小箱の庭

家々

Qの村で生まれたA

 暖炉に一番近い、食卓で一番暖かい席は、ずっと空だった。その席を囲むようにして、母と息子はいつも向かいあって座った。鉄のケトルが掛けられた暖炉の火は、小さな家の小さな部屋を暖め、食卓から五歩と離れていない玄関では、木枯らしに叩かれる扉ががたがたと音を立てている。まだ温かい空のカップから手を放して、少年、アロイスは席を立った。椅子を食卓の下へ押しやりながら、その背もたれに掛けていた鞄を手に取る。

「ごちそうさま。行ってきます」

「そうだ。ちょっと待って」

 アロイスは鞄を肩に掛けつつ、足を止めた。母、ドロテアが背後へ手を回し、背もたれとの間から毛糸の帽子をひとつ、取り出した。膝には、木製の杖が立てかけてある。

「寒くなってきたから。これを被っていきなさい」

 深緑色と白の毛糸で編まれた帽子だった。手に取るとふかふかと分厚い。深緑の地に白で木の枝葉の模様が編み出され、苔玉に白髪が生えたような大きな玉房ポンポンがてっぺんについていた。アロイスが顔を上げると、目の前の母は満面の笑みだが、目元にはくまの色が濃い。

「最近、夜更かししてると思ったら。無理したら、また熱を出すよ。母さん」

「ただの毛糸の帽子じゃないのよ。おまじないをしてあるんだから」

 アロイスのきょとんとした顔に、母は得意げに大きく頷いて胸を張った。

「おまじない?」

「そう。おまじない。このあいだ郵便局に行った時、オフェリアが教えてくれてね。母さんも初めて知ったわ。おまじないなんて」

「編み方のこと?」

「そうじゃなくて、お祈りをすることらしいの。一目一目、お祈りしながら編んだのよ」

「お祈りなら、週末にいつもしてるのにな」

「それとは、また別なんだって。不思議よね」

 ドロテアはそう言いながら、手招きして引き寄せた息子の手から帽子を取り、優しく拡げて頭に被せた。額や耳や首筋にふわふわと飛びだしている、ふさふさした栗色の巻き毛を整えてやり、彼女は満足げに頷いた。母の視線や指がむずがゆく、アロイスは斜めに掛けた鞄のたすきを握る。この少年の、純朴そうでまっすぐな太めの眉には、よく感情が表れる。今は困ったように眉尻が下がっていた。

「母さんは、何をお祈りしたの?」

「それは、まだ秘密。さあ、もう行かなきゃ」

 ドロテアはアロイスの背中を押して玄関へ向かせ、優しくひと押しした。アロイスが開けた扉の向こうでは、木枯らしが家の前庭に落ち葉を吹き寄せていた。小さな村の端に建つこの家の玄関からは、半分は村の通りが、もう半分は村の外に広がる平野の牧草地や畑、遠くの山脈が見える。山脈のふもとまで、白く雪化粧が迫っていた。秋を楽しませた紅葉は終わり、鮮やかだった黄色や赤色の色彩は、灰色と茶色の濃淡に埋もれつつある。

「友だちと仲良くね」

 アロイスが玄関から振り返ると、母は片手で分厚いショールを肩へかき寄せ、もう片方の手で帽子を被った息子に手を振っている。アロイスが眩しそうに細めた灰緑色の目に、ドロテアは優しくほほえみかけた。

「……行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 村にひとつだけの通りは、アロイスたちの家の前が終点になっている。厩舎やサイロ、納屋や店を除けば民家は七軒しかなく、村人も二十四人程しかいない、この小さな村の中央には、簡素な礼拝堂と鐘楼が建ち、周囲は広場になっている。広場の一角にある井戸のそばから、村の通りを逸れて林の中へ続く小道があった。林の中をしばらく歩いていくと、学校がある。

 風が冷たく、肌を刺すように吹きつける。アロイスはマフラーに鼻まで顔を埋めた。耳まで覆う帽子の暖かさがありがたかった。柔らかいながら強情で気ままな巻き毛が帽子を押し上げるので、アロイスは度々、帽子を耳まで引き下ろさなければならなかった。

 家の隣にある卵屋と馬車屋の前を歩いていく。ある一家が営んでいるこの店は、夫と息子が馬車屋を、妻が卵屋を切り回している。村のどの店でも同じように、ここでも厩舎や鶏小屋は、店のすぐ裏手に建っている。村の朝は早く、すでにどの店も開いている。卵屋でもおばさんが、店の前で落ち葉を掃き集めていた。集めた落ち葉は木枯らしが少しずつ吹き散らしていくのだが、おばさんは根気よく、しかし着実に、落ち葉を片付けていく。アロイスに気がつくと、おばさんは箒を持つ手を止めて、手を振った。

「おはよう。いつも早いね。アロイス」

「おはようございます。グードルンおばさん」

 若さの盛りを過ぎてなお逞しく恰幅の良い体に、毛糸の上着と肩掛け、分厚いエプロンとスカートを重ねて、さらに頭から背中まですっぽりとスカーフを被り、まんまるとしたおばさんの姿は、いつ見ても卵の神様のようだった。

「素敵な帽子だ。お母さんが作ってくれたんだね?」

「そうなんです」

「ドロテアは本当に器用だからね。都に店を構えたら、きっと繁盛するだろうに。うちの息子も、都で売って帰ってくるたびに、そう言っているよ」

「エーレンフリートにも、おばさんにも、いつもお世話になってます。僕たち、本当に頼りにしてて」

 おばさんは、帽子の上からアロイスの頭をかき混ぜるように撫でた。浮き上がった帽子を、アロイスは辛抱強く抑える。

「いいんだよ。お父さんが帰ってくるまで、二人だけってのも心細いだろう。いつでも頼っておいで。さあ、行ってらっしゃい」

「行ってきます。グードルンおばさん」

 アロイスはおばさんに手を振って、また通りを歩き始めた。隣に郵便局があり、向かいに八百屋がある。八百屋も別の一家が営んでおり、夫が野菜や果物を、娘が花を、妻が薬を、ひとつの店で売っている。八百屋の夫婦には息子も二人いるが、店番は任せていないようだった。店の前では八百屋のおじさんが、野菜を満載した木箱をいくつも運んでいる。グードルンおばさんと同様、アロイスに気がつくと、木箱を置いて手を振った。

「おはよう。アロイス」

「おはようございます。テオフィールおじさん」

「君は偉いな。いつもきちんと、早いうちに学校に向かって。うちの双子ときたら、この時間でもまだ起きていないよ。毎朝、女房が手を焼いていてな」

「これくらいなら、まだ早すぎるくらいです。それに、二人は遅刻はしないんですよ」

「滑りこみだけは立派だろう? まったく、あいつら――おや、かっこいい帽子を被っているな。ドロテアだね」

「はい。今朝」

「そうか。ドロテアが……」

 おじさんは髪を短く刈りこんだ頭に手をやり、照れくさそうな様子で、口を開いた。

「昨日、彼女がうちの娘の衣裳を届けてくれてね。馬車屋の息子が運んでくれたんだが、信じられなかったよ。本当に、きれいだった……」

 おじさんは笑みをこぼしながら、伏し目で語った。畑仕事で鍛えられて隆々としたおじさんの肩が、少し沈んで、小さく見えた。

「ゆうべ、母さんも言ってました。ウータさん、きっときれいだろうって」

「……ありがとう。ドロテアには昨日もお礼に行ったが、君からもよろしく伝えてくれないか。きっと素晴らしい式になる。君のお母さんのおかげだ。俺たち夫婦ともども、心から感謝している。来週が待ち遠しいよ」

「そう言ってもらえて、母もきっと喜びます」

 おじさんは、いつものように顔をくしゃくしゃにして笑うと、小さく鼻をすすった。

「すまんな、引きとめてしまって。学校に遅れるといけない。行っておいで、アロイス」

「行ってきます。テオフィールおじさん」

 アロイスはおじさんと別れ、広場に入った。学校へ向かう小道はすぐ目の前だった。礼拝堂と鐘楼の陰には牛乳屋とパン屋があり、小道のむこうには診療所がある。誰もいない広場を横切り、アロイスは林の小道を歩いていった。



 石の敷かれていない、ゆるやかに曲がりくねる雑木林の中の小道をしばらく歩く。鬱蒼とした林の中は小道からは見通せないが、アロイスは、この林の中を散策するのが好きだった。小道から離れすぎない程度に林に入っていくと、見慣れた風景は消え、見慣れた人と会うこともない。そっとしておいてくれる静かな植物に囲まれた、ひとりになれる空間が手に入った。林に囲まれた小さな校庭と木造の校舎が見えてきた時、習慣を体が覚えているのか、アロイスは、今日はいつもより遅れている気がしていた。

 校舎のずっと遠く、紅葉を終えて色褪せつつある林の向こうに、常緑の森が広がっている。その中で緩やかな丘の上に頭を出す、白く四角い建物が見えるが、あの建物の正体は村の誰も知らない。林と森の間には湖があり、そこから流れる川が村のそばを通っている。

 校庭の奥にある校舎は、一階建てで三角屋根の、こぢんまりとした建物だった。ごく普通の小さな家にも見える。生徒は四人、先生は一人、校舎には小さな教室と小さな物置と個室が一つの手洗いしかなかった。アロイスは、入口の扉の脇に置かれた鉢のひとつを持ち上げ、かがんで手を伸ばした。冬でもつやつやと葉を茂らせる、小さなくちなしの鉢植え。朝、一番に学校へ来るアロイスが、校舎の鍵を開けるのが習慣だった。

「おはよう、アロイス!」

 びくりとして顔を上げると、半開きの扉から少女が身を乗り出していた。かがんで鉢を持ち上げたままのアロイスに、隠しきれない嬉しそうなほほえみを投げかける。アロイスは鉢を倒さないようゆっくりと元へ戻し、戸惑いつつ姿勢を正した。

「おはよう、ベアタ……」

「一番乗りなんて、初めて。いつも通りの時間に来たのに、アロイスが来てないから、心配しちゃった」

「僕、遅かったかな」

「珍しいね。今日は何かありそう」

 寒さに赤らんだ頬をにこにこと華やがせて、ベアトリクスは扉を大きく開き、校舎へアロイスを迎え入れた。校舎の中はひんやりとしているが、木枯らしが吹きつけないだけで暖かく感じられる。アロイスの足元で、すり減って丸みを帯びた木の床がきしんだ。ベアトリクスが扉を閉めると、校舎の中に静寂が降りる。

 入口からまっすぐに短い廊下があり、片側に教室、反対側に手洗いと物置が並ぶ。走ることもできないほど短い廊下の奥の裏口からは、朝の弱い光が入っていた。教室への扉は開け放してあり、ベアトリクスの席に鞄と外套が置いてある。

「遅いから、おかしいなと思って、外を見てたの」

「驚いちゃった」

 教室に入ったアロイスは自分の席に向かった。髪に拒絶され続けた帽子を脱ぐと、普段からもじゃもじゃの巻き毛のかさが増えた。鏡で確認するまでもないアロイスは、手櫛で髪をなだめすかす。続いて教室に入ったベアトリクスは自分の席に立ち止まったが、帽子を脱ぐアロイスを見て、おずおずと歩み寄っていった。机の上には、帽子、手袋、マフラー、外套と、防寒具が積み上がっている。ベアトリクスは、帽子に目を落として、ためらいがちに呟いた。

「素敵な帽子ね」

「これは……母さんが」

「触ってみても……?」

 窺うように言い淀み、目を上げたベアトリクスに、アロイスは頷いて帽子を差し出した。彼女は小さくお礼を言って受けとると、真剣で神妙な、考えこんだ様子で、帽子の編み目を撫でたり、裏返したり、優しく伸ばしたりしている。牛乳屋を営む両親を手伝って、牛の世話や家事をしているという彼女の指は、細かな傷とあかぎれの絶えない、村で珍しくない働く者の手をしていた。

 彼女が帽子をこねくり回している間、アロイスは壁に並んだ鉤に、外套を掛けに行った。席に戻ろうと振り返ると、思いがけずベアトリクスと目が合う。すぐに帽子に目を落した彼女の、もの言いたげだった表情に、アロイスは戸惑い、混乱する。

「アロイス、その……。この帽子、素敵ね」

 沈黙に耐えられなかったのか、ベアトリクスは気まずそうに再び顔を上げた。彼女の琥珀色の目は、薄明るい教室で黒髪に映えて輝いて見えていたが、今は情けなく気弱そうに、ほほえみながら泳いでいる。アロイスはいまだかつて経験したことのない、よくわからないがこちらも気まずいという状況に、ただ戸惑った。自分の席に戻ることも気が引けて、ベアトリクスと距離を保ったまま立っていたが、なぜだか彼女が気の毒に思えて、気まずい沈黙を遠ざけるだけの努力はすることにした。

