうしてあの帽子だったんだろう?」

 ネーポムクも暖炉を見つめたまま、答える。

「そう思いたくなるのも仕方はないが、残念ながら、偶然なんだ。オフェリアは誰に対しても、変化の芽を出し得る種を蒔き続けてきた。芽吹いたものも多かったが、ほとんどは枯れるか、刈られていった。だから私は、ここまで強く育ってくれた芽に期待している」

「林で僕を助けてくれたのは、変化の芽のため?」

 彼がすでに傷だらけであることを知っていながら、アロイスはその傷のひとつひとつに触れたくてたまらなかった。苦々しい衝動を抑えながら、せめて小さな言葉のとげを彼にぶつけた。ネーポムクはもう動じないようだった。

「そう。変化の芽のためだよ。大切な未来の芽。アロイス、君のことだ」

 真剣なまなざしを、アロイスは長く直視できなかった。彼を、頼りにしていたネーポムクおじさんではなくどのように見ればよいか、まだ掴めないでいた。温かみと知性のある顔つきを引き締める切れ長の目、深く刻まれつつある皺、人が好さそうな、まっすぐな鼻梁。おじさんははにかむようによく笑う人で、笑えば深い笑い皺が渋い陽気さを振りまくことを、アロイスはよく知っている。彼の真剣さを、父親が息子の自分へと向ける真剣さだと受け止めることに、抵抗があった。

 アロイスが黙って俯いていると、ネーポムクは話題を変えるように口を開いた。

「今日はもう遅い。暗くならないうちに、帰った方がいい。母さんが待っているだろう」

 そう言われて窓の外を見ると、すでに夕暮れが迫っていた。与えられた時間を確実に過ごしていることに、アロイスは鳥肌が立った。

「でも、明日のことが……」

「君のやるべきことはやっただろう。今日、ズロガートにしたように、明日も同じことをすればいい。君自身、他にできることはないと自分で言っていただろう?」

 戸惑ってネーポムクを見ると、彼はほほえんだ。

「きっとうまくいく。君がこれからしようとしていること、ここ数日でしてきたことは、村の予定にないことだ。だから、何が起こってどんな結果になっても、君がすることは全て、また次の変化の芽に育ち、別の変化の種を蒔くんだ。君がどんな望みをズロガートに言うつもりなのかはわからないが、第一歩には変わりない」

 アロイスは握ったままの帽子を見つめた。自分自身に確かめるように呟く。

「母さんがこの帽子におまじないしたって言ってた、願いを叶えたい」

「……そうか。それならばなおさら、堂々としているといい。少なくとも君が心配しているよりはずっと、この世界はおおらかにできているから。さあ、ドロテアが君を心配する。早く帰ってあげてくれ」

 促すように席を立ったネーポムクを、アロイスは見上げた。家に帰る。彼にはまだできないことだった。そして明日、彼にもできるようにするのだ。アロイスは立ちあがった。扉を開けて待つネーポムクについて外へ出て、少し振り返る。千鳥格子のスカーフに、今日まで知らなかった、隠されていた傷が透けて見える気がした。見上げてくるアロイスに、困惑したようにネーポムクは小さく首を傾げた。

「また来るね」

 彼は寂しげにほほえんだ。うなずいて、小さな声で応える。

「待っているよ」



 ふたりの間で「居間」と呼ぶ部屋、昨日アロイスを招き入れた部屋で、ズロガートとサティーはそれぞれソファに腰を落ち着けていた。ズロガートが旅先から持ち帰った「お土産」が、部屋を埋めつくしている。戸棚に、壁に、床に、ところ狭しと重なりあってひしめく品々には、ふたりそれぞれにとって、記憶と思いが詰まっていた。サティーはお土産のひとつひとつを手に取って、埃を払ったり磨いたり手入れをしている。ズロガートはサティーの、忙しそうに動きながらも穏やかな一挙手一投足を、まんじりと見つめていた。アロイスには鋭く細められ、険しさを見せていた目元は、今は柔和にほぐれて、丸い形をした目に屈託のなさを覗かせている。平穏な沈黙の時間が流れた。時折、サティーの関節からきし、きし、という音が聞こえる。

 宴会用の大皿ほどもある大きさの、硝子の羅針盤のようなものを磨き終えて、サティーは布を膝に乗せ、満足げに明かりに透かしている。その横顔を眺めながら、ズロガートは思い出そうとしていた。いつか確かに、どこか別の箱庭でお土産にと買ったものだったが、何に使うのか、何という名前なのか、どこで買ったのか、いつだったのか、支払った対価は何だったのか、ズロガートには何ひとつ思い出せなかった。彼に思い出せるのはただ、土産話――翌日には内容も忘れる――をした時の、きらきらと目を輝かせて話に聞き入り、深い色合いを見せる目で一心に見つめてきたサティーの様子だけだった。ふと、訊ねたくなった。

