第二章 (3)

 相当はしゃいでいたので、彼女――白波はすっかり疲れてしまったのだろう。あの後すぐにくたりと横になり、安らかな寝息を立ててしまった。規則正しく動く肩が、その眠りの深さを訴える。


 しばらくそれを穏やかな瞳で見つめていた支倉だったが、ふと突然思い立ち、出掛ける準備を始めた。外で降り続いていた塩の雨は、白波が眠りについて間もなくきれいさっぱり止んでしまっていた。だから、出掛けるならば今しかない。


 頭に垂れ耳のついた帽子を被り、革のマスクを装着する。瞳を覆うは無骨な鈍で覆われたゴーグルだ。そして少ない荷物の中から記録用紙だけを取り出すと、窓枠から飛び出して行った。


 外はいつもと同じ青と白のコントラストに包まれていた。ただひとつ違うのは、今まで降り続けた塩により足場がふかふかして歩きにくいという、それだけだった。支倉が地面に着地すると、ぽっふんと細やかな塩の粒がキノコ雲のように舞い上がる。


「さて、」


 雨上がりならば、おそらくいると思うのだが。

 支倉は静かに辺りを見回し、マスク越しに白い息を吐き出した。先程の猛烈な雨の降りっぷりに、外気はすっかりやられてしまったらしい。肌を刺す冷気は夜間のそれととてもよく似ている。


 ずぼずぼと足を取られながら支倉は塩の丘を歩き出す。深い足跡が己の後ろに延々と伸び、なかなか消えない。そういえば風がまたぴたりと止んでいることに、支倉はようやく気が付いた。


 しばらく歩いていると、ようやく、彼の探し人が姿を現す。


***


 支倉がその人物に別れの挨拶を告げたとき、何故か彼は大量の革袋を持たされていた。


 ただ、欲しいものができたので商人と取引をしていただけなのだが。行きよりも帰りの荷物の方が増えるということを彼は全く予測していなかったので、そのまま塩に足を取られながらふらふらと廃屋へと戻るしかなかった。本当に、自分が持つ『記録』は金になる。普段はあまりそういうことを考えない支倉だが、今度ばかりはそう実感せざるを得なかった。


 さて、ようやく元の廃屋へと戻ってくると、支倉は木枠からひょっこりと顔を覗かせ、室内の様子を確認した。昼寝していた白波はようやく目を覚ましたらしく、残していった薄手の毛布を抱きしめながら膝を抱えて座っているところだった。


「ああ、起きたか」


 声をかけつつ、瞳を覆っていた無骨なゴーグルを頭に乗せる。

 白波はその声に反応し、ぴくんと体を震わせた。すぐに振り返り、じっとそのスミレ色の丸い瞳を支倉へと向ける。ほんの少し眉をひそめ、半開きの唇がしきりに何かを訴えていた。支倉、と呟いたきり、彼女は何も言おうとはしなかった。


 支倉も細かいことは何ひとつ言わず、ただいつものように素っ気ない仕草で背負っていた革袋をひとつ、彼女に向かって投げた。きょとんとして、白波は放られた革袋を目線だけで追いかける。


「それ、やるよ」


 一旦支倉の様子を確かめるべく再び窓へと顔を向けた白波だったが、声色に反して口調が柔らかだったため、ようやく安心したらしい。四つん這いになりその革袋を手元に引き寄せ、結ばれた紐を丁寧に解く。床には袋をひきずった跡が長く伸びていた。


 細い腕を袋に突っ込み、少しずつ中身を取り出してゆく。支倉のものより幾分小さな靴、それから外套。生成りのような淡い色が、もともと色素が薄い白波にはとてもよく似合っていた。支倉はてっきり、名前を付けた時のように大はしゃぎするだろうと思い密かに身構えていたが、彼女はそれらを広げたまましばらくぴくりとも動かなくなってしまった。


 おや、と思う。


 そのまま黙って白波の横顔を見つめていたが、彼女は大きな目をほんの少し細め、じっと押し黙るばかりだった。


「服、その薄っぺらいのしか持ってないんだろう。そのままじゃあだめだ、塩にやられる」


 荷物整理のために一旦支倉も中に入り、白波の横でぐちゃぐちゃのまま放置されていた毛布を素早く畳み自分の荷物に加えた。そして、いまだにぼうっとしている白波を見遣る。硬直したまま動かない。まるで彫像のようだ。支倉はようやく口元を覆っていた革のマスクを顎元まで下げ、白波の横顔に問いかけた。