「あげようか? 気に入ったのなら」

「違うの!……ありがとう、でもそうじゃなくて。私もこういうのを、作ってみたくて」

 ベアトリクスにいつも通りのほほえみが戻り、アロイスも内心で胸を撫で下ろした。

「そうなんだ。それなら――」

 言いかけたところで、教室にひとりの老婦人が入ってきた。

「おはよう。ベアタ、アロイス。あの双子君は、今日でとうとう遅刻ね」

 教壇に上がりながら、老婦人は二人へ柔和にほほえみかけた。灰色の髪を編んで上品なシニヨンを作った彼女は、襟元に毛皮のついた外套をするりと脱いで、教卓のそばの壁に掛けた。老婦人が壁のランプと薪ストーブに火を入れているうちに、ベアトリクスはアロイスに帽子を返し、自分の席に戻っていった。

「おはようございます。リーゼロッテ先生」

「双子君が来るまで、待ちましょう」

 先生が教卓に着いたと同時に、誰かが裏口を殴ったような音がした。続いて盛大な足音が聞こえ、三人がその方向へ顔を向けると、二人の少年が教室へ転がりこんでくる。勢いが余って、廊下から遠い席のアロイスの足元にまで、彼らは揃って滑ってきた。先生はおっとりとほほえむ。

「おはよう。ヴィクトル、ヴァルデマル。学校ができてから、初めての遅刻だわ」

 少年たちは荒い息で互いにぼそぼそと罵りあい、小突きあいながら、よろよろと立ちあがった。

「先生! 俺たちのせいじゃないですからね!」

「今日に限って、父さんが出がけに小言を……」

「おはよう」

「おはようございます!」

「おはようございます!」

「ほら、席について。今日も早く始めて、早く終わりましょう」

 双子は息を弾ませながら、脱いだ外套を鉤に掛けに走った。戻りがけに、二人でアロイスの背後へにじり寄る。

「アロイスのせいだぞ」

「今朝、うちの父さんに何か言った?」

「ヴィク、ヴァルド。早く席に着いてちょうだい」

「はい」

「はい」

 二人は黙って、アロイスとベアトリクスの間の席に並んで座った。先生は全員の顔を見渡してほほえむと、黒板に向かってチョークを手に取った。

「さあ、授業を始めましょう」



 学校では、読み書きと簡単な計算、たまに簡単な理科を、リーゼロッテ先生が一人で教えていた。現在の生徒のうち、アロイス以外は家業を手伝うため、授業はいつも午前中の早い時間に終わる。生活に必要な学だけを教える学校であるため、同じ年齢のアロイスたちも、学校に通うのは終わりに近かった。

「今日は、ここまでにしましょうね」

 先生がそう言うと、一日の授業は終わりだった。まだ昼までに時間がある。双子は早々と学校を出ていき、ベアトリクスは最後まで残って先生と話しこむのが常だった。アロイスは気が向いた時にのんびりと帰っていく。ドロテアは仕立屋として生計を立てているが、その仕事を息子に手伝わせることはなかった。糸や生地を買いに行くおつかいや、水汲みや薪拾いを含む家事の大半を除けば、アロイスは比較的、快適に一人で過ごしている。アロイスが帰り支度をしていると、ベアトリクスが先生との話を中断して駆け寄ってきた。

「アロイス。今朝の話……」

「うん。母さんに編み物を教わりたいんだよね」

 彼女はにっこりと顔を華やがせる。ベアトリクスは、ずっと以前にドロテアが仕立てた一着の服――マホガニー色で厚手のフレアスカートと、襟から胸元へふんわりとフリルがあふれる白いブラウス――を着て学校に通うが、家に帰れば、着古して薄汚れた仕事着に着替えて働いていることを、村の誰もが知っている。

「母さんに話しておくね」

「ありがとう。楽しみにしてるわ。アロイスは、普段は家にいるの?」

「家事をしてない時は、外でいるかな」

 アロイスは帽子を被ろうとして、ベアトリクスの表情を見てしまった。手の中の帽子を見つめて少し考え、付け足した。

「お客さんにお茶を出すくらいなら、するかな」

 周囲の風景をも華やがせる屈託のなさで、ベアトリクスは嬉しそうに笑みを浮かべる。

「そうなんだ! じゃあ、今度お邪魔するね。ドロテアさんに、編み物を習いに」

「うん。編み物をね」

「アロイス。もしよかったら、今日、帰りは一緒に……」

 訥々と、見るからにもじもじと言う彼女に、アロイスは再びあの気まずさを予感した。困惑して顔を上げると、ベアトリクスが話を中断したままの先生が、教卓で生徒のノートを添削していた。

「ベアタ、先生との話はもういいの?」

「あ、いけない。でも今日は……」

「イジドールおじさんが言ってた。たくさん勉強して、都に行くんだよね」

「……父さん、また余計なことを。でも、まだわからないのよ。私にできるのか」

「大丈夫だよ。ベアタはしっかりしてる。邪魔しちゃいけないから……ベアタ、またね」

 彼女の前で帽子を被るのも気が引けて、アロイスは帽子を手に持ったまま、鞄を肩に掛けた。ベアトリクスは弱い笑みを浮かべて、頷いた。

「うん……。またね、アロイス」



 校舎を出ると、アロイスは足早に林の小道へと向かった。早く、いつも通り一人になる必要があると、強く感じていたのだった。自分も含めた誰も彼もが、どこか少しずつ、いつも通りではない。帽子をきっかけに見てしまった、よく知る人の知らなかった一面。アロイスは寒さに負けて、自由気ままな髪の毛をねじこむようにして帽子を被った。いつもの散歩をしに、小道から少し外れて林の中を歩いていく。梢の間に見える小道に沿って行き、広場に近づいたら小道へ戻るのが習慣だった。木々は葉を落とし始めている。足元で落ち葉がかさかさと音を立てるが、踏みしめる感触は柔らかい。

 歩く足に蹴散らされる枯れ葉の音、木枯らしに枝葉がそよぐ音、早足に上がっていく息に耳を澄ませて、アロイスは無心に歩いていた。ふと足を止めると、小道が見えなくなっていた。動揺しないよう自分に言い聞かせて深呼吸をし、再び周囲に目を凝らしたが、やはり小道が見えなかった。上がった息のせいだけではない動悸を胸に感じながら、近くで背の高いどっしりした木を見つけ、そろそろと登り始めた。木登りなど、小さな頃に裏庭のざくろの木によじ登って落ち、母に叱られて以来のことだった。

 無理なく登れる高さまで登っても周囲から頭は出せず、一帯を見渡すには高さが足りない。枝葉の隙間に目を凝らしても、村も、鐘楼さえ見えなかった。いよいよ動揺し始めたアロイスの目は、見慣れたものを捉えた。いつも学校の向こうに見ていた、森の丘にある、白い四角い建物だった。それ以外のものは、やはり何も見えない。アロイスは白い建物までの方向を確かめると、慎重に木を下り始めた。少なくともあの建物から、学校は近かった。

 木から下りる最後の一枝を、アロイスは踏み外した。木の周囲に厚く降り積もった枯れ葉の上へ落ちたものの、不意の衝撃にしばらく倒れたまま動けずにいた。すると、かさかさと落ち葉を蹴散らして駆け寄ってきた何か温かいものが、ふんふんという息遣いで髪の毛をかき分けてくる。ぎょっとして頭を上げると、一瞬首筋に冷たく湿ったものが触れた。アロイスの身動きに驚いたらしく、一匹の大型犬が数歩、すばやく後ずさった。犬はそばに落ちていた毛糸の帽子を咥えて拾い、じっとアロイスを見つめている。

「それ、返してもらえるかな」

 戸惑いながら、アロイスは声をかけた。犬は薄茶色に金色の交ざった長く美しい毛並みで、きらきらと大きな目をしている。赤茶色の革の首輪をしているが、村で犬を飼っている人はいない。村では、黒い猫が一匹どこかに住みついているらしく、アロイスも度々見かけたことがあるが、犬は村にいなかった。アロイスも、百科事典や本で読んで知っているだけだ。犬は言葉を理解しているのか、ただ聞こえていないのか、身動きせずじっと、様子を窺っている。アロイスがゆっくりと立ちあがると、犬は少し後ずさった。

「ごめんね。大事なものなんだ。返してくれる?」

 ゆっくりと近づきながら手を差し出すと、犬は帽子を咥えたまま同じ距離だけ遠ざかって振り返る。アロイスが不意をつくように駆けだすと、すばやく遠ざかってまた振り返る。

「案内してくれてるの?」

 犬は数歩先へ行き、また振り返る。あの白い建物への方向と同じ方向だったため、アロイスは、ついて行くことにした。

 昼時はとうに過ぎているようで、もう長いことアロイスの腹は空腹を訴えていた。空腹が過ぎるとめまいを起こしやすい体質で、冷や汗が出て、時折ぼうっとし、ふらついた。先を歩く犬は頻繁に振り返り、ふらふらする人間の子どもがきちんとついて来ているかを確かめていた。アロイスは何度目かのめまいに襲われ、木の根に足を取られて転倒した。倒れたままのアロイスのそばへ、犬が駆け寄ってくる。帽子を咥えたまま、鼻先でアロイスの巻き毛を撫でた。

「ごめん。くらくらして。ちょっと休ませて」

 気弱に呟きながら、こっそりと帽子に手を伸ばすが、犬は利口に振り払った。アロイスは帽子を取り返すことは止めて、震える手を鞄につっこんだ。小さな油紙の包みから蜂蜜色の飴玉をひとつ、口に入れる。舌の上で溶かしながら目を閉じると、犬を抱えこんで撫で回した。犬は大きくどっしりした体で、体温が高く、頬をくっつけると温かい。こまめに手入れをされている犬らしく、ほのかに石鹸と獣の匂いがした。犬に抱きついていると、生き物のそばにいることに安心する。口の中で飴が溶けていくにつれてめまいも治まり、アロイスは再び立ちあがって、犬の後を歩き始めた。



 日が傾き、あたりは翳り始めた。木々の枝葉の隙間から見える空はすみれ色に染まり、この時間には聞こえるはずの鐘の音が聞こえない。アロイスはすでに白い建物への方向がわからなくなり、ただ薄暗闇に溶けこみそうな犬の姿を追って、重い手足と痛む胃を励ましながら歩いていた。

「どこに向かってるの……?」

 苦しく弾む息で呟くと、犬は一度だけ振り返り、駆けていって姿を消した。目で追った前方の木々の間に、空間の広がりが見える。アロイスも駆けだした。最後の木々の間を抜けると、目の前に夕焼けに赤く染まる小さな野原が広がった。野原の先には常緑の森が広がり、緩やかな起伏の上に、あの白い建物の頭が覗いていた。ここならば、アロイスにも帰り道がわかる。林と森の境、学校と白い建物の中間のあたりだった。湖に背を向け、川を下る方向へ林の縁を歩いていけば、村に帰ることができる。犬は、何度か振り返りながら森の方へ駆けていった。その口には、帽子が咥えられて揺れていた。

「助けてくれて、ありがとう! できたら、帽子を返してほしいな!」

 伝わるかどうかは別にして、森の中へ消えていく犬の背中に向かって、アロイスは声を投げた。湖から流れてくる川の流れに沿って、林の縁を歩き始めるとすぐに、村の鐘楼の頭が見えてきた。続いて、村の屋根の連なりやその向こうに農地が見え、村の門の前に出る。

 外から人が訪れることのない村に門とは名ばかりで、数歩の幅で途切れる生垣と共に、村の外と内の境を形式的に隔てるためだけのものだった。細い木の枝で柵を組んだ軽い門は、こんもりと蔦が絡んでいるものの、子どものアロイスでも片手で開けることができる。両開きの門の片方に掛けられた薄い銅板には、飾り文字で「キュー村」と刻まれていた。頭文字の「Q」の豪華さに、手掛けた人物の意気込みが感じられる。この銅板は、馬車屋のヘルベルトおじさんと、猟師のネーポムクおじさんが作ったという。

 アロイスは村の通りに出た。ここは、アロイスの家と反対側の村の端に位置する。夕闇の迫る村では、家々の窓に明かりが灯り、夕餉の支度の香りが漂っていた。石の敷かれていない通りに明かりはないが、左右に立つ建物から漏れる明かりで充分に明るい。村の門からは、郵便局と同じ並びに診療所が、向かいに牛乳屋とパン屋があり、通りは広場へと続く。足早に広場を抜けていくと、背後から蹄が地を蹴る音、そして馬車の揺れる音が追ってきた。

「アロイス!」

 振り返ると、一頭立ての小さな二輪馬車が来て近くに止まった。幌を畳んだ二人掛けの座席には、御者の青年と白髪の老人が座っている。鍔の小さい、丸い帽子をいつも目深に被っている青年、エーレンフリートが、心配そうな顔でアロイスを見下ろした。

「大変なんだぞ。探していたんだ。どうした? こんな遅くに」

「大変って?」

「ドロテアさんが倒れたって。クレメンス先生を乗せていくところなんだ。ついでだ、君も乗りな。早く」

 アロイスは馬車の後方へ回り、普段は荷台となる所へよじ登った。すぐに馬車は動き始める。柔らかい土の上を走るために、激しく揺れる馬車の枠にしっかりと捕まりながら、老人の背後から声をかけた。