「サティー。何か、欲しいものがあるのか」

 硝子の何かを慎重に戸棚へ戻していたサティーは、戸を閉めて振り返った。

「どうかしましたか?」

「ないのか。何か、欲しいもの」

「ありますよ。ズロガートさんと一緒にいられる時間です」

「そうか。……あの坊主、うまく担いだな」

 苦虫を噛み潰した表情で、ズロガートは呟いた。サティーは再びソファに腰かけた。

「他人の思惑通りに物事が動くのは、やはり好きではありませんか」

「あたりまえだろう」

 憮然と頬杖をつくズロガートに、サティーはほほえんだ。

「どうしてそこまで、変化を嫌うんです?」

「何だ。まさかお前まで?」

「いいえ。そういえば、今まで、あらためて訊いたことがなかったものですから」

 ズロガートはため息をつき、背もたれに深く体を預けた。

「変化する他人と環境に振り回されたくないからだ。私自身、不本意な変化もしたくない」

「どんなものでも、放っておけばいずれは変質するものでしょう? それでもなお生きていくということを、あなた方は適応と呼んでいるのではありませんか」

「進化と言えば聞こえも気分もいいな。したい者はすればいいし、止めはしない。私はしたくなかった。だが私がかつて住んでいた世界では、不変の存在は他のすべてに不都合だった。だから、私や他の変わりたくないものたちは、黙ってそこを出た。誰も所有したがらない空間を探して、それぞれ自分に合った環境を作った」

 そう話しながら、ズロガートは部屋を埋めつくすお土産の数々を見渡す。

「それでも時々、この世界の中までわざわざ訪ねてきて、お前が最後だ、こんなことをしているのはお前だけだ、と報告してくれる者がいるが、別に私が最後なわけではないし、そもそも余計なお世話だ。あいつらは一体、どこから嗅ぎつけてくるんだ? なぜ放っておいてくれない?」

 ズロガートが言葉を切ると、しんと静寂が降りる。黙って聞いていたサティーが、ぽつりと言葉を発した。

「快適な孤独の繭」

「え?」

 ズロガートはサティーを見る。怪訝な表情をする彼に、サティーはほほえんだ。

「あなたは昔、箱庭のことをそう表現しました」

「そういえば、そうだな」

「繭の中の繭に、いつか私は入れていただけるのでしょうか?」

 ズロガートはサティーから目を離し、何も持っていない手元に目を落とした。

「お前も変わっていくのか。サティー」

「いいえ、ズロガートさん。私は変わりません。そのために生まれたロボットですから」

 再び、二人に沈黙の時間が流れ始める。サティーはお土産の手入れを再開し、ズロガートはまんじりとその姿を見つめていた。



 アロイスが家に帰る頃には、日が落ちてあたりは暗くなっていた。玄関を開けてすぐの居間には、ベアトリクスが食卓の席に座って編み物をしていた。マフラーを編んでいるらしく、すでに腕ほどの長さまで編み進んでいる。秋のいちょうのような色の毛糸を使っていて、所どころにうっすらと緑や赤茶が混ざっていた。アロイスに気がつくと、彼女は編み物と毛糸の玉を鞄に仕舞い、席を立った。唇に人差し指を当てて近くまで歩み寄ると、小声で声をかける。

「ドロテアさん、眠ってるの。私、そろそろ帰るね」

 そう言って、彼女は帰り支度を始めた。アロイスは外套を脱いで壁に掛けた。

「ついててくれて、ありがとう。ベアタ」

 アロイスの手に毛糸の帽子があるのを見て、ベアトリクスはほほえんだ。

「帽子、見つかったのね。よかった。似合ってたから」

 アロイスは黙ってほほえむしかできなかった。代わりに、気になっていたことを訊ねる。

「このあいだはどうして、この帽子が目に留まったの?」

「どうしてって……素敵だな、って思って、気になったの」

 耳まで赤くなって言い淀む彼女に、アロイスは意図しなかった意味で捉えられていることに気がつき、彼女に道連れにされるように、自分の顔が赤くなるのを感じた。

「えっと……前にも、こんなことがあった? 何か憶えてる?」

 ベアトリクスは少し考えこんで、小さく首を振った。

「思い出せないわ。毎日、毎年、同じことの繰りかえしで。でも、思い出せないだけで、似たようなことがあったら、きっと私は、何度でも気になると思う」

「どうして?」

「どうしてって……。アロイスって、よく、そうやって人に訊ねるの?」

 困りきった笑みを浮かべて笑うベアトリクスに、今度はアロイスが面食らった。言われてみればここ数日、どうして、どうしたら、と人に訊ねてばかりだったように思う。

 答えに困り、アロイスはベアトリクスを見た。返答を待って無邪気に見つめてくる、琥珀色の澄んだ目が、視線をひきとめてやまなかった。彼女の目の色を引き立てる黒い髪は、肩に触れない長さでゆるく波打ち、小さな所作に繊細な動きを加えて可愛らしい。小さく可憐な顔立ちに、知性的で柔和な目元。

 初めて会ったかのように、今まで見たことがなかったかのような新鮮さで、アロイスは彼女を見た。困惑の中、やっとの思いで答える。

「あの……そう、わからないことだらけで。変かな?」

 ベアトリクスは大きな声を上げないよう、口に手を当てて小さく笑った。

「変じゃないよ。本当、世界はわからないことだらけね」

 二人でくすくすと忍び笑いをし、やがてベアトリクスは先ほどの問いに答えた。

「アロイスとね、友だちになりたかったの。どうしてだろうね。ヴィクとヴァルドより、アロイスは何だかいつも、遠くにいるような気がしてた。毎日、学校でも村でも顔を合わせてるのに。……不思議だね。帽子ひとつで、こんなこと考えるようになって」