「どうした」

「……これ、どうしたの?」


 彼女の語尾が、微かに震えていた。


「近くに商人がいたことを思い出して、物々交換してきた。悪いな、あまりかわいくなくて」

「わたし、お金持ってない」

「別にいらねぇよ、んなもん。子供から搾取する気はさらさらない」


 彼女はそれを聞いた後もしばらく無言でいたが、彼女はおもむろにそっと靴と外套を取った。そしてその棒のように細い腕でぎゅっと抱きしめる。


「わたし、ハセクラにもらってばっかりだ」

「いいんだよ、別に。俺がそうしてやりたいと思っただけだ。ただの自己満足」


 支倉は荷造りをしている手を再び動かし始めた。白波はまだ外套を抱きしめたまま、しかし今度は嬉しそうににっこりと微笑んでいるところだった。頬が紅潮して、静かに興奮している。だが先程のように飛びついてこないのは、この短い間に何かを学んだのだろうか。


 彼はしばらく黙々と鞄に必要なものを詰めていたが、唐突にその手を止めた。黒の双眸を彼女へと一旦向けると、彼女の関心は相変わらず与えたばかりの外套と靴に向けられていた。それはそれで構わない。しかし、いい加減そろそろこれだけははっきりとさせなければなるまい。


「あの、さぁ。シラナミ」

「なに?」


 きょとんとして、白波は首を傾げた。何故彼がいきなり改まったのか、理解できないらしい。最終的に「変なハセクラ」と呟く始末だ。


「お前は、これからどうするつもりだ?」


 慎重に言葉を選ぶつもりが、考えすぎて率直な質問が口を突いて出た。

 正直なところ、支倉にとってこれが一番気にかかることだった。別に赤の他人なので、今この場所で別れても構わない。むしろそれが普通だと思う。しかし、彼女は先程から見て分かる通り、とてもひとりで生きていけそうな感じではない。下手すると、彼女は今にも無防備な状態で塩に飛び込んで行きそうだった。自分も本当にお人よしだとは思うが、こればかりは仕方がない。生まれ持った性格だ。


「どう、って……?」

「選択してほしい。俺はそろそろここを発つ。お前はこれからどうしたい?」


 だから、彼女に選択させたいのだ。彼女が選択したことを、なるべく叶えてやるまでだ。

 彼女は一旦外套を傍らに置き、居住まいを正す。そして、支倉の顔を仰ぎ見て、はっきりとした口調で言った。


「わたし、帰る場所がない」

「うん」

「帰る場所がほしい。もうひとりはいや。さっきも寂しかったよ、起きたらハセクラがいなくなっていたから」


 それを聞いてようやく納得した。支倉がここに戻ってきた時、彼女はものすごく哀しそうな表情を浮かべていた。てっきり悪い夢でも見たのだろうと思っていたが、そういうことではなかった。支倉が何も言わず彼女から離れた、ただそれだけのことが彼女にとっては一大事だったのだ。


 自分のお人好しにもほとほと呆れてしまう。勿論自覚はしている。おそらくこれからも、こうして苦労をわざわざ背負ってしまうのだろう。それでも、ああ。彼女の笑顔を見ていたら、簡単に見捨てる訳にはいかないと思ってしまった。あとにも先にも、おそらくこれっきりだ。


「――来る?」


 支倉がその一言を吐き出すのにも思いの外勇気が必要だった。困惑したような白波の表情がふっと変わり、先程とは真逆のきらきらとした瞳で支倉を見つめる。


「いいのっ?」

「放っておくと野垂れそうだしな。ひとりだけなら、連れて行ってやってもいい」


 来るならさっさとそれを着てくれ、と支倉は彼女の頭を軽く小突き、再び荷造りを開始した。もう彼は白波に視線を送ることはなかった。しかし、白波は見ていないと分かりつつも満面の笑みを浮かべ、


「はいっ」


 満足そうに、ゆっくりと首を縦に動かす。そして、今さっき貰ったばかりの外套に袖を通したのだった。

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