「クレメンス先生、母さんが……」

 老人は振り返り、白いもじゃもじゃの眉毛と丸い眼鏡の向こうから、きらきらした目で気遣わしげにアロイスを見上げた。膝に、黒い杖と鞄が置いてある。

「裏庭で倒れていたそうだよ。かわいそうに、こんな寒い日に……」

「いつですか。誰が見つけたんです」

 青年が片手で手綱を握り、片手で帽子を押さえながら少し振り返る。

「昼過ぎ頃、うちの母さんが見つけたんだ。いつも朝のうちに卵を買いに来るドロテアさんが、今朝は来なかったんだって。店の暇を見て家まで見に行ったけれど返事がなくて、裏に回ったら、裏庭で倒れていたそうだ」

 先生を見ると、沈痛な面持ちで話を継いだ。

「グードルンが、今日は店を閉めてずっとついてくれている。……すまなかった、すぐに診に行ってやれなくて。昼頃、八百屋の双子が怪我をしてうちへ来てね。息子と一緒に手当てをしていたんだが、備品が足りずに手を焼いてな。ドロテアの様子はグードルンから聞いている、大事ではないそうだが……許してくれ、アロイス」

 眉尻を下げて話す先生に、アロイスは首を振った。

「きっと大丈夫です。ヴィクとヴァルドは、もういいんですか?」

「ああ、あの子らは元気だ。グードルンの店へおつかいに出されたものの、店が閉まっていたものだから、その足でまた村の外まで遊びに行って、怪我をしたらしい。一通りの手当てが済んでから、息子に後を任せてきたよ。ただ、派手な怪我だったから物をかなり使ってね。またエーレンに、都へおつかいを頼まなければ」

「明日にでも出ますよ、先生。また誰かが怪我でもしたら、大変です」

「ありがとう、エーレン。この後、うちの息子に要り用の物を聞きに寄っておくれ」

「わかりました」

 馬車が大きく揺れて止まった。アロイスとエーレンフリートは先に馬車から降り、共に先生が降りるのを助ける。御者台に戻った青年は二人に向かって、帽子の鍔に手をやるだけの簡単な挨拶をして去り、アロイスは先生の鞄を持って、先生の体を支えながら少しずつ、家の玄関へと歩いていった。家の窓からは明かりが漏れているが、夕餉の香りは漂ってこない。



 玄関の扉を開けると、居間の暖炉には火が入れてあったが、誰もいなかった。先生を先に招き入れて、アロイスは扉を閉めた。居間の奥にある両親の寝室の扉が開いており、明かりのついたその部屋からグードルンおばさんが顔を出した。いつもの陽気な笑顔が、心配そうに曇っている。

「先生! 待っていましたよ」

「グードルン。様子は?」

「ずっと熱でうなされていましたけれど、夕方頃に少し眠って、今は落ち着いています」

「ありがとう。助かったよ」

「いいんですよ。それで――アロイス! 心配していたんだよ。遅くまでどうしたんだい?」

 先生の陰にいたアロイスに気がついて、おばさんは駆け寄った。きまりが悪く、アロイスは口ごもる。

「散歩してたら、道に迷って」

「ドロテアも心配していたんだよ。顔を見せておあげ」

「おばさん。母さんのこと、本当にありがとう」

「いいんだよ。もっと早く気づいてあげられたらと思うとねえ……」

 おばさんはめったに見せない元気のない笑みを浮かべて、アロイスの巻き毛をかき混ぜるように力強く撫でた。髪のかさが増え、絡んでいたらしい落ち葉が二、三枚、床へ落ちた。

「おや、あの帽子はどうしたんだい?」

「失くしてしまったんです」

「そうかい……残念だったね。でも、無事に帰ってきてよかったよ」

 背中を押されて寝室に入ると、寝台の上で体を起こしたドロテアが手を振った。

「心配してたのよ」

「母さん、大丈夫?」

「ちょっと熱が出ただけ。おばさんがよくしてくれたから、大丈夫」

 寝台の端に腰かけたアロイスの肩をにこやかに撫でるドロテアだが、目元のくまはやはり濃い。

「帽子、失くしちゃったのね」

「ごめん」

「いいのよ。物はまた作れるわ。お前が無事に帰ってきて、よかった」

「……夕飯の支度、するね。先生、母さんのこと、よろしくお願いします」

 寝台から立って、アロイスは先生と入れかわりに寝室から出た。寝台がふたつあるだけの寝室は狭い。長く留守にしている父の寝台はずっと空で、その奥にある扉は閉まっているが、母の仕事部屋に続いていた。居間に戻ると、おばさんが暖炉に薪をくべていた。

「夕食の支度をしてあげようかい?」

「ありがとう、でも、大丈夫です」

「そうかい。困ったら、いつでも呼びにおいで。じゃあ、私はお暇しようかね」

 おばさんと一緒に玄関まで出て、アロイスは深々と頭を下げた。

「今日は本当に、ありがとうございました。おばさんがいなかったら、もしかしたら、母さん……」

「元気をお出し。あんたまで元気をなくしていちゃいけない。ドロテアは熱を出しやすい子だが、すぐにまた、よくなるよ。二人とも、よく食べて、よく眠ることだ」

 おばさんはほほえんで、アロイスの目元を袖で優しく拭った。

「うちの卵を台所に置いてあるから、お食べ。それじゃあ、おやすみ」

「おやすみなさい。おばさん」

 おばさんの頼もしい背中が夜の闇に見えなくなるまで見送り、アロイスは扉を閉めた。するとすぐ、扉が叩かれる。再び扉を開けると、八百屋の奥さんが、腕に蓋をした鍋を抱えて立っていた。アロイスは奥さんを中へ招き入れた。

「こんな時に、ごめんね。アロイス君」

「クセニアおばさん。ヴィクとヴァルドの具合は?」

「あの子たちなら元気よ。ドロテアは大丈夫?」

「今、クレメンス先生が診てくれてます」

「よかった……。ごめんね、アロイス君。うちの双子のせいで、ドロテアが診て頂くのが遅れてしまって」

「二人が大丈夫そうで安心しました」

 奥さんは恥ずかしそうに笑った。

「いつものことだけれど、困ったものよね。これに懲りてくれたらいいのだけれど」

 懲りることはないだろう、とアロイスは返答に困って、曖昧にほほえんだ。あの双子は、わずかな暇を惜しんでは村の外へ遊びに出掛け、生傷が絶えなかった。奥さんは笑って、食卓に鍋を置いた。

「もしよかったら、このお粥、食べてね。野菜でも薬でも、困ったことがあったら何でも言ってね」

「ありがとう、おばさん。母さんも喜びます。あの、ちょっと、待っててもらえますか」

 頷いた奥さんを居間に残して、アロイスは台所へ向かった。グードルンおばさんが置いて行ってくれた卵を少し戸棚に残し、残りを小さな籠に入れて居間へ戻る。

「よかったら、この卵、使ってください。僕たちの分はありますから」

 布を掛けた籠を奥さんに差し出すと、彼女はまた恥ずかしそうに笑った。

「あらやだ。知っていたのね。……でも、ありがとう。いただくわ」

「夕飯、ありがとうございます。いただきます」

「ドロテアによろしくね。アロイス君も、体に気をつけて」

 八百屋の奥さんも見えなくなるまで見送って、アロイスは玄関の扉を閉めた。振り返ると、クレメンス先生が寝室から戻ったところだった。

「先生。母さんの具合は?」

「ああ、いつもの熱のようだよ。大丈夫だ。風邪をひいたりしてこじらせなければ大事にはならないし、すぐによくなる」

「原因は何なんですか?」

 アロイスは先生の鞄を持って、暖炉の前の椅子を勧めた。先生は勧められるままに腰かけて、困った風にため息をついた。

「……疲れてはいるようだが、熱を出して倒れる程ではない。風邪ではない。私の知る限り、何か他の病気にあてはまることもない。流行り病でもなさそうだ。この件で、私が彼女のためにできることは、熱が上がりすぎないようにするくらいなんだ。ただ……」

「ただ?」

 言い淀んだ先生は、少し考えてから、ためらいがちに口を開いた。

「彼女はどうも、原因に心当たりがあるようでな。君は、何か聞いていないかね」

「いいえ……いつも突然、思い出したように熱を出すので、僕にもさっぱり。こんなにしょっちゅう繰りかえすのはなぜです? 何か、僕にできることはないんですか?」

 先生は、暖炉の火を映してきらきらした目を優しく細め、元気づけるように、アロイスの腕をさすった。

「きちんと食事を取らせて、しっかりと休ませなさい。共倒れしないよう、君も同じようにするんだ。うちの息子の式の衣装作りで、根を詰めていたのかもしれんし……何と言ったらいいか。式は延期できる。無理だけはさせないように……」

「そんな! メルヒオールさんとウータさんの衣装は、もう出来上がっていて……母さんも、来週の式を楽しみにしています。原因はきっと他にあるはずです」

「そうか。君がそう言うのならば……。少し安心したよ」

 先生は杖を握って、ゆっくりと立ちあがった。アロイスに体を支えられながら、玄関へ歩き始める。

「では、今日はお暇するよ。ドロテアについていてあげなさい。何かあれば遠慮せず、すぐ呼びにおいで」

「ありがとうございました。先生。お気をつけて」

 先生は、ゆっくり、ゆっくりと去っていった。



「ごめんね。アロイスも大変だったのにね」

「気にしないで」

 ドロテアは寝台の上で、アロイスは寝台のそばに椅子を持ってきて、八百屋の奥さんのお粥で夕食を取っていた。蕩けそうなほど軟らかく煮られた根菜と穀物が、薬味を効かせる香草と共に優しく喉を流れ落ちて、体を温めていく。

「父さんに会いたいわ」

 ぽつりと呟かれた母の言葉に、アロイスは答えなかった。

「……母さんに、編み物を教わりたいって。ベアタが」

「ベアタが?」

「今朝、あの帽子を見て、言いだしたんだ。母さんの具合も悪いし、断わろうか?」

「とんでもない! ぜひ来てもらって。母さんも、教えてあげたい」

 身を乗り出した母の様子にアロイスは唖然として、口に運びかけていたスプーンをそのまま下ろした。

「本当に大丈夫?」

「ええ。誰かに教えることができるなんて、素敵。母さんでいいのなら、だけれど」

「何も今じゃなくても」

「今しかないかもしれないでしょう? 思い立った時に始めるのがいいと思うわ」

 どう見ても病人という風体ではしゃぎ始めた母に、アロイスは黙って目を伏せ、スプーンを口に運んだ。

「……わかった。ベアタに言っておくよ」

 渋々と返事をしながら、アロイスはベアトリクスのことを考えた。毎日のように顔を合わせているというのに、彼女の姿はうまく思い出せなかった。聡明そうな琥珀色の目。黒い髪。それ以上を思い出そうとすると、遠ざかるように像が薄れていく。アロイスは不思議に思いながら、食事を続けた。

 翌朝、母と共に朝食を済ませたアロイスが玄関の扉を開けると、扉の脇に牛乳瓶が置いてあった。大振りの硝子瓶で、アロイスの家では一本で二日分程になる。牛乳は普段、なくなった時にアロイスが買いに行っており、牛乳屋も通常、配達はしていない。アロイスは居間に戻って牛乳瓶を食卓に置き、母のいる寝室に顔を出した。

「母さん。玄関に牛乳が」

「こぼしたの?」

「違うよ。牛乳が届けられていたんだ」

「あら……。うちのことを聞いて、届けてくれたのかしら。学校に行ったら、ベアタにお礼を言っておいてくれる?」

「わかった。行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 風は昨日に比べていっそう冷たく、底冷えする天気だった。帽子の暖かさを覚えた剥き出しの額や耳に、痛いほど冷たい風が吹きつけるが、厳しい木枯らしもふかふかの鳥の巣の前に屈し、アロイスの頭や首筋は依然として暖かい。アロイスはいつも通り、店の前を掃除するグードルンおばさん、店の前に品物を並べるテオフィールおじさんに、朝の挨拶と昨日のお礼を済ませた。

 郵便局の前を通り過ぎてから、少し考えて引き返した。郵便局の扉を押して中に入ると、扉に吊られたベルが鳴り、室内の暖められた空気がアロイスを包む。部屋には小さな窓口があり、奥にある幅広のカウンターには、長い黒髪の女性が座っていた。

「おはよう、オフェリア。ちょっと訊きたいことがあって」

「おはよう、アロイス」

 アロイスが窓口に顔を出して見上げる。オフェリアは何かの書類の上に腕を乗せて、耳を傾けるように少し身を乗り出した。豊かに波打つ黒髪がひと房、彼女の肩から机の上へと流れている。

「おまじないって、何? 母さんが、前にオフェリアから教わったって言ってて」

 オフェリアは首を傾げた。深い湖の色をした目が、静かに、洞察するようにアロイスに向けられる。

「願い事や、お祈りをする小さな儀式みたいなものよ。その儀式をしたり、おまじないをした物を身に着けていると、願ったことや祈ったことが、引き寄せられると信じるの」

「見たことがなかったから、気になって。オフェリアは誰から教わったの?」

「さあ……誰だったかしら。わざわざ教わらなくても、自然にするものじゃないかしら」

 何かを思い出すようにほほえんで、彼女は言った。アロイスはオフェリアに別れを告げて、郵便局を出た。



 今日の学校には、アロイスが一番乗りだった。鉢の下の鍵で、扉を開ける。冷え切った空気と、誰もいない教室。いつも通りに一人になると、昨日の慌ただしさが夢だったように感じられた。