 彼女の言葉を聞きながら、アロイスは手の中の帽子を見つめた。思わず息を飲むような大きな可能性の群れ、そしてまごころが力技で引き起こしてきた出来事の数々は、すべてこの手編みの毛糸の帽子に手綱を握られていたのだ。

「僕たち、良い友だちになれるかな」

 めまいを感じながら、アロイスはそう口にした。ベアトリクスは帰り支度を終えて、アロイスの手を取った。

「なれるよ。なりたいな」

 屈託なくほほえんで、ベアトリクスは帰って行った。戸口から手を振り、背中が見えなくなるまで彼女を見送った後、アロイスは扉を閉めた。家の中はとても静かで、とても暖かかった。

 夕食の支度を済ませてドロテアに声をかけると、彼女は目を覚ました。アロイスには、伝えなければならないことがあった。

「母さん。ゆうべは、僕が間違ってた」

「いいのよ。母さんも取り乱して、ごめんね。……痛かったでしょう」

 きまり悪そうに、しかし正直な表情でほほえむ。寝台のそばに置いた椅子に、アロイスは腰かけた。

「僕の小さい頃のこと、憶えてる?」

「もちろんよ。実はね、これは他の人に内緒だけれど、家の外で見聞きしたことはすぐに忘れちゃうの。母さんだけかしら? でも、お前に関することは何でも憶えてるわ。お腹を痛めて生んだ子だもの」

「父さんのことは?」

 ドロテアは、寂しそうに少し目を落として答えた。

「あの人のことを考えようとすると、こんなふうに、熱が出てつらくなるの。どうしてかしらね。考えてると、あの人の姿が砂絵みたいに薄れていって……時々、思い出せないの。そうしなければ熱も出ないけれど、そうはいかないからね」

 言葉を失っているアロイスの頭を、ドロテアはくしゃくしゃと撫でる。髪のかさが増えた。

「でも、大丈夫。お前の思い出を手繰っていくと、いつもあの人がいるわ。だから、何度でも思い出せるの。そのたびに熱を出して、お前に迷惑をかけてしまうのはごめんね」

 アロイスは脱力して笑った。いつも気がかりだった、文字通り思い出したように突然に襲ってくる母の体調不良の原因がわかっただけでも、安心したのだった。しかしそれもきっと、明日で終わる。ドロテアはお祈りをするように、天井を見るともなく上を見上げた。

「また、三人で一緒に暮らせたら嬉しいわ。愛する人と共にいられることは、何にも代えがたい幸せ。母さんの場合、それが家族なの。お前と、父さんと、母さん」

 そう言いながら、またアロイスの巻き毛をかきまぜるようにして撫でた。髪のかさがひとまわり増えた。

「帰れるといいね。……父さん」

 その言葉に、はっとしたようにドロテアはアロイスを見た。みるみる笑みがこぼれた。

「そうね。本当に」

 夕食の席は談笑が絶えず、夜は更けていった。一人になると思い出したように疲れが押し寄せてきて、アロイスはぐったりしながら寝支度を済ませた。静かな自室の寝床に入ると同時に、眠りに落ちた。

 翌朝は、不安や緊張からか早朝に目が覚めた。眠れなかったので、アロイスは朝食を済ませると、母の食事の支度を残して家を出た。昨夜は枕の下に敷くようにして眠った毛糸の帽子は、今は鞄の底に仕舞っている。

 外はまだ薄暗く、夜明けの青い色が空気を染めていた。通りの向こうから明かりが見え、自転車に乗って配達中のユーリャが薄明かりの中に現れた。制帽を取って挨拶すると、アロイスのそばで自転車を止めた。

「いい考えは浮かんだかい。アロイス」

 アロイスが答えあぐねていると、ユーリャは自転車を降りた。ハンドルに肘をつき、さほど身長の変わらないアロイスと並ぶようにして、遠くへ目を遣っていた。

「もし残念な結果になっても、みんな一緒さ。君が気に病むことはない。そもそも、すべてを忘れるか、すべてが消えてなくなるかだ。恐れることもない」

 ユーリャの横顔は、いつも通りだった。自信なげで無愛想で、冬の曇り空のような色の目は、常に何かへの深い失望で翳ってとても冷たい。だが彼の言葉には、いつもと違ってふっきれたような陽気さがあった。めったに見られない饒舌なユーリャを横目に見て、アロイスは少し気持ちが軽くなった。

「ユーリャは、何が起きても平気?」

「うん。だいたいは」

 ユーリャはハンドルについた腕に顎を乗せた。

「ただひとつ残念なのは、最近の村の変化のおかげで、ちょっとだけエーレンに近づけたことだ。いつか一緒に仕事ができたらと思ってたけど、やっぱり夢みたいな話かな」

「どうしてエーレン?」

 ユーリャは腕に顔を埋めた。

「……憧れなんだ」

 ぼそぼそと声が聞こえづらい。

「そうなんだ。知らなかった」

「秘密だぞ」

「僕がしくじった時のために、言っておいた方がいいと思うよ」

「だめだ。秘密だ」

「庭番は記憶が持てるんだから。もったいない」

 表情は見えないながら、とんでもないといった様子でユーリャは腕に埋めた顔を横に振った。おかしな様子に、アロイスは唇が勝手に笑みを形作るのを止められなかった。普段から無愛想なユーリャの機嫌を損ねないように手で覆い、笑みをかみ殺していると、ぽつりぽつりとユーリャが話し始めた。あいかわらず、声がくぐもって聞こえづらい。

「エーレンだけなんだ。外に出られるの。……優秀なんだ。あの人も重用してる」

「ユーリャも本当は外に出られるんだって、エーレンは言ってたよ。出たくないの?」

 そう訊ねると、彼は顔を上げて再び遠くを見ていた。日が昇るまではまだかなりの時間があり、遠くの山脈は青黒くそびえている。山脈の向こうを透かして見ているかのようなユーリャのまなざしには、いつものように、何かに対する深い失望が湛えられていた。その失望が何に向けられているのか、アロイスにも漠然と読み取れてしまった。彼が酷薄なほど冷たい目で見ているのは、彼自身なのだろう。

「乗り手が僕なら、この自転車で行けるのはせいぜい、ありもしない隣村までだ。僕なんかでは、だめなんだ」

「だめなんてことないよ。ユーリャはちゃんと、村で庭番の仕事をしてる。でも、外へ行けないって、やってみたことはあるんだね」

 ユーリャは陰鬱に頷いた。

「この自転車は、記憶の中から行き先を決めるんだ。エーレンと一緒に外へ行く練習をした時、ぴくりともしなかった。行きたい場所を思い出したり念じたりすれば、この自転車は少なくともどこかには行くんだ。道が繋がってなくてもだ。なのに僕が何度乗っても、どこにも行かなかった。おかしいだろ?」

 かける言葉が見つからず、アロイスは黙って頷くしかなかった。ユーリャは続ける。

「エーレンがいない時にも練習したよ。普通に走ってすらいないのに、手にまめができるくらい練習した。普通に乗るようになった今でも日課だ」

 そう言って、ユーリャはアロイスに片手を突き出した。確かに掌の皮はまんべんなく厚くなり、指の付け根や指の節を中心に立派なたこができている。

「それでも、どこにも行けないんだ。今じゃ思い浮かべてもないのに勝手にエーレンの家に行くようになってる。僕の力不足の他に、この自転車、乗り手を選り好みしてるんじゃないのか? 僕に知らされてないだけで……」

「庭番も大変なんだね。その自転車も不思議だけど」

「うん。外には、苛酷な環境もあるらしい。だから、たった一人で行って、帰ってこれるエーレンは本当にすごいんだ。僕も手伝いたいけど……きっと一緒に仕事なんかできない」

 彼は自転車のハンドルの感触を確かめるように、指を握ったり開いたりしていたが、やがてスタンドを下ろして自立させた。目を伏せて自転車を見つめながら、続ける。

「せっかくだから、乗っていくといい。こんな機会もないだろうから。……その気があれば、万が一の時、これでどこかへ逃げられるかもしれない」

「でも、ユーリャの仕事道具じゃないか」

 アロイスに向きなおった彼は、いつもの翳りの晴れた笑みを浮かべていた。

「いいんだ。この期に及んでも僕が持ってたら、それが宝の持ち腐れだろう。僕でさえなければ、きっと誰が乗ってもうまくいくのかもしれない。本当に僕が乗るべきなら、また戻ってきてくれるさ。その時は、また乗る練習をするよ。戻ってこなければ、僕はこの自転車とは縁がなかったということだから、救われる気がする」

 ユーリャは一歩、自転車から離れて、手を伸ばしてアロイスに促した。アロイスがおそるおそると握ったハンドルのグリップは、ユーリャの手が握り続けた跡が、根気と祈りがすり減らした形をしていた。アロイスがハンドルを握って自転車を支えると、ユーリャがスタンドを上げた。支えを失った後輪が、アロイスの背後でぐらりと横を向く。

「生き物だと思って、大事にしてやってくれたら嬉しい。役立ててくれ。頼んだよ」

「うん。じゃあ……少しだけ、借りていくね」

 ユーリャははにかんだ笑みに、少しの寂しさと清々しさを浮かべて、頷いた。

「今日は歩いて配達するよ。ドロテアさんにも手紙が来てる」

「本当? 父さんから?」

 赤い鞄に手を突っこんでいたユーリャは顔を上げ、目をぱちぱちとさせながらアロイスを見た。合点がいったようにほほえむと、鞄から封筒を取りだした。

「彼と会えたようで、よかった。手紙は郵便受けに入れておくよ。行ってらっしゃい」

「ありがとう、ユーリャ。行ってきます」

 ゆっくりと遠ざかるユーリャの、紺色の制服の背中を見送って、アロイスは自転車を押して歩き始めた。



 夜明けが近づきつつある村の通りは、まだ人影が見られない。自転車に触れるのは、アロイスは初めてだった。乗って走ってみたいと常々思ってはいたが、先ほどユーリャから聞いた話を思い出せば、今ではその不思議な力に触れるのが恐ろしく、とても乗る気にはなれなかった。