 自分の席に着いて鞄を下ろし、外套、手袋、マフラーを外す。母がおまじないをしたという毛糸の帽子は、失くしてしまった。昨日の朝から記憶を辿ると、いつも通りではない、思いがけないことが立て続いたのは、あの帽子がきっかけだった。そして帽子がなくなった今、いずれはすべてが元通りに、いつも通りに戻ってゆくと考えられる。しかし一方でアロイスには、あの帽子が崩した日々の習慣の波紋は、取り返しがきかない気がしていた。

 アロイスにとって、快適に孤独だったいつもの習慣は毛糸の帽子に破られたが、そこに込められていたおまじないに、母は何を祈ったのだろう? 母の祈りのために、アロイスはあの帽子を取り戻したかった。しかし、帽子はあの犬と共に去ってしまい、取り戻すことはできなくなってしまった。だからせめて、アロイスはおまじないについて知りたかった。願いを叶えられるなら、他の手段でもよかった。

「おはよう、アロイス。やっぱり、君が一番だね」

 ベアトリクスが外套を脱ぎながら、教室へ入ってきた。

「おはよう、ベアタ。あの……」

「なに?」

「編み物のこと、母さん、喜んでた。時間のある時にでも、来てくれたら……」

 花咲くようなベアトリクスの笑みが、風景を華やがせる。

「本当? よかった。今日にでも、ドロテアさんのお見舞いに行くね。具合がよくなったら、編み物を教えていただくわ。そういえば、あの帽子は?」

「失くしてしまったんだ」

「そう……残念ね」

「あの、ベアタ。牛乳を届けてくれて、ありがとう」

 助かったよ、と言い添えると、アロイスにも自然と笑みが漏れた。その様子と言葉に、彼女はいっそう惜しみなく笑みをこぼす。

「今朝、私が搾った牛乳なの。うちの牛のお乳だもの、ドロテアさんとアロイスの元気の素になるように、栄養がたっぷり詰まってるわ。温めて飲んでね」

 彼女はアロイスの肩にそっと手を置き、慎ましい気遣いのまなざしで見つめた。

「搾りながら、お祈りしたの。元気を出してね。アロイス」

「ありがとう、ベアタ……本当に」

「他の人には内緒ね。うちは配達はしてないから」

 ベアトリクスはいたずらっぽく笑い、アロイスもほほえんで頷いた。今まで潜んでいたかのように、不意に足音が聞こえた。

「話は聞かせてもらった!」

「観念して白状するんだ!」

 ヴィクトルとヴァルデマルが威勢の良い声と普段の切れを欠いた動きで、裏口の方向から教室に入ってくる。びくりと振り返ったアロイスの背後で、ベアトリクスは吹きだした。

「打ち合わせをしなかったのね」

 笑いをこらえる彼女に、双子も苦笑いして互いに小突きあった。

「ひどいな、ヴィク。俺のあの後に続いて、『白状しろ』はないよ」

「聞いてもいない話を『聞いた』なんて、僕には言えないよ」

 二人とも、柔らかそうな、くせのない金色の髪が、風にかき混ぜられたらしくもじゃもじゃと乱れている。双子の彼らは、戸籍上は名前の並びでVのヴィクトルが兄、Wのヴァルデマルが弟ということになっている。しかし、生まれてきたのはヴィクトルの頭とヴァルデマルの足が同時だったと言われているほど、実質、兄弟の区別はされていない。また、瓜二つの容貌ながら、生まれつきヴィクトルの片目は瞳孔が大きく、完全に黒に近いため、二人の見分けは容易だった。二人とも、本来の目は青空の色をしているために、ヴィクトルの黒い片目は遠くからでもはっきりと見えた。

 双子は小突きあいながら、自分たちの席に荷物や手袋や外套を積んでいった。

「二人とも、怪我は大丈夫なの?」

 自分の外套を鉤に掛けに行きながら、ベアトリクスは訊ねる。アロイスは自分の席から彼らの様子を眺めた。双子も揃いの外套を掛けに行き、ヴィクトルが苦笑いで答えた。

「大丈夫だよ、ありがとう。昨日は騒ぎになっちゃって、申し訳ないよ」

「これくらいじゃ懲りないけどな」

 ヴァルデマルがシャツの袖のボタンを外して捲りあげると、腕に包帯が巻かれていた。その下に当てられたガーゼが分厚いらしく、盛り上がっている。ベアトリクスが覗きこむ。

「また縫ったの?」

「うん」

 短く頷いて袖を下ろすヴァルデマルの隣で、ヴィクトルがこの世の終わりを見てきたような表情をした。ヴァルデマルが苦笑いで彼の肩を叩く。

「そんな顔するなよ、ヴィク」

「でも、僕」

「何かあったの?」

 心配そうに顔を覗きこもうとしたベアトリクスから、ヴァルデマルはヴィクトルの情けなさそうな顔を隠してやりながら、ため息まじりに言う。

「俺が、岩場で足を滑らせたんだ。苦労して登ったのに、一息でころげ落ちちゃってさ」

「……死んでしまうかと思った」

 呟くように言って首を振り、黙りこんだヴィクトルを励ますように、ヴァルデマルは彼の肩を叩いて笑った。

「ヴィクが野原の何もないところで転んだ時の方が、俺びっくりしたよ。転んだだけで、俺と同じくらい怪我してるんだもん」

「動揺してたんだ、ヴァルドの血がもう、すごくて」

 思い出して追体験してしまったのか肩を落とすヴィクトルと、彼の肩を叩いて陽気に笑うヴァルデマルに、ベアトリクスは苦笑いする。

「それで済んでよかった、と考えるべきなのね」

 席が四つ並ぶところまで三人が戻ってくると、リーゼロッテ先生が教室へ入ってきた。四人は、それぞれの席に着く。

「おはよう、皆さん。今日の授業を始めましょうね」

 黒板に向かう先生の背後で、無言の四人の間で誰からともなく「まだ話が残っている」という目配せが交わされる。アロイスもその一員でありながら、この光景を初めて見たことに驚いていた。



 授業が終わり、アロイスが席を立って帰り支度を始めると、なぜかすでに帰り支度が済んでいる双子が近づいてきた。その向こうではベアトリクスが、珍しく帰り支度をして先生に挨拶し、教室を出ていった。ヴィクトルが小さな籠をアロイスに差し出す。

「アロイス。ゆうべは卵、ありがとう」

「母さんから聞いたよ。ドロテアさん、大丈夫か?」

 アロイスが籠を受けとると、ずしりと重い。被せてあった布を持ち上げると、じゃがいもがいくつか入っていた。戸惑って二人を見たアロイスに、ヴァルデマルが一緒に籠の中を覗きこんで、言った。

「それは、父さんが」

「底の方に熱さましの薬も入ってるよ。って、母さんが」

「ありがとう……おじさんとおばさんにも、伝えてくれる? 君たちも怪我をして、大変だったはずなのに」

「俺たちは大丈夫だよ。いつも通りさ」

「帰ったら、両親に伝えておくね」

 アロイスは籠を鞄にしまいながら、ためらいがちに二人を見た。彼らのことを間近で見るのは、初めてのような気がした。昨夜の夕食の礼を言いながら、鍋を返す。

「うちの母さんが倒れたせいで、君たちが怪我したって聞いて……」

「とんでもない。おつかいをしないで済んだ、今日は俺たちついてる! と思って出かけたんだ」

「うん。自業自得だよね。僕たち」

「君たちはどうして、いつも村の外へ出かけるの?」

 双子は顔を見合わせて、神妙な表情でアロイスを見た。しばらくして、ヴィクトルが口を開いた。

「僕たち、都へ行きたいんだ」

「エーレンフリートがよく出かけていくだろ? でも、何度頼んでも連れて行ってもらえないんだ。郵便局のユーリャも、自転車で隣村との行き来はしてるから頼んでみたけど、だめだった。おかしくないか?」

 アロイスは頷いた。都からこの村への郵便物は、隣村までは別の配達員が運んでくるという。村の配達員であるユーリャは自転車で隣村まで行き、この村への郵便物を受け取って戻り、村の各家に配達している、ということはアロイスも知っていた。

「確かにそうだ。ユーリャが自転車で行けるなら、君たちが歩いてでも行けないはずないよ」

「そうだろ? エーレンだってそうさ。村の売り物を積んで行って、都の品を積んで帰るにしても、俺たちふたりが乗る余裕くらいあるはずだ。なのに、いつも断るんだ」

「理由はだいたいいつも、僕たちが子どもだからとか、道中が危険だからとか」

「荷物が多い、面倒は見れない、とかな。あれは絶対に嘘だ」

「嘘?」

 憤慨した様子のヴァルデマルに、アロイスは訊き返した。悔しそうな苦笑いで、ヴィクトルが代わりに答える。

「帰ったばかりのエーレンの馬車の中を、覗いたことがあってね。確かに品物はたくさん積んでたけど、僕たちふたりを乗せられないなんて程じゃなかったんだ。それに、急用なら一日で帰ってくることもあるでしょ? ゆうべ、診療所のおつかいで出ていくところを捕まえて頼んだんだけど、やっぱり断られたよ。明日の朝には戻るって言うのに」

 怒り心頭のヴァルデマルと、それを宥めながらも悔しそうなヴィクトル。アロイスは始めて知った二人の一面に、興味が湧き始めていた。

「でも、どうして都へ?」

 二人はまた顔を見合わせた。ヴァルデマルがためらうように口ごもって、言った。

「この村じゃできないことがあってさ。都ならきっと、できるんじゃないかと思って」

「できないことって?」

「それが……たくさんあってね」

「両親も知らないからさ」

 ヴィクトルとヴァルデマルは、いくつもの感情が綯い交ぜになった笑みを浮かべて、それ以上は答えなかった。アロイスは話題を変えることにした。

「二人は、おまじないって知ってる? 都の風習か何かかな?」

「おまじない? 美味いのか?」

「お祈りとか、願い事の儀式みたいなものらしいんだけど」

「僕たちは知らないなあ。先生に聞いてみたらどうかな? 何か知っているかも」

「そうだね。ありがとう、聞いてみるよ。それじゃあ……」

 席を離れると、双子はついてきた。戸惑って振り返ったアロイスに、ヴァルデマルが答える。

「都に関わることかもしれないし、俺たちも聞いておこうかなと」

 先生は教卓で生徒のノートを添削していて、近づいてきた三人を、眼鏡を少しずらして見上げた。

「先生、おまじないってご存知ですか? 何でもいいんです」

 アロイスが訊ねると、先生は眼鏡を外して首を傾げた。

「おまじない? 聞いたことがないわね……。百科事典で調べてみる?」

 先生は座ったまま教卓の下へかがみこみ、何か重いものを教卓の脇の床の上に引きずり出した。板で組まれた簡単に本立てに分厚い本が三冊、並んで立ててある。

「どうぞ。終わったら、ここに立てておいてちょうだい」

「ありがとうございます、先生」

 先生はほほえんで、添削に戻った。三人は事典を囲むようにして、その場に座りこんだ。アロイスは一冊を手に取る。事典は全面が日に焼け、丁寧に扱われているようだったが、使いこまれた証としてページの膨らみが目立った。双子の興味の熱い視線が見守る中、アロイスは「おまじない」を引いた。その項は存在しない。三人は首を捻る。ヴァルデマルが教卓の先生を見上げた。

「先生、この事典って古いんですか?」

「いいえ。今のところ、これが一番新しくて、詳しい事典よ。載っていなかった?」

「そうなんです。綴りが違うんでしょうか?」

「そうねえ……。それなら、文字を減らしたり、ちょっとだけ入れ替えたりしてみたらどうかしら」

 三人はそれぞれ一冊を手に取った。彼らは無言で「おまじない」という言葉と綴りを思いつく限りに解剖し、ばらばらにした部位をでたらめにくっつけ、うっかりと元の綴りに戻しては首を捻り、独自の解釈を披露して三人で議論が始まり、何の成果も得られずにふりだしに戻った。

「『お祈り』も『お願い』も載ってるのに。この類じゃないのか?」

「もしかして、オフェリアが間違えた言い方で覚えたのかな」

「二人とも、ごめんね。付き合ってもらったのに」

 申し訳なさそうに言うアロイスの肩を、二人は笑って叩いた。

「そう言わないで。もし都に関することだったら、僕たちにとっても役に立つんだ」

「そうそう。それに、都にはいろんな人や物が集まるらしいし、都でならよく知られてるかもしれないだろ。諦めない方がいい」

「……ありがとう。ヴィク、ヴァルド」

 にわかに協力関係が芽生えた三人を教卓から見守っていた先生が、不意に声をかけた。

「あなたたち、都のことを調べていたの?」

 三人が熱心に頷くと、先生は続けた。

「私も都のことはよく知らないけれど、夫と息子が、よくエーレンにおつかいを頼んでいるでしょう? 彼から、都のことを何か聞いているかもしれないわ。話してみたらどうかしら」