 アロイスは自転車のことをよく知らなかったが――夜空のような紺色と黒に少しの銀色と茶色が映える色合いや、優美にアーモンド形の弧を描いてタイヤを繋ぐ二本のフレームなど――魅力的な自転車だった。ユーリャの手の形を覚えているグリップを握って歩くと、ずっしりとした重みを感じるが、足を引っ張るような重さではない。あくまで共に歩くように、車輪は滑らかに回る。

 森に入り、ネーポムクの家のあたりまで歩いてきた頃には、木々のむこうでは日が昇ったようだった。黄金色と薄桃色の美しい空が、森の一軒家の周囲にひらけた樹冠の間に見えている。自転車を止めて、アロイスは戸口の階段を上った。窓からは明かりが漏れている。扉を叩くと、ネーポムクが顔を出した。彼は部屋着らしい白い木綿のシャツの襟元をくつろげて、もこもことした砂色のカーディガンを羽織っていたが、白と焦げ茶の千鳥格子のスカーフはしっかりと首を覆うように巻いたままだった。その柄について、アロイスは鳥に見立てた名前を気に入っていたが、本来は猟犬の牙になぞらえた名前があるのだとドロテアが言っていたことを思い出していた。

「入ってもいい?」

 ネーポムクは戸惑ったようだったが、扉の脇へよけてアロイスを招き入れた。暖炉では大きく火が立ち、部屋は暖かかった。アロイスが鞄を下ろし、外套を脱いでいる間、ネーポムクは暖炉の前でお茶を淹れていた。木と漆喰と煉瓦でできた家で、どっしりとした梁が見える天井は高い。壁には白い漆喰の上に、木を削って作ったお面や、風景を浮き彫りした木の板などがいくつか飾られていた。家に入ってすぐの居間の奥には台所があり、他に一つ二つあるらしい部屋は扉が閉まって、中の様子は窺えなかった。

「よく休めなかったんだろうね。くまができている」

 何気なく聞こえる口ぶりで気遣わしく、ネーポムクは言った。アロイスに湯気の立つカップを差し出すと、彼は暖炉のそばの肘かけ椅子に座った。アロイスもその近くの椅子に腰を下ろす。

「おととい、この家の前で拾ったんだ」

 布に包んだ小刀を鞄から取り出して、ネーポムクに手渡す。彼は小刀を見ると、首を傾げた。

「箱庭の外で作られたものじゃないか。私ではないが、庭番の誰かのものだろう」

「じゃあ、しばらくここで預かってくれる?」

「わかった」

 ネーポムクは包みなおした小刀を暖炉のそばにある、硝子戸の戸棚に仕舞った。窓の外は、すでに明るい。アロイスは今日これからのことを考え、胸に石がつかえたように気が重かった。

「うまくいくかな」

「君が望む通りにしてみるといい。それが一番うまくいくから。もし思わぬ結果になったとしても、私も他の庭番も、君に助力する手をそれぞれ残してある」

 この場にふさわしい言葉を述べようとアロイスが口を開きかけた時、二人の背後から、窓を叩くような音がした。二人が顔を見合わせて振り返ると、暖炉の向かいの壁にかかったレースのカーテンに、黒い丸い影が見える。あっ、と短く声を上げたネーポムクが、駆け寄ってカーテンと窓を開けた。黒い猫が、外のデッキと続く掃き出し窓の硝子を叩き、爪を立てていたのだった。猫は部屋に滑りこむと、居間の奥にある暖炉の前まで一目散に駆けてきた。窓を閉めて肘かけ椅子に戻るネーポムクを青い目で追いながら、猫は上品に手足をたたみ、長い尻尾を体にぴったりと寄せて座っている。以前にもこの家で見た、青い首輪の黒い猫だった。

「この猫、よく見るけど、ここで飼ってたの?」

 ネーポムクは返答に困っていた。

「いや、飼っているわけじゃ……」

 彼が言い淀んでいると、今度は戸口で物音がした。硬い靴音と形ばかりの短いノックの後、扉を開けて入ってきたのはズロガートだった。少し息を切らせている。アロイスは弾かれたように立ちあがり、ネーポムクの前へかばうように立った。かばうべき者に先を越されたネーポムクは、情けなさそうな困った顔で、ひとまず猫の前に立った。二人と一匹にさっと目を走らせたズロガートは、苦々しく口を開いた。

「今度ばかりはもう許さんぞ。目を離せばすぐ、勝手なことばかりする」

 そう言って彼は、アロイスとネーポムクは後回しだとばかりに黒い猫を追いかけ始めた。呆気にとられた二人は、ズロガートと、縦横無尽に部屋を駆け回る猫を目で追うことしかできない。アロイスには猫が優勢に見えていたが、ネーポムクがそわそわと心配そうに落ち着かないので、彼らを止めることにした。ズロガートが近くを横切る際、彼の袖を掴んで引きとめる。足を止めた彼は、不機嫌そうにアロイスを見下ろした。

「何だ」

「猫のいたずらに困ってるなら、僕が預かるけど……」

 手を離そうとしない少年に、ズロガートはあきれた笑みを浮かべる。

「こいつが手に負えるのか? お前に?」

「この子、うちにも来ることがあって、あの首輪も母さんが……」

「そんなことは訊いていない。その鳥の巣みたいな頭を揺さぶるために見せてやりたいところだが、さすがに彼女が気の毒だ」

 ため息をついて彼はからかうように笑い、袖を掴まれた手を振り払った。頭髪について侮辱された気がするが確信を持てない――鳥の巣という言葉に悪い意味を見いだせない――アロイスの肩越しに、猫に言葉を投げる。