 三人は顔を見合わせた。行ってみようという意思が、互いの表情から読み取れる。それぞれが持っていた事典を元の場所へ立てると、先生にお礼を言い、学校を出た。村の広場の方向から、昼を告げる鐘の音が聞こえてきた。



 診療所では、クレメンス先生が一人で昼食を取っていた。診察室と待合室を仕切るカーテンは、患者がいないため開かれている。三人が入ってくると先生は意外そうな様子だったが、ほほえましげに手を振った。スプーンを下ろした手元には、中身は見えないが湯気を立てる深い椀がある。

「どうしたんだね。まさかまた怪我じゃないね」

 先生は、ナプキンで口元を拭いながら双子を見た。

「昨日はすみませんでした、先生」

「今日は、先生に訊きたいことがあってさ」

「何だね? まあ、適当に座っておくれ」

 三人は待合室の椅子をめいめい先生のそばへ引きずっていった。話を切り出す前の一瞬、誰かのお腹が音を上げた。

「何だ? 君たち、まだお昼を食べていないのかね」

 三人は苦笑いで顔を見合わせる。

「ヴィクとヴァルドは、いつもお弁当だったね。アロイスは?」

「僕は、いつも家で食べていて。でもまだ平気です」

「そうか。私は夜までここにいるから、先にご飯を食べておいで」

 アロイスの隣で、双子はそれぞれ鞄から布の包みを取り出していた。

「それなら、俺たちと分けよう。ほら」

 ヴァルデマルは包みから、小さな丸パンに野菜と炒り卵を挟んだものを二つ差し出した。戸惑うアロイスに、ヴィクトルもりんごを一つ差し出す。

「遠慮しないで。いつも食べきれなくて、残りを晩ご飯と一緒に食べているんだよ」

 先生は三人の様子をほほえましげに眺めて、頷いた。

「良い友人だね。アロイス」

 アロイスは戸惑いつつ、二人から昼食を受け取った。

「ありがとう。ヴィク、ヴァルド。いただきます」

「どうぞ。僕たちの手作りで悪いけどね」

「今日のは合作だよな」

「失敗の日じゃなくてよかったよね」

「そういえばそうだな」

 小突き合う二人の隣で、アロイスはありがたく昼食に口をつけた。

「おいしいよ。ありがとう、二人とも」

 双子ははにかんだように笑うと、自分たちも食べ始めた。

「それで、君たち、聞きたいこととは?」

 椀から立ちのぼる湯気で眼鏡を曇らせながら訊ねた先生に、ヴィクトルが答えた。

「都のこと、何かご存知ですか?」

 先生は顔を上げて思い出すように考えこんでいたが、しばらくして首を振った。

「都かね? 特にないな……。どうしてまた?」

「エーレンは何も教えてくれないんだ。先生とメルヒオールが何か知らないかと思って」

 先生は困ったように白い髭を撫でる。再び考えこんだが、申し訳なさそうに口を開いた。

「すまないが、力になれそうにない。エーレンは都のことはあまり話さないから、息子もきっと聞いていないだろう」

「メルヒオールさんはどこです?」

「倉庫で備品を整理しているよ。エーレンに都へおつかいを頼んだから、戻ったら、すぐ整頓して仕舞えるように」

 アロイスは肩を落として、双子を見た。二人も悔しそうにため息をついている。

「先生。じゃあ、おまじないって、ご存知ですか? 都の風習か何かですか?」

 先生はきょとんとしてアロイスを見た。

「おまじない? 一体、誰がそんなことを?」

「オフェリアが教えてくれたんです。リーゼロッテ先生に訊いても、ご存知ないみたいで。都にはあるのかなと思って」

「ああ、そうか。妻も、都のことは知らないからね」

「先生、何かご存知なんですか?」

 すがるように身を乗り出した三人に戸惑い、先生は黙りこんでしまった。

「……そうだね。おまじないくらいなら。都のというより、古い習慣だよ。私もひとつ知っている」

「どんなものですか?」

 表情を輝かせる子どもたちをほほえましく見遣って、先生は彼らに向き直った。

「主にちょっとした怪我をした子どもに対して使うもので、『痛いの痛いの、飛んでけ』と言うものがある」

 アロイスはぽかんとし、双子は笑いだした。先生も照れくさそうに笑う。

「我々からすればばかばかしいが、これは子どもに使うものだよ。親しい間柄なら、子どもに限らないかもしれないが」

「それで痛みも傷もなくなったら、もう何も要らないよな。ヴィク」

「本当だね」

 笑いながら顔を見合わせる双子にアロイスもつられて笑いながら、先生に訊ねた。

「先生。僕たちが小さい頃にも、そうやっておまじないをしてくださったんですか?」

「君たちが小さい頃かい?」

 先生は呟くように言って、ほほえんだ。三人から窓の外へ目を移し、遠くを見つめながら答えた。

「そうだね。小さかった頃に……」

 それぞれが食事を終え、三人は先生に別れを告げて診療所を出た。



「おまじないって、古い習慣のことだったんだね。アロイス」

「ちょっとだけでも、わかってよかったな」

「うん。ありがとう、二人とも」

 診療所を出て、三人は広場を歩いていく。

「でも、不思議だね。都のでなく古い習慣なら、リーゼロッテ先生だって知っててもおかしくないのに。事典にも載ってたっていいはずだよね」

 アロイスは首を傾げた。ヴィクトルとヴァルデマルも一緒に考え始める。

「医者の秘密か? あれはどう見ても子どもだましだったけど、本当に効くものがあるなら、広まったら商売あがったりだよな」

「うん。それに先生はひとつって言ってたから、まだ他にあるんだろうね。病院で使う類だけじゃなくて、いろんな種類が」

 三人は考えながらいつしか立ち止まり、黙りこんでいた。答えが見えず、アロイスは双子に申し訳なかった。

「付き合ってくれてありがとう。古い習慣だそうだから、後でフェーベに訊きに行ってみるよ。それより、君たちは都のことは詳しいの?」

 双子は気まずそうに顔を見合わせ、ヴィクトルが答えた。

「実は、あまり詳しくない……というか、ほとんど知らないんだ。もうずっと、事典で調べたり、大人たちに訊いたりしているんだけど。遠出してもすぐ見つかって、連れ戻されるんだよね」

「エーレンには特に、しつこくつきまとってるよな。でも、何も教えてくれない」

「そうなんだ。他には?」

「ネーポムクおじさんだな。遊びに行ったついでに訊いただけだったけど、都には行ったことはないってさ」

「そうなの? いろんな道具を持ってるから、都の人だと思ってた」

 猟師のネーポムクおじさんは森に住んでおり、森でとれる木の実や材木、毛皮と干し肉、近くの川で釣れる魚の干物などを売っている。おじさんが村に来ることはめったにないが、アロイスも含めて村人は、頻繁に彼の家まで出向いた。運が良ければ干物にする前の柔らかい、新鮮な魚や生の肉をその場で売ってくれる上、頼めば木や金属の簡単な加工もしてくれるからだ。

「ユーリャはどうだった?」

「隣村と自転車のことで話したことはあるけど。そういえば、都のことは訊いてないね」

「訊いたけど、収穫がなかったのかな? 忘れたな」

「それならもう一度、ユーリャに訊きに行こう。都から来る郵便物だってあるんだから、何か知ってるかもしれない」

 双子は目を丸くして、顔を見合わせた。

「都からも郵便がくるの?」

「ウータ姉さんが隣村の花屋と文通してるけど、初めて聞いたな」

「僕の父親が都にいるらしくて。母さんが文通してる」

 双子はアロイスの肩を掴んだ。

「なんでそれを早く言わない?」

「何か聞いてない? 何でもいいから教えて。アロイス」

「……僕は、何も知らないんだ。前に手紙を覗き見た時、都のことは何も書いてなかった。それから一度も見てないし、母さんからも聞いてない」

 アロイスがそう言って俯くと、双子は呆然と手を離した。

「そうなのか。悪かった」

「ごめんね」

 アロイスは首を振って、苦笑いした。

「僕こそ、黙っていてごめん。二人に教えてあげられることはなかったから。それじゃあ、ユーリャに訊きに行かない?」

 三人が、広場から見える郵便局の方へ目を遣ると、ちょうど中からユーリャが出てきた。ユーリャはアロイスたちよりひとつかふたつ年上で学校には通っていないが、エーレンフリートよりはいくつか年下の少年だった。三人が慌てて目配せしていると、こちらには気づいていない様子で、ユーリャは郵便局の裏手へと消える。自転車を取りに行くのだろう。双子はアロイスの背後へ隠れるようにして、郵便局の方向へと押し始めた。

「アロイス。頼む。何か聞いてきてくれ」

「何だか僕たち、ユーリャに良く思われてないみたいで。話もあまりさせてくれないよ」

「すぐ逃げられるんだよ。エーレンと話してる時にはすぐ邪魔しに来るのにさ」

「そんな。二人の気のせいじゃないかな」

「とにかく、アロイスが訊いてみてくれ。頼んだぞ」

 二人はアロイスを置いて、学校へ向かう小道の中へ姿を消した。濃紺の制服に赤い鞄をたすき掛けして、自転車に乗ったユーリャが広場を通りかかる。

「ユーリャ!」

 急いでいた様子ながら、ユーリャは律義にアロイスのそばで自転車を止めた。

「何?」

「ユーリャって都のこと、何か知らない? 知ってたら……」

「ごめん。悪いけど、急いでるんだ。また後で」

 そう言って返事を待たずに、ユーリャは村の外へと走り去った。林の小道から、双子が駆け寄ってくる。アロイスは肩をすくめた。

「急いでるんだって。話せなかったよ」

 三人は、ユーリャが走っていった村の外へと揃って目を遣る。日が傾き始め、お茶の時間を告げる鐘が鳴った。アロイスは、伸びをしている二人に別れを告げた。

「今日はありがとう。ヴィク、ヴァルド。僕はとりあえず、おまじないのことをフェーベに訊いてみるよ」

「そうか。俺たちも収穫があったよ。ありがとう」

「ありがとうね。アロイス。またね」

「お昼ご飯、ごちそうさま」

 広場で三人は別れ、アロイスは鐘楼へ、双子は村の外へと向かった。



 鐘楼はあまり高くない。アロイスは螺旋階段を上がり、つきあたりの部屋の扉を叩いた。ここに住む老婦人フェーベは村の最年長で、鐘楼守として村の時を告げる傍ら、糸を紡ぎ機を織っている。彼女の糸や生地の一部はドロテアが買い、残りは都で売っていた。

「おつかいかい。アロイス」

「ううん。今日は訊きたいことがあって」

 招き入れられた部屋は、フェーベの生活する場所だった。織り機などの仕事道具や売り物は、もうひとつ上の階にある。真っ白な髪をひとつに束ね、暖かそうな毛糸の服を着重ねたフェーベはアロイスに椅子を勧めると、暖炉にかけていたケトルでお茶を淹れる。アロイスは食卓の席のひとつに腰かけた。母のおつかいで度々訪れるこの見慣れた部屋は、近頃の慌ただしさから隔絶されているようだった。そしてここから日々の時が告げられるにも関わらず、しかしそれだからこそ、繰りかえしから成る生活から超然としているように、アロイスは感じていた。飲み慣れた味のお茶に口をつけて、話を切り出す。