「この坊主に免じて見逃してやろう、オフェリア。面倒を起こすなよ」

 そう言って、アロイスやネーポムクには一瞥もくれず、ズロガートは立ち去った。

 嵐が過ぎて沈黙した部屋で、アロイスは首が木になったような気がした。ぎこちなく首を巡らせて猫を振り返る。黒い猫は、猫らしい動じない表情で、青く深く洞察する目で、アロイスやネーポムクを見上げている。

「オフェリア?」

 ネーポムクを見ると、彼は困り顔で小さく頷いた。猫は立ちあがってしなやかに伸びをすると、そのままの姿勢で静止した。全身の毛を逆立て、何かを待つように身動きしない。猫を見守るアロイスの背後で、ネーポムクは部屋の奥の別室へと消えた。見覚えのある過程を経て、猫が人へと姿を変える。丸い背や肩が柔軟に弧を描いて反り、爪を出した足先から長い指が伸びて、柔らかい手足に硬い関節が現れた。艶やかな黒い獣毛は白い肌に吸収されて消え、代わりに頭部からは黒い髪が波打ちながら長く長く伸び、流れるように床に広がった。

 彼女が完全に人の姿を取る寸前、はっと我に返ったアロイスは踵を返し、ネーポムクを追って別室へと駆けこんだ。背後から、くすくすと笑う小さな声が聞こえた。

「終わったのか?」

 駆けこんだ部屋は寝室らしく、衣服をかけた箪笥の扉が開いていた。深緑色のナイトガウンを肩にかけて、窓辺に立っていたネーポムクが振り返る。開いた口が塞がらない様子のアロイスに、彼は同情するように苦笑いを浮かべた。

「彼女にもまいったものだな。何もあんな所でしなくてもいいだろうに」

 そう言って、開いた窓のむこうを見遣る。窓から張り出した板の上で、木の実やパンくずの小さな山を小鳥たちがつついていた。

「君を驚かせたかったんだろう、憐れまれるのを好まない子でね。気にしない方がいい。彼女は理由なしに素っ裸になることはないよ。戻ろうか」

 ガウンを手に、ネーポムクは部屋を出ていった。おそるおそるついていくと、居間ではオフェリアが暖炉の前に座っている。長く豊かな髪に覆い隠された彼女の後ろ姿は、夜の闇から切り取られてきた、暗がりのかけらのようだった。ネーポムクが肩越しに手渡したガウンを纏い、彼女は二人に向き直った。猫だった時に首に巻いていた、青いベルベットの首輪を手にしている。

 分厚い首輪の内側に、きらりと光る何かが結びつけられていた。首輪からそれを抜き取りながら、オフェリアは、怯えて遠巻きに後ずさるアロイスに容赦なく歩み寄っていく。壁際まで追い詰めると、掌に乗せた二つの、金色の指輪を差し出した。

「私が作った、魔法の指輪。ズロガートを素直にさせるわ」

 アロイスにも、その指輪の意味がわかった。結婚指輪。いつも母の左手の薬指にあり、村の夫婦たちもまたもれなく身につけているものだった。二つの指輪とオフェリアを交互に見ながら、同時にどちらにも怯えているアロイスに、言い聞かせるように彼女は続けた。

「この指輪を、ズロガートとサティーに着けさせるの。魔法の指輪であること、私が作ったということを、必ず彼に伝えて」

 アロイスは受け取らず、オフェリアを見上げた。

「そんなのがあったなら……。どうして今になって、僕に?」

「今までも、いろんな方法で試してきたわ。でも、だめだった。めげずにこの機会を活かすだけよ。私やネーポムクじゃ、指輪を嵌められないの。近づけば姿を変えられてしまうから。エーレンやユーリャはあの人に逆らえないし、クレメンスは高齢の体に設定されているわ。だから、今回はあなたにお願いするの。死ぬまで猫をかぶり続けるのは、簡単ではないから」

 答えあぐねて、アロイスはオフェリアを見つめた。彼女の深く青い目は、静かに暗い湖底の色に沈み、重苦しいほどに真剣だった。アロイスは手を伸ばして、二つの指輪を受け取った。オフェリアの手のぬくもりが残った指輪を、手の中に握りこむ。

「やってみるけど……ズロガートに帽子を渡して、お願いを聞いてもらった後でもいい?」

「もちろん。困った時にも、使ってみてね」

 勇気づけるようにほほえむ彼女に、アロイスは訊ねた。

「どうして指輪なの?」

「指輪だけじゃない。他にも、いくつか根回しをしてきたわ。小さな変化のひとつひとつは簡単に揉み消せるけれど、波紋が広がるほど多くの可能性が生まれるの。波紋が大きな波となれば、あるいは取り返しのつかない何かが起きれば、痕跡さえたやすく消せなくなるのよ。これは、可能性のひとつ。念のためにあなたに渡しておくの。失敗しても、気に病むことはないわ」