「フェーベは、おまじないって知ってる? 古い習慣らしいんだけど」

 フェーベも席に着いてお茶を飲みながら、首を傾げた。

「知らないねえ。ここを出ることも、あまりなかったからねえ……」

「じゃあ、都のことは何か知ってる? 都に行ったことがある人でもいいんだ」

「そうだねえ、私は知らないが……。馬車屋の息子や、医者の息子には訊いたのかい。後は、配達員の坊はどうだったね」

 アロイスは首を振る。

「だめみたい。フェーベなら、何か知ってるかと思って。昔、エーレンの他に、誰か都へ行ったことのある人は知らない?」

「フロリアンはどうだね。父親だろう、聞いていないのかい?」

「……聞いてない。他にいない?」

 フェーベは長い長い記憶の糸を手繰る様子で考えこんでいたが、結局は首を振った。

「悪いねえ、思い出せないよ。昔の日記を探せば一人二人、見つかるかもしれんが」

「そうなんだ……。フェーベも知らないなら、他の誰に聞いてもだめかな」

 肩を落とすアロイスのカップに、フェーベはお茶を注いだ。

「すまないねえ。ところで、ドロテアのことを聞いたよ。具合はどうだい?」

「いつもの熱みたい。でも、『父さんに会いたい』なんて急に言ったりして、変だよ」

 カップに口をつけてむっつりと言う少年に、フェーベは気遣わしそうにほほえんだ。

「そうかい……。ドロテアも寂しいんだよ。お前さんたち二人は、気丈にしているがね。今日も心細くしているだろう、そばにいてやっておくれ」

「……うん。じゃあ、もう帰るね。ありがとう、フェーベ」

「気をつけてお帰り」

 フェーベは戸口まで見送りに来た。螺旋階段を下りながら、アロイスは手を振った。

 鐘楼へ来た時よりさらに日は傾き、夕暮れが近づき始めていた。広場を出る時、郵便局の前で自転車を押すユーリャの後ろ姿が見えたので、アロイスは駆け寄って声をかけた。

「ユーリャ。用事はもう済んだの?」

 背後から声をかけると、ユーリャはびくりと肩を竦ませて振り返った。アロイスを見て、安堵したように息をつく。

「アロイスか。……さっきは悪かった」

「ううん。僕こそ、忙しい時にごめんね」

 ユーリャはいつもの冷たい表情を少し和らげると、自転車を立ててアロイスに向き直った。

「何の話だったっけ」

「ユーリャは、おまじないって知ってる? 隣村とか都で、聞いたことない?」

「おまじない? わからないな」

「そうなんだ。じゃあ、都のことは?」

 ユーリャはげんなりとため息をついた。

「お前まで、あの双子みたいなことを訊くんだな。僕は都に行ったことはない。エーレンも、都は遊びに行くようなところじゃないと言ってる」

「すごいね。エーレンは、ユーリャには都のことを話したんだ。ヴィクとヴァルドは何も教えてもらえなかったって言ってたよ」

 アロイスがそう言うと、ユーリャは普段から表情に乏しい顔にわずかに、まんざらでもない様子を覗かせたが、すぐに表情の変化を隠してしまった。

「あの双子にも言っておくんだ。都のことでエーレンを煩わせるな。アロイスもだぞ」

「うん。ありがとう、ユーリャ」

 ユーリャは釘を刺すように疑い深くアロイスを見つめた後、自転車を押して郵便局の裏手へと消えた。アロイスは家の方向へ通りを歩いていく。



 帰宅すると、ドロテアは寝室にいた。暖炉の火は少し弱い。アロイスが台所を覗くと、朝のうちに作っておいた昼食は手つかずだった。アロイスは寝室に顔を出した。

「ただいま。母さん。お昼、食べなかったの?」

 ドロテアは寝台の上で、申し訳なさそうに笑って言った。

「おかえり。お昼頃、ベアタが来てね。お昼ご飯を持って、お見舞いに来てくれたものだから。アロイスはお昼ご飯、どうしてたの?」

「ヴィクとヴァルドがごちそうしてくれて」

「そう。よかったわ。食べてるか心配してたの。……怒ってる?」

「何を?」

 きょとんとするアロイスに、母はいたずらっぽく笑う。

「ベアタの手料理、母さんが食べちゃって。ベアタも、アロイスがいなくて残念そうだったわ」

 アロイスは戸惑った。

「食欲があるみたいで安心したよ。ベアタだって、母さんに持ってきてくれたんでしょう」

「すねてる?」

「そんなことないよ。……晩ご飯の支度、するね。お昼のも一緒に食べよう」

 アロイスは鞄を下ろし、八百屋の双子たちから受け取った小さな籠とじゃがいもを母に見せた。

「ヴィクとヴァルドが。おじさんとおばさんからだって」

「あら。ありがたいわ。お礼に何か……」

「お礼が終わらないね」

 アロイスは笑ってシャツの袖を捲りあげ、台所に向かった。戸棚に目を遣ると、パンが残り少ない。再び寝室に戻った。

「明日の朝、リューディガーおじさんの店に行くけど、何か食べたいものある?」

「そうね……。ツェツィリエおばさんの、りんごのパイが食べたいわ」

「ああ、おいしいよね。じゃあ、一緒に買ってくるね」

 ドロテアがくすくすと忍び笑いをした。訝しげに見るアロイスに、笑いをかみ殺す。

「お前が小さかった頃、あのパイを道に落としちゃってね。よほど悔しかったのか、ひどく泣きじゃくったことがあったわ。本当に好きだったのね」

「もう。その話はやめてって言ってる。……今でも好きだけど」

「ごめん、ごめん」

 頬を赤らめてそっぽを向くアロイスに、ドロテアは笑いを爆発させた。

 翌日の朝早く、朝食の前にアロイスは広場のパン屋に向かった。週末は学校が休日のため、今日は朝の時間に余裕がある。パン屋は広場にあり、牛乳屋の隣だった。週末のためか、通りや広場にはまだ人影はない。広場にさしかかった頃には、あたりには焼きたてのパンの香りが漂っていた。店の扉を開けると、濃厚で温かな甘い香りに包まれる。木と硝子のカウンターがあり、数々のパンの他に、焼き菓子、穀物を詰めた瓶が、カウンターの中と奥の棚に並べられていた。

「おはよう。いらっしゃい、アロイス」

「おはようございます、リューディガーおじさん。いつものパンと、りんごのパイをお願いします」

 カウンターに出てきたおじさんは、愛嬌のある丸い顔を笑顔でつやつやと輝かせている。奥の戸棚から細長いパンと箱型のパンをひとつずつ取って紙袋に包むと、カウンターの硝子戸を開けた。中には、焼き菓子が並んでいる。

「パイはふたつかね?」

「はい、ふたつ……」

 少し考えて、アロイスは言い直した。

「やっぱり、みっつください」

「ありがとう。うちの女房ときたら、甘い物を作らせたら神様のようだ。そう思わないかい? 主食用のパンは私にも自信があるが、甘い物はまるで敵わないね」

 内緒話をするように声を潜めて言うおじさんに、アロイスは笑った。

「本当に。おじさんのパンもおばさんのお菓子も、おいしいです」

 おじさんがパイを包んでいる間、アロイスはカウンターに代金の硬貨を並べた。おじさんはパンとパイの包みを差し出しながら訊いた。

「ドロテアの具合はどうだね。もうよくなったのかい?」

「はい。もうずいぶんと」

「それはよかった。うちの女房のりんごのパイを食べて、元気になってほしいね。またおいで、アロイス」

「はい、おじさん。じゃあ、また」

 家に戻ったアロイスは母と共に、いつもよりのんびりと朝食を済ませた。玄関の扉が叩かれ、アロイスが戸口に出る。ユーリャが封筒を手にして立っていた。

「おはよう。ドロテアさんに郵便だ」

「ありがとう、ユーリャ」

 封筒を受け取って差出人を見、アロイスは苦い顔をする。父親の名前だった。居間を振り返ると、ドロテアは表情を輝かせてユーリャに手を振った。

「いつもありがとうね、ユーリャ」

「いえ。それじゃあ、僕はこれで」

 ユーリャが去り、アロイスは居間に戻って母に封筒を渡した。彼女はまぶしいほどの喜びようで、封筒の口を切るのももったいないとでもいうように丁寧に、そっと封を開けた。

「珍しいわ。どうしたのかしら。この冬はまだ手紙を書いていないのに」

 何枚も綴られた便箋を取り出し、黙りこんで読み始める。

「私の体調のことを訊いているわ。村の誰かが知らせたのかしら」

 アロイスはため息をつき、食卓を片づけてお茶を淹れた。母は手紙から目を上げ、息子にほほえみかけた。

「父さん、お前のことをいつも気にしてるの。学校はそろそろ卒業だろうとか、友だちとは仲良くやってるかとか。たまには、アロイスも返事を書いてみない?」

「……僕はいいよ。何を書けばいいのかわからない」

 カップに口をつけて顔を隠した息子に、ドロテアは寂しそうな笑みを浮かべた。

「何でもいいのよ。元気だってことだけ、伝えてあげればいいの」

「そんなに心配なら、一度でも会いにきてくれたっていいのに。できないなら、僕だって手紙を書いたりしない」

 アロイスは無理やり熱いお茶を飲み干して、席を立った。その様子を、ドロテアは悲しそうに見送る。

「お祈りにいってくるね。お昼、僕は帰らないけど、母さんの分は台所にあるから」

「そう……行ってらっしゃい」

「行ってきます」



 週末の朝は、広場にある礼拝堂でお祈りをするのが村の習慣だった。村の通りには、ぽつりぽつりと人の姿が見える。広場の入り口にさしかかるあたりで、アロイスは両肩を叩かれた。八百屋の双子だった。

「昨日はあの後、フェーベのところで何かわかった?」

「おまじないのことも都のことも、フェーベは何も知らないみたい。今日は、昔の日記を見せてもらおうと思ってるんだ。昔なら、おまじないのこととか、誰が都へ行ったとか、あったかもしれないそうだから。君たちは?」

「エーレンは本当に怪しいぞ。いろいろと隠してるみたいだ」

「昨日、ユーリャが君たちに、都のことでエーレンを煩わせるなって言ってたよ」

「そんなこと言っていられないよ、アロイス。エーレンは、何か僕たちに隠してる」

 訝しげなアロイスに、双子は声を潜める。ヴァルデマルは、礼拝堂へ向かう人が集まり始めた周囲を見回して言った。

「お祈りが終わったら、ゆっくり話そう」

「また後でね、アロイス」

 二人は礼拝堂へ駆けていった。アロイスは歩いて続いた。

 礼拝堂は、簡素な集会場のような造りだった。四人掛けの木製のベンチが左右に三つずつ、奥を向いて並んでいる。その先には何もなく、ただ壁があるだけだった。ベンチはちょうど村人全員が座れる数だが、席が全て埋まったところをアロイスは見たことがなかった。家でお祈りをすると決めているドロテアをはじめ、礼拝堂に顔を出さない者もおり、どこでお祈りをするかは、各人の自由だった。

 人が集まりつつある礼拝堂に入り、アロイスはいつもの席に着いた。真ん中あたりにある、通路側の席だ。座る席順は決められていないが、村人それぞれがいつもの席を持っていた。お祈りを始める鐘が鳴るまで、アロイスは黙って座っている。前方から時折、双子の話す声が聞こえてきた。肩を叩かれて、アロイスは顔を上げた。ベアトリクスだった。

「ベアタ、昨日はお昼ご飯、ありがとう。母さんから聞いたよ」

「いいの。私もドロテアさんとお話できて、楽しかった」

 彼女はアロイスの足をまたいで狭いベンチの隙間を抜け、隣に腰かけた。彼女と共に、石鹸の香りと牛小屋の匂いと、温めた牛乳のような甘い香りが、ふとアロイスの前を横切った。

「もう編み始めてるの?」

「ううん、まだ。でも、帰って母さんやユッタ姉さんに話したら、驚いてたわ。二人とも、編み物は苦手だから」

「そうなの? シャルロッテおばさんも?」

 ベアトリクスは笑ってうなずくと、恥ずかしそうに声をひそめて続けた。

「実はね。私も不器用だから、二人は出来上がりを今から心配してるの」

 気弱そうに笑うベアトリクスを見て、アロイスは励まさずにはいられなかった。彼女の肩をそっと叩いた。

「大丈夫だよ。ベアタは頑張り屋だから。きっと上手くなる」

「ありがとう。アロイス」

 ベアトリクスの華やぐ笑みがまぶしかった。鐘楼で鐘が鳴り、礼拝堂は静まり返る。ベアトリクスのいつもの席には別の誰かが座り、その誰かのいつもの席にはまた別の誰かが座っていった。いつも空席だったアロイスの隣に、今日はベアトリクスが座っている。アロイスはお祈りをするために、目を閉じた。



 礼拝が終わり、入り口からまばらに人が出ていく。ベアトリクスは店の手伝いがあると言って、別れを告げると帰っていった。出口へ向かうアロイスに、双子が合流する。

「エーレンを尾行しようと思うんだ」

「どうしたの、急に」

 三人は出口の脇に立ち止まった。あっという間に、礼拝堂に残るのは彼らだけとなった。ヴィクトルが話し始める。

「僕たちが怪我をした日も、エーレンが馬に乗って村を出ていったから、追いかけたんだ。ネーポムクおじさんの家に向かってた。着いて二人が話してるのを隠れて見てたけど、声が聞こえないから帰ることにしたんだ」