 アロイスの肩を力強く叩いて、オフェリアはナイトガウンの裾を翻し、踵を返した。暖炉のそばの小さな三脚椅子に、こちらを向いて腰かける。長い髪が床に触れそうだった。

「ねえ、オフェリア。前に言ってたお仕置きって……あれ?」

 彼女は膝の上で頬杖をつき、悩ましげに目を閉じた。

「そう……猫じゃらしには抗えないわ……」

 以前に家に来たこともあったあの黒い猫が、確かに猫じゃらしでよく遊んでいたことをアロイスは思い出した。ネーポムクは、苦渋に満ちた複雑な表情を浮かべていた。

「オフェリアには全然、罰になってないよ。猫にされた方がかえって楽しいみたいだ」

「いや、その……それぞれ、捉え方も違うだろうから」

「何? まさか、ネーポムクもなの?」

 身を乗り出したオフェリアを見てネーポムクを振り返ると、彼は困った様子で俯く。

「他の庭番にも言ってなかったの? どうして?」

「言うことではないかと思ってね」

 しまった、という顔をするアロイスに、観念したのか、ネーポムクは鷹揚に手を振った。興味を隠さないオフェリアの目は、猫と変わらず輝いていた。

「君にも会ったことがあると思うが、あの薄茶色の犬は……実は私だ」

「あら、そうだったの。ねえ、犬になるって、どんな感じ?」

 さほど驚かず、そして浅薄な同情もせずに、無邪気にオフェリアは訊ねた。ネーポムクは返答に困っていたが、旺盛な好奇心を前に屈した。

「フリスビーを投げられると、体が勝手に……」

「目の前で、落ち葉が風で飛んでいったりしたら、もうだめでしょう?」

 オフェリアは共感でもってしばし笑った後、ぽつりと呟いた。

「あの人は人間を嫌っているわりに、動物は案外、可愛がるの」

「そんなことないよ。昨日だって、ひどいことをしていたよ」

 にわかに憤慨し始めたアロイスを、ネーポムクはほほえんで制した。

「私のことはいいんだ、ありがとう。彼の名誉のために言っておくが、彼が犬に対してあんな手荒なことをしたのは、初めてだったよ。人間に対しては平然とつらくあたるが……。よほど苛立っていたんだろう」

「帽子のことは私も今朝、彼から聞いたわ。相当、頭にきていたでしょうね。帽子をあなたが隠していたなんて」

「知らなかったんだ。まさかあれを探しているとは」

「オフェリア、僕が訊き忘れてたんだ。うっかりしてて……」

 彼女はほほえましげに二人を見ると、小さな椅子から立ちあがった。

「でも、帽子が見つかってよかったじゃない。この件は、あなたが仕掛ける駆け引き次第。ズロガートも結局は一人の、素直じゃないだけの男だもの」

 そう言いながら、彼女は玄関に向かった。

「成功を祈っているわ。アロイス」

 扉を開けてその場で床にうずくまると、幾度かの痙攣の後、やがて空っぽになったガウンから黒い猫が飛び出した。青い首輪を口に咥えて、猫は優雅で軽快に、しなやかな四肢をいっぱいに使って走り去った。

 アロイスは握っていた手を開いた。飾りのない金色の二つの指輪は、年季が入っているようで表面に細かな傷が見られる。彼女の髪を編んで作ったらしい細い紐で結ばれているが、結び目は、すぐに解くことができる蝶々の形をしていた。

「どうして、オフェリアはここまでしてくれるんだろう? 退屈っていうだけで、こんなことができるの?」

 指輪を見つめながら、アロイスは暖炉の前に戻り、腰を下ろした。ネーポムクは扉を閉めてから、近くの椅子に戻ってきた。

「彼女には退屈なんだろう。彼女自身、この小さな箱庭で飼い殺されるにはあまりに惜しいと、自覚しているのかもしれない。この村には、自覚しているかどうかに関わらず、これほど小さな箱庭で、不変の一生を終えるにはあまりに惜しい人は多い。……君もその一人だよ。アロイス」

 あまりにまっすぐに言われて、返答に困ったアロイスはネーポムクから少し目を逸らした。ふと目に入った戸棚では、先ほど仕舞われたはずの小刀が消えていた。慌ててネーポムクに知らせ、首を捻りながら二人であたりを探したが、見つからなかった。

「オフェリアが持っていったのかもしれないな。彼女の持ち物だったのか、何か考えてのことだろう」

「外で作ったものって言ってたけど、すごいの?」

「すごいというのだろうか……。この箱庭で作られた物は、親であるズロガートの衣服や道具より、かなり脆くできているんだよ。例えば衣服の上からなら、村にある何を使っても彼を傷つけることはできない。でも、箱庭の外で作られたものは違うからね。こんなものを振り回したら、たとえ庭番でも彼は許さないだろうに」

 アロイスは肌が粟立つのを感じた。

「危ないことにならないといいけど……」

 ネーポムクは黙って頷いた。

 しばらく重苦しい沈黙が続き、アロイスは時折ためらうようにもぞもぞとしていたが、やがて決心がついたように席を立った。見上げるネーポムクに、ぎこちなくほほえむ。

「僕、一人で行くね」

「……そうか。そこまで、馬で送ろう」

 外套を羽織り、オフェリアから受け取った指輪をポケットに仕舞おうとすると、空のはずのポケットにはすでに何かが入っている。嫌な予感がして取り出すと、それは先ほどまで探していた小刀の包みだった。

「どうして僕のポケットに? オフェリアが?」

 青ざめたアロイスが小刀を手に、ネーポムクを振り向くと、彼は苦い表情で考えこむ。

「なぜかはわからないが……。私たちが奥の部屋にいた間にやったのかもしれない」

「僕に何をさせたいの? わからないよ」

「彼女が不可解な行動を取るのは、いつも何か考えがあってのことだが、それは後でわかることも多い。こればかりは、私にもわからない」

 そう言って、彼は改めて小刀を手に取った。アロイスも覗きこむ。木製の柄に象嵌された、アロイスにはわからない、文字らしい細かくうねる模様。その列を指で示しながら、ネーポムクは続けた。

「これは護身用のお守りとして作られた品のようだから、何も君にズロガートを刺せということでもないだろう。……不在の私の代理としてあなたを守るように、と書いてある。裏は……私の不在が力となるように、らしい」

 目を丸くしてネーポムクを見たアロイスに、彼はまごつきながら説明する。

「昔、エーレンフリートが教えてくれた別の箱庭の言葉だよ。外から持ちこんだ品といい、この言葉といい、何か知っているのかもしれないな」

 彼が差し出した小刀を受け取りアロイスは柄の文字列を指でなぞる。

「そう書いてあるの?」

「そうだよ。私では、気の利いた言葉には訳せないがね」

 アロイスは小刀を布に包むと、外套のポケットへ指輪と一緒に仕舞った。

「持っていくのかい」

「うん。オフェリアが何か考えてやったことなら。使わないで済むといいけど」

「そうだな……」

 二人が家を出ると、日はすでに高くまで昇っていた。温められた空気の中、時折、冷たいそよ風が森へ吹きこんでくる。馬を連れてくるといったネーポムクを待ちながら、アロイスはポケットの中の指輪に触れ、一体どのようにしてズロガートとサティーに着けさせればいいのかを考えた。

 他にどんな不思議な力を持っているのかがわからないズロガートと、ことを荒立てるのは恐ろしかった。しかし、単純に小刀で脅したところで、応じる人物でもない。猫の姿のオフェリアとズロガートの追いかけっこを止めた際に彼の袖を掴んだことが、今になって奇跡のように思えた。何気なく仕掛けた方が、かえってうまくいくのだろうか? 頭を捻っているところへ、黒い馬を連れてネーポムクが戻ってきた。

 先日のように、手伝ってもらって馬に乗る。ネーポムクが続いて鞍へ乗り上げると同時に、馬は軽快に駆け始めた。森の奥への道へ入り、速度を上げる。決して激しくはない揺れの中、おもむろにネーポムクが口を開いた。

「外の世界とは違い、この箱庭の住人は人為的で作為的な過程を経て、この世に生を受けた。君自身はクローンではないからこそ、聞いて欲しい」

 彼は不器用な口調で、訥々と、誠実に少しずつ話した。

「私たちのような者は皆、人と人が愛し合って生まれたという出自ではなくとも、命を持つ人であることに違いはない。出自がどうであれ、人が人を愛することは間違いではない。そして出自の異なる誰かと愛し合い、この世に新たな命を得ることもまた、間違いではない。同じように、この村で生まれたからといって、君自身の命を、間違いや手違いから生まれたものだと思わないでくれ。君がいつか、この村の誰かを愛するようになった時、互いの出自や過去のためにためらわないでくれるよう、願っているよ」

 揺れる馬上から滑り落ちないように、馬の首と鞍に手をつきながら、アロイスは肩越しに少しだけ振り返った。ネーポムクは束の間、あたたかなほほえみを息子へと向け、すぐにまた顔を上げた。

「この先、何が起こるか誰にもわからない。それが、この村にはなかった未来というもの。アロイス、いつか私たち両親を恨み、生まれてきたことを後悔するほどの何かがあっても、決して自棄にならないでくれ。君もまた、誰かを愛し、誰かに愛されるべき命を持っているのだから」

「未来ってそんなに恐いもの?」

 アロイスは鞍から手を離し、背後から支えてくれる腕の、外套の袖をしっかりと掴んだ。ネーポムクの腕に、力が籠る。

「恐いと言う人もいるだろう。この村は決められた予定の中で、不変によって守られていたんだ。新しい出来事は起きない代わりに、予期しない、つらいことも知らないでいられた。未来があるということは、多くの可能性の中から何かを選び取り、その他のすべてを捨てて次へ進むということ。起きること、起きたことを糧にしてね。君は今、好きな方を選べるんだよ。だからよく考えて、望む通りにするといい」

 森の道の終わり、白く巨大な、さいころのような建物の見えるところで、ネーポムクは馬を止めた。アロイスは一人で、滑るようにして馬から降りると、鞄やポケットの中身を確かめた。続いて馬を降りたネーポムクを振り返り、ぎこちなく言葉を切り出す。

「それじゃあ、行ってくるね」

「ああ……成功を祈っているよ」

 アロイスが森を出ていくと、背後で馬の蹄の音が遠ざかった。

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