「そこまでは普通だったけど、エーレンが俺たちに気づいて、ものすごい剣幕で向かって来たんだ。おじさんの猟銃をひったくって追いかけて来たんだぞ。ちびるかと思った」

「僕も。あの形相は尋常じゃなかった。僕たちがしつこいから、とうとう怒ったのかな」

 震えあがっている双子に、アロイスはおそるおそる訊ねた。

「それで、どうなったの?」

「エーレンは森の外まで追いかけてこなかったよ。おじさんが止めてくれたのかも」

 ヴァルデマルが苦笑いで自分の腕を指差した。

「その帰り道、俺は近道しようとして、岩場で怪我をしたというわけ。ヴィクの言うことを聞いておけばよかったよ」

 懲りない様子で言う彼の隣で、ヴィクトルが悲しそうに小さく首を振っていた。

「それにしても、おじさんと話してるところを僕たちに盗み見られたくらいで、あれほど怒るのはおかしいよ。何か、聞かれたらまずい話をしてたんじゃないかな」

「でも、どうしてまた、エーレンを?」

「それがね、今日の朝早く、エーレンが戻ってきてたんだ。ユーリャも一緒だったから、僕たちは隠れて様子を見てて」

「荷物を降ろしたら、昼前には出ていくんだってさ、離れててよく聞こえなかったけど。何か一緒に積んでいくって言ってたから、中に忍びこもうと思うんだ」

 アロイスは心配になり、双子を見つめた。二人は意気揚々としている。

「本当に大丈夫なの? 命の危険すら感じるけど」

「ここでは諦められないよ。な、ヴィク」

「うん。ヴァルドが諦めないなら、僕だって諦められないよ」

 二人の様子に、アロイスはほほえましくなると同時に、疑問が湧いた。

「どうして、諦めないでいられるの?」

 二人はアロイスを見つめる。束の間、顔を見合わせると、ヴァルデマルが口を開いた。

「俺たちの他の誰にも言わないって、約束できるか?」

 彼らの真剣なまなざしに戸惑ったが、アロイスは真摯に頷いた。ヴァルデマルは続ける。

「ヴィクの片目を治したいんだ。都じゃなくても、治せるならどこでもいい」

「散瞳っていうんだって。僕はそれほど困ってはないんだけど……」

 気弱にほほえむヴィクトルの傍らで、ヴァルデマルは力強く彼の肩を掴んだ。

「ヴィク。俺が、治したいんだ」

「わかってるよ、ヴァルド。わかってる。ありがとう」

 照れくさそうにヴィクトルは頷いている。その様子がほほえましく、アロイスは笑みをこぼした。

「そうだったんだね。二人とも、無事を祈ってる。都に行けるように」

「ありがとう、アロイス」

「アロイスも、諦めるなよ。おまじないのこと」

「うん。諦めないよ」

 三人は礼拝堂を出て別れた。アロイスは、礼拝堂の隣の鐘楼に入り、登り始めた。



「今日はどうしたんだい、アロイス」

 戸口に顔を出したフェーベは、アロイスを招き入れた。

「昨日フェーベが言ってた、日記を見せてもらえないかな?」

「いいとも。ついておいで」

 フェーベはアロイスを手招いて、部屋の奥に向かった。窓の曇り硝子から、午前の陽光が穏やかに射しこんでいる。窓の下には櫃らしき低い腰かけがあり、手作りのカバーを掛けたクッションをいくつか乗せていた。フェーベがその腰かけを横から押すと、中は空なのか、見かけより軽々と脇へ移動した。続いて、腰かけの下にあった床の板が次々と外される。隠していた板の継ぎ目は、あらかじめ知らなければ気づかないほどのものだった。

 床下には、分厚いノートが埃を被って、隙間なく詰めこまれていた。整然と年の順に並んでいるらしく、左端へ向かって背表紙の擦り切れや日焼けが著しい。隠し場所の大きさは、ちょうど腰かけがあった場所ほどだった。フェーベはアロイスに場所を譲ると、申し訳なさそうに日記に目を落とした。

「お前さんが言っているのが見つかるかどうかは、わからないよ。それでもいいのかい」

「いいんだ。ありがとう、フェーベ」

「そうかい。それじゃあ、私は上にいるからね。帰る時は、元に戻しておいておくれ」

「わかった。でも、どうしてこんなに厳重に隠してあるの?」

 アロイスは床に座り、並ぶ日記の背表紙をおそるおそる撫でた。フェーベは笑った。

「隠しておくものじゃないのかい? 私が娘だった頃から、日記なんて恥ずかしくて外に出していられなかったよ。今は何とも思わないが、習慣でね」

 アロイスは納得し、笑って頷いた。フェーベは仕事部屋へ消えていった。

 右端にある日記を手に取る。ノートの状態から見ても、これが最新のようだった。ノートの後ろの方に、半分以上の白紙のページが残っている。二、三年で一冊を使いきるのだろう。最初のページを開くと、一年の始まりを祝うお祭りのことが書かれていた。毎年、欠かさず行われるお祭りで、書かれている様子からすると、今年の春のことらしい。村の目立った出来事が主に書かれ、日付が飛んでいる箇所もある。アロイスにも覚えのある出来事も書き残されており、かいつまんで目を通した。

 春。子牛と子馬が一頭ずつ生まれたこと。メルヒオールとウータの結婚が決まったこと。パン屋と八百屋では、一家総出で種まきや苗の植えつけを済ませたこと。オフェリアが花屋に通っていること。ベアトリクスが都へ行くために勉強を頑張っていること。壊れた馬車の車輪をヘルベルトとネーポムクが修理したこと。夏。ウータが隣村の花屋と文通を始めたこと。エーレンフリートが暑さで倒れたこと。夕涼みの芝居のお祭りが無事に終わったこと。八百屋が冬野菜の植えつけをしたこと。秋。ドロテアが息子のために帽子を編み始めたこと。実りの収穫のこと。牛と馬が一頭ずつ死に、ネーポムクが森に埋葬したこと。結婚式の新郎新婦の衣裳が完成したこと。冬。今年の冬はまだ始まったばかりだからか、ドロテアが倒れたことと、ヴィクトルとヴァルデマルの大怪我のことだけが書かれている。後は白紙だった。

 アロイスは懐かしく思いながら、日記を閉じた。近年はエーレンフリートの他に都に行った人物がいないため、この一帯は調べる必要がない。日記を右端に戻し、今度は少し遡った位置から一冊を抜き取った。少し日に焼けた埃っぽい紙には、さっき見たばかりの出来事が異なる文面で書き連ねられている。つまり春には子牛と子馬が一頭ずつ生まれ、メルヒオールとウータの結婚が決まり、パン屋と八百屋では、一家総出で種まきや苗の植えつけを済ませるのだ。しかし秋、ドロテアは帽子を編み始めない。冬に彼女が倒れることはなく、ヴィクトルとヴァルデマルが大怪我をすることもない。メルヒオールとウータの結婚式が済んだ後、村は平穏に、静かで厳しい冬を迎えている。アロイスは戦慄した。年号を見ると、二十年ほど前だった。

 震える手で元の場所に戻し、さらに時を遡る日記を一冊抜き取った。開けば、先ほどよりいっそう古ぼけて擦り切れ、虫食いのある黄ばんだ紙の上に、すでに見慣れた出来事が、異なる文面で並んでいる。この年の秋も、ドロテアは帽子を編むことはない。冬、彼女と双子は元気で、結婚式が挙げられた後は平穏に一年の終わりを迎える。震えの止まらない手から日記が落ち、落ちた日記を心ここにあらずで凝視した。

 頭上に鐘の大音響が落ちた。アロイスは身が竦んだ。フェーベの部屋で鐘が鳴るのを聞くのは、初めてだった。一息遅れて肌が粟立ち、縮こまった体をおそるおそると動かす。昼を告げる鐘だった。アロイスは日記を元の場所に戻して、隠し場所に元通り床板を嵌め、腰かけを元の場所に置いた。上階からフェーベが降りてくる足音がする。

「おや。まだいたのかい。探していたのは見つかったかね」

 上階への階段からフェーベが顔を出した。アロイスは力の抜けそうな足で立ちあがり、のろのろと居間へ向かった。茫然と食卓の席に腰かけると、フェーベも向かいの席に着いた。

「どうしたね? やっぱり見つからなかったんだねえ」

「うん……」

「残念だったが、そんなに気を落とすんじゃないよ」

 フェーベは気遣わしそうにほほえんで、手を伸ばしアロイスの肩を叩いた。

「お前さん、昼はどうするんだい」

 アロイスは思い出したように、鞄から包みを出した。

「日記を調べながら、食べようと思ってた。けど……」

「そうかい。それなら、食べてお行きよ。お茶を淹れようかね」

 アロイスは感覚のない指で包みを開けた。適当な厚さに切ったパンの上に、目玉焼きを乗せただけの昼食だった。食べる習慣に従って少しずつ噛むが、一向に味はせず、舌触りは紙と埃のようだった。フェーベは席を立って台所へ向かい、しばらくして揚々と湯気を立てる小さな椀とカップを手に戻ってきた。野菜のスープと、お茶だった。アロイスは顔を上げた。フェーベがほほえんでいる。

「残りもので悪いがね。温まるといい。食事の時間まで辛いといけないから」

「……ありがとう。フェーベ」

 アロイスは紙と埃のようなものを置いて、スープに口をつけた。立ちのぼる湯気が冷たい顔を撫でて温める。衝撃と混乱から目の前の温かい食事へと意識が移り、落ち着きが戻ってくる。向かいの席では、フェーベが静かに昼食を取り始めた。アロイスはゆっくりと食べ物を咀嚼し、先ほど見たものについて考え始めた。



 礼拝堂でアロイスと別れたヴィクトルとヴァルデマルは、馬車屋の裏手にある厩舎に向かった。中を覗くと、広い厩舎の片側に大小四台の馬車が並び、もう片側の馬房には逞しい体格をした三頭の馬と、一頭の子馬が休んでいる。小型の馬車は村で、大型の馬車は村の外へ行く際に使われていた。御者の青年はまだ出発していないらしい。荷の積みこみが終わって厩舎を出る前に、エーレンフリートが荷車の中を執念深いほどに確認するということは、二人は調査済みだった。隠れ場所のない厩舎の中ではなく、外で隠れて待機する。

「上手くやれるかな、僕」

「大丈夫。お前を先に押しこむから、すぐに手を貸してくれればいい」

 肩に細い縄を巻いた束を掛けたヴィクトルが、不安げな顔でヴァルデマルを見る。

「そこじゃなくて……エーレンを縛りあげるなんて。君が心配だよ」

「エーレンを押さえる方は危ないから、お前にさせられない」

「危なくなったら、すぐ撤退しようね。君に何かあったら――」

 ヴィクトルの口を手で塞ぎ、ヴァルデマルは背後へ彼を押しこんだ。物音がし始めた厩舎の出口を窺っている。しばらくして、馬の蹄の音、車輪の音、荷車の軋む音が聞こえ、ゆっくりと馬車が厩舎を出た。都との行き来で使われる、板張りの箱型の馬車ではなく、簡素な骨組みをすっぽりと幌で覆った、二頭立ての馬車だった。二人は身を低くして慎重に、かつ急いで駆けだした。馬車後方の通りには人影がない。ゆっくりと進む荷車の背面に追いつき、幌の端を捲り上げたヴァルデマルはヴィクトルのベルトを掴み、放り上げるようにして乗せた。乗りこんだヴィクトルはすぐに態勢を整え、ヴァルデマルの手を握って引き上げる。

 幌の中は、天井近くのほころびから光が入っており、ほの暗い。中には大きな包みや木箱がまばらにあるだけで、隠れ場所は不十分だった。荷車と御者台は幌で隔てられているが、二人は無言で物音を立てないよう、馬車背面の左右に分かれてかがんだ。馬車は動き続けているが、速度はゆったりとしていた。荷車もゆったりと揺れる。しばらくして、ヴィクトルが幌の端を少し持ちあげ、反対側のヴァルデマルが隙間から外を窺った。猟師のネーポムクおじさんの家へ向かっているようだった。二人は時折、目配せを交わしながら、馬車が止まるのを待った。



 アロイスは鐘楼の螺旋階段を駆け降りていた。昼食の間じゅうずっと脳裏で回り続けた、限りなくそっくりな顔触れで延々と並ぶ出来事。その中の異物が、魚の小骨のようにずっと引っかかっていた。その違和感は、アロイスには身に覚えがあった。アロイスと身の回りの習慣をなしくずしに破壊した、母の毛糸の帽子だった。母と双子の名前に集中して再び日記を調べたが、やはり去年以前の数年間、母は帽子を編んでいない。数十年を遡っても、アロイスのために母が帽子を編んだことはなかった。そして母が倒れることはなく、双子が大怪我をすることはなかった。

 アロイスは双子を止めなければならなかった。母が帽子を編んだ後に倒れたこと、あるいはそれ以前にオフェリアが母におまじないを教えたことから、村人それぞれの予定や習慣が崩れた結果として、三日前、双子は大怪我をしたことになる。母の件さえなければ、少なくとも双子は怪我をすることなく、平穏に冬を迎えるはずだった。この村が寸分違わず同じ一年を繰りかえしているということは、その繰りかえしや予定から積極的に外れれば、何が起こるかわからないということだった。双子には、次は怪我で済まないという可能性もあった。その考えに行きついてアロイスは再び戦慄し、日記の隠し場所を元通りにすると、フェーベに別れを告げて双子を追った。

 休業の看板を扉に掛けた郵便局を過ぎ、馬車屋へと走る。馬車屋では、エーレンフリートの父、ヘルベルトおじさんが店番をしていた。息せき切って駆けこんできたアロイスに驚き、おじさんは心配して駆け寄った。

「おじさん、ヴィクとヴァルドを、見ませんでしたか」

「いや。見ていないよ」

 上下するアロイスの背中をおろおろとさすりながら、おじさんは首を傾げる。

「じゃあ、エーレンは?」

「あの子なら、ネーポムクに荷物を運ぶんだって、馬車で出てったよ。昼前だったかな」

「ありがとうございます、おじさん」

「うちの子がどうかしたのかい? さっき、ユーリャも追っかけてったんだが」

 アロイスは絶望的な気分で駆けだした。馬車屋を出る前に振り返り、唖然としているおじさんに訊ねた。

「おじさん。おまじないって、知ってますか」

「何だい、それは?」

「ありがとう、おじさん」

 馬車屋を飛び出し、広場を走り抜けると、門まで行かずに手前の垣根の切れ間から村の外へ出た。そこからすぐ、林の縁が続いている。アロイスにも見慣れた、ネーポムクおじさんを頼る人々が作った小道を、無心に走って行った。



 幌のほころびからわずかに見える外の景色が、森の木々ばかりになってしばらく経つと、馬車が動きを止めた。双子は荷車の出口の両脇で、息を詰めて身構える。外から足音が聞こえ、手がひとつ幌をかき分けて荷車の縁を握った。ヴァルデマルがその手を取り、力いっぱい引っ張り上げると、不意打ちに体勢を崩したまま、青年が荷車へ引きずりこまれてきた。ヴァルデマルは彼の腕を手繰りながら背後に回りこみ、床に押し倒して膝で押さえつける。背中に回した腕にヴィクトルが幾重にも縄をかけ、余った分で胴体に縛りつけた。

「何のつもりだ! 悪ふざけが過ぎるぞ、二人とも!」

 床に押さえつけられたままもがきながら、エーレンフリートは二人を見上げた。ヴァルデマルは息を切らせて、エーレンフリートの動きを抑える。

「あんたこそ、何のつもりだ。あれほど頼んだのに、なぜ都へ連れて行ってくれない?」

「都には遊びに行くところじゃない! 大人をからかうのもいい加減にしろ!」

「俺たちだって遊びに行くつもりなんかない! 子どもだといって簡単にあしらうな!」

 御者の青年はにわかに動きを止める。ヴィクトルが静かに言った。

「エーレン……僕たち、都の病院に行きたいんだ。一度でもいい、連れて行ってくれるって、約束して。道を教えてくれるだけでもいい。すぐに縄を解くから」

 青年は乱れた呼吸を整え、厳しい視線で双子を見上げて言った。

「わかった。いいだろう。対等に話したいなら、この縄を解くんだ」

「解いたら、今の話をなかったことにして俺たちを捕まえるんだろ? まだできない」

「公平じゃないな。それで真っ当な話し合いや約束ができると思っているのか?」

 挑発するように嘲笑を覗かせたエーレンフリートを、ヴァルデマルは真摯に見据えて答えた。

「あんた自身はどうだった。村の外へ出る特権とその恩恵を、ほんのかけらでも俺たちに分け与えようとしたことがあったか。なかっただろ? 取り合おうともしなかった。これが不公平なら、あんたは感謝してもいいくらいだ」

 エーレンフリートは再びもがき始めた。先ほどより激しい暴れ振りに、双子は二人がかりで押さえつける。積み荷の包みを押しつぶし、木箱を蹴るエーレンフリート。その頭から帽子が振り落とされ、一本の長いおさげ髪が床にこぼれた。ぴたりと動きを止めた青年に、双子はおそるおそる、押さえる力を弱める。双子は苦々しい表情を見合わせて、ほの暗い中でも見える、普段より露わになった顔がどうやら女性のように見える、エーレンフリートを見下ろした。悔しさと苦虫を噛み潰しきった顔で、二人はエーレンフリートから身を離し、呟いた。

「前々から、いろんなことを隠してると思ってた」

「しかも、僕たちにはまだ何か隠されてるんだ」

 ふと、二人はエーレンフリートが自分たちの背後を凝視する視線に気づいた。振り返る前に幌がばさりと音を立て、ヴァルデマルが後方へ倒れて、何かに引きずられるようにして幌の向こうへ姿を消した。ヴィクトルが咄嗟に伸ばした手は空を掻く。エーレンフリートを残し、彼は荷車から飛び出した。

 外はやはり、猟師ネーポムクおじさんの家のそばだった。ヴァルデマルを背後から羽交い締めにし、首筋に小刀をつきつけるユーリャが声を荒げた。

「エーレンをどうした!」

「逃げろ、ヴィク! 早く!」

 怒りに燃え、噛みつくようなユーリャの目を、ヴィクトルは冷静に厳しく見据える。

「ヴァルドを放して、ユーリャ。傷つけたら、エーレンもただじゃおかない」

「逃げろってば!」

「エーレンを先に放せ!」

「ユーリャ。エーレンは無事だ。だから……」

「ヴィク、後ろ――」

 ヴィクトルの体が、背後からねじ伏せるようにして地面へ押し倒された。エーレンフリートが縄を体に絡みつかせたまま、隠していたおさげ髪を振り乱し、ヴィクトルの背中へ圧し掛かった。その様を前に、狂乱するように激しく暴れ始めたヴァルデマルに、ユーリャは小刀を捨てて腕で首を抱えこみ、締め上げた。ヴァルデマルはもがきながら背後のユーリャの顔に爪を立て、反撃を試みる。殴り合いも辞さないという目をした、一触即発の二人の様子にヴィクトルが悲鳴を上げ、エーレンフリートは怒号を飛ばした。

「二人とも! ばかな真似はよせ!」

 両者が動きを止めたのを確認すると、エーレンフリートは乱れた息で肩を上下させながら、冷たく双子を見た。

「抵抗さえしなければ、手荒なことはしない。お前たちも観念しろ」

「しかし、エーレン。この二人をどうするんだ」

 そう言いながらユーリャは、静かな抵抗をやめないヴァルデマルを抱えこんでいる。

「ここまできたら、もう僕らにできることはない。後は任せよう」

 エーレンフリートはヴィクトルを立たせ、ユーリャに合図しながら双子を馬車へと引っ立てていく。一本の縄で一緒に縛りあげた双子を馬車の中に座らせると、ポケットから取りだしたハンカチを半分に裂いて、彼らの目を覆った。

「悪いが、念のためだ。ユーリャ、見張りを頼む」

 双子の視界は真っ暗になった。すぐそばに、ユーリャが座りこむ気配と音がして、馬車が動き始めた。双子は不自由な両手と闇の中で互いを探し、見つけ合うとしっかりと互いの手を握った。

 馬車の揺れはしばらくして止まった。幌が捲り上げられる音がした。二人は衣服の首根っこを掴まれて立たされ、荷車の中から放り出された。地面に転がるのを覚悟した二人は、見えない誰かにしっかりと受け止められた。足元の感触は、土ではなく石のように硬い。続いてユーリャが飛び下りた硬い音がする。互いに握る手を離さず、二人はそれぞれの闇の中、静かに立ちつくしていた。まだ目隠しは外されない。複数人の足音が聞こえ、少し離れたところで止まった。エーレンフリートとユーリャの声が誰かに一部始終を説明しているのが聞こえ、それが終わると、新しい、知らない声が加わった。

「でも、子どもですよ」

 穏やかな声が言った。性別はわからないが、丁寧で優しい発音をする声だった。エーレンフリートの声が答える。

「子どもではありますが。ここまでくれば、僕たちで対処できる問題ではありません」

「誰にも話さないと約束してもらえば、充分ではありませんか?」

「とんでもない。帰せば村中に触れ回るでしょう。自分たちには何かが隠されていると」

「きっと大丈夫ですよ。子どもですから。帰してあげましょう、エルネスタ」

 エーレンフリートの声がため息をついた。

「正直、僕はもう我慢の限界です。このまま帰すならば、せめて、都のことで僕につきまとわないように取り計らっていただけませんか」

「では、彼らには私からお願いすることにします。目隠しと縄を解いてあげてください」

 ユーリャのため息を、双子はそれぞれすぐそばで聞いた。思わず身構えると、新しい一人分の足音が近づいてくる。知らない男性の声が、低く笑った。

「もう一人、仲間がいたはずだ。お前たち、そいつに行き先を知らせただろう?」

 双子はだんまりを決めこんだ。男性は、また低く小さく笑った。

「お前たちふたりの頭の中を弄り回すだけでは、意味がなくてな。待つことにするよ。あと一人も、どのみちここへ来るだろう」

 男性の声は少し遠のいた。

「それまでの間、こいつらをどうしてやろうか?」

「大人げないですよ。子どもを脅かすなんて」

「こんな立派な子どもがどこにいる? お前はちょっと来い。話がある」

「はい」

 男性と、穏やかな声は何事か話しながら去って行った。エーレンフリートとユーリャが近くにいる気配はするが、あいかわらず双子は闇の中へ取り残されていた。二人ともそれぞれの胸中で、行き先を伝えてしまったもう一人の身を案じた。



 ベアトリクスは扉を叩いた。ドロテアの声がして、扉を開ける。扉からすぐの居間ではドロテアが席に着いて、食卓の上には包みが置いてあった。中からは毛糸の玉と編み針が、いくつも顔を覗かせていた。

「お邪魔します。ドロテアさん」

「どうぞ。こっちよ」

 外套を脱いだベアトリクスは、いつも学校にだけ着て行く服を着ていた。マホガニー色のスカートと、白いブラウスだ。ドロテアが嬉しそうに目を細めた。

「その服、気に入ってくれたみたいで、嬉しいわ」

「はい! 嬉しくて、大切に着させていただいてます」

 華やいだ表情で、ベアトリクスはドロテアの隣の椅子に腰かけた。暖炉に近い席で、冷たい風に叩かれながらやってきた彼女の体を温め、かじかんだ指をゆっくりと解していく。ドロテアは包みから毛糸玉と編み針を出しながら、苦笑いした。

「ごめんなさいね。あの子、まだ戻っていなくて」

 ベアトリクスはおろおろと首を振った。

「いいえ! 私はただ、ドロテアさんに、編み物を……」

 毛糸玉と編み針をベアトリクスに手渡す時、ドロテアは彼女の冷たい手に触れた。

「外は寒かったわよね。始める前に、お茶でも飲みましょう」

「あの、今日も私にさせてください」

 立ちあがりかけたドロテアを止めて、ベアトリクスは席を立ち、暖炉に向かった。そばの戸棚からカップとポット、茶葉を出し、ケトルから湯を注ぐ。

「どうぞ。ドロテアさん」

「ありがとう。いただきます」

 ベアトリクスがカップを手に席に着くと、ドロテアは彼女を見つめて言った。

「あの子と仲良くしてくれて、嬉しいわ。もちろん、あなたと編み物ができることも」

 ベアトリクスは、はにかんだ笑みを不安そうに曇らせた。

「アロイスは、一人でいるのが好きみたいで。私、邪魔になってないですか?」

 ドロテアはベアトリクスの手を取って、両手で包んだ。無数のあかぎれが痛々しい手を優しく撫でながら、語りかける。

「一人でいるのはね。……昔ね。私たち両親が至らなくて、アロイスを一人にしてしまったことがあるの。あの子はそれを憶えていて、今でもそれがいつも通りだと思ってるのよ。たぶん、もうそっちの方が好きになっちゃったのね。私のことさえなければ、あの子はいつだってどこかへ消えたいと考えてるわ。はっきりとは言わないけれどね、感じるの。でも、近頃あなたが気にかけてくれて……あの子が少し変わってきたようで、本当に感謝してるの。恥ずかしい話だけれど、私にはできなかったから」

 ベアトリクスの手を離して、ドロテアは手元の毛糸玉から糸を出し始めた。ベアトリクスは自分に渡されていた毛糸玉に目を落としながら、呟くように言った。

「大丈夫です。ドロテアさん。もしそうだとしても、アロイスは、ドロテアさんを置いてどこかへ消えたりする子じゃないと思います。いつもお母さんのこと、大切にしてるでしょう」

 ベアトリクスはドロテアを見上げた。彼女のほほえみの屈託のない明るさは、ドロテアの心の底の澱を優しく照らした。今度は彼女がドロテアの手を取り、心に言葉を沁みこませるような真摯さで言った。

「心配しないで。ドロテアさん。あり得っこないですけど、例えばアロイスが何も言わずにここから消えてしまったら、必ず私が探しに行って、連れ戻します。あの山を越えたって追いかけます。でも、アロイスなら何をするにしても、きちんと理由を言うはずでしょう? ね。心配しないで。元気を出してください」

 ドロテアは小さく鼻をすすり、目元を拭った。ベアトリクスの髪を撫でて、ほほえむ。

「ありがとう。ベアタ……あなたがいてくれて、本当によかったわ」

 はにかんだ笑みを浮かべて、ベアトリクスは俯き、小さく首を振った。ドロテアは中断していた編み物の準備を再開し、ベアトリクスに編み方を教え始めた。裏と表の基本的な編み方を教えて、ベアトリクスが一人で編む練習を始めた頃、ドロテアは口を開いた。

「ベアタ。私ね、思っていたの」

「何ですか?」

 ベアタは顔を上げてドロテアを見上げた。

「アロイスとベアタ、頭文字がAとBで並んでるでしょう? ちょっとした縁だけれど、きっと二人は、うまく手を取り合っていくように見えるの」

 ほほえみながら、夢みるようにドロテアは言う。うろたえたベアトリクスは手元の編み物に目を戻したが、一目を編む途中で目を離したため、まだ不慣れな彼女は前後の作業がわからなくなってしまった。ドロテアはそっと彼女の手を取り、編み目の続きを手伝った。

「私に何かあった時は……あの子のこと、少しでもいいから、気にかけてあげてね」

 再び一人で編み続けられるようになったベアトリクスから手を離して、ドロテアは言った。ベアトリクスが彼女を見上げても、ほほえむばかりで何も言わなかった。

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