第二章 (2)

 案の定、ばかみたいに晴れている青空から勢いよく粗い塩の粒が音を立てて降り始めた。最近ここまでたくさんの塩が降ることはなかったので、支倉も少々油断していた。


 とにかく、これでは当分外に出られそうもない。


 支倉は身体に纏っていた帽子や外套を脱ぎ、それらに付着した粒を落としつつ、いきなり荒れた塩の丘に目を向ける。先程までの美しい光景は、もうどこにもない。ただ、塩の吹雪が青空の下横殴りに飛び交っているだけだ。


 ふ、と支倉が嘆息を洩らすと、その横で首を傾げながら少女がこちらを見つめていた。


 よくよく見れば、とても可愛らしい顔立ちの少女である。大きな瞳に長い睫毛、大抵にこにこと笑っているあたりがまた、子供らしいあどけなさがあり微笑ましいと思う。しかし今はその微笑みも消え失せ、支倉の顔色を窺うことのみに専念しているようだ。


 そして何を思ったか、


「ハセクラ、顔が怖い」


 すっぱりとこう言い放った。


「生憎、元からこんな顔だ」


 別に好きでしかめっ面なんかしていない。ある意味、子供は残酷である。


 肩をすくめながら窓の木枠を閉じ、支倉は壁に寄りかかるようにぺったりと座りこんだ。両足を投げ出し、だらりと全身の力を抜き始める。朝から無駄に興奮したので、若干疲れたということもある。


 まあ、この塩の雨が止まない限り彼ら二人は一歩も外に出ることはできない。さて、どうしたものだろう。子供の扱いは正直慣れていないのだ。


 ふむ、と支倉が考えていると、突然少女は支倉へと身を乗り出し、鼻と鼻の先がくっつく程に顔を近づけてきた。そしてじっと睨めるように支倉の黒の双眸を見つめる。


 心臓が大きく跳ねた。


「昨日から、ずっと考えていたんだけどね」

 彼女は至近距離のまま話し始める。「名前って、誰でも持っているものなの?」

「えっ?」


 さすがにこれは近い。申し訳ないと思いながらも、なんとか彼女を適度な距離まで引き剥がす。軽く触れた両肩に、彼女の茶色い髪がさらりと流れ落ちた。


「ハセクラには『ハセクラ』っていう名前があるのに、わたしにはないもの。もしかして、生まれた時から持っているものなの?」


 なるほど、と支倉は思う。昨日彼が質問したことにより、何故自分には名前がないのか、という疑問が生まれたらしい。言いたいことはよく分かる。だから支倉は、少々唸りながらもそれらしい答えを導いてやろうと思った。こういう部類の説明は、なかなか説明が難しい。


「ええと、生まれた時から持っている訳じゃないな。強いて言うなら、贈り物、かな」

「贈り物?」

「そう。大抵は血縁者から、または親しい人からもらう。生まれた時にね」


 彼女はそれで納得したらしく、小さく首を縦に動かした。


「それじゃあ、ハセクラの名前も誰かからもらったものなのね?」

「まあ、そういうことになるな」

「欲しい!」


 一旦引き剥がした少女が、再び顔を近づけて来た。必死に支倉の服を掴み、湧きあがる気持ちを切に訴える。


「わたしも名前が欲しい! ハセクラに名前があってわたしにないのはずるい!」


 この少女、本当に行動が読めない。あまりの唐突さに驚いてしまい言葉を失っていると、どうやら彼女はそれを渋っているのだと判断したらしい。しつこく「欲しい」を繰り返し、挙句支倉の肩をぽかぽかと叩き始めた。全く威力はないけれど、ここまで必死になろうとは。


「わ、分かったよ。考えてやるから離れてくれないか」


 それを聞き、彼女はにぱっと再び可愛らしい笑みを浮かべた。そして嬉々とした様子で部屋を跳ね回る。まるで、先程の塩野原で見たような可愛らしい動きだ。


 さて、困ったことになった。目の前ではしゃぎまわる彼女をよそに支倉はぼうっとそんなことを考えていた。なにせこの支倉、名前というものを何かにつけたことなどただの一度もなかったのである。過去に何か動物を飼っていた訳でもなく、兄弟がいる訳でもない。すなわち、彼にとってこれは完全なる初体験なのだった。


 嬉しそうにしている彼女の動きに、先程の『創世の波』の残像が過った。全くの無意識であったが、支倉の脳裏には、先程の神秘的な光景が焼き付いて離れなかったのである。


 塩が胎動し、白き波を生み出す。そんな『上書き』された世界の中心でひとり舞う少女。幾重にも渡る光の帯を纏い、輝きの中地平線を見つめる姿。その瞳に、一体何が映っていたのか――


「ハセクラ! まだっ?」


 その声にようやく支倉は現実に引き戻された。見ると、少女が支倉の顔を覗きこんでいる。


「まだ」


 その返答に少しがっかりしたらしい。しゅんとうなだれ、今度は支倉の横に膝を抱えて座り込んだ。本当に、彼女は感情の起伏が相当激しい。


「――シラナミ」


 支倉のやや低い声が、膝を抱えたまま俯いている少女の耳に届いた。ぴくんと肩を震わせ、ゆっくりと隣に腰かける支倉を仰ぐ。


「シラナミ?」

「白い、波。だからシラナミ」


 少なくとも、少女に付けるような名前ではなかった。それは薄々支倉自身も気付いていたし、勿論文句を言われるだろうと踏んでいたので、言ったそばからすぐに別の名前を考え始めた。しかし、ぽっと浮かんでくる言葉はどれも「白」やら「波」やらで、正直女の子らしさのかけらもない。彼女が持つ印象そのものが、支倉の頭の中で無意識に『創世の波』と直結してしまっているのだ。


 困ったな、と思っていると、ふとその耳に小さな声が聞こえてきた。


「シラナミ……シラナミかぁ」


 それは少女が静かに反芻する声だった。外で塩の粒が弾ける音がうるさいほど響いていたはずなのに、その声だけはやたらはっきりと聞こえた。否、その声しか支倉の耳には入らなかった。


 それはもういいよ、と声をかけようとした時、がばりと少女が支倉に抱きついた。


「ハセクラ、ありがとう!」


 その時、ようやく支倉は音の世界に戻ることができたのだった。

 未だに降り続く大粒の塩は激しい残響と共に地上の塩と同化してゆく。戸を閉めていても聞こえるその騒音が、室内にまで強く主張し続けていた。

 そのおかげで彼女が小さく囁いた一言が、支倉にはまるっきり聞こえなかった。


「何?」


 聞き直すと、彼女はゆっくりと首を横に振る。目を細め、本当に嬉しそうにそわそわとしていた。しばらく落ち着きなく支倉の服を引っ張っていたが、ようやく言う決心をしたようだ。


「ねえ、呼んで?」


 満面の笑みを浮かべたまま、彼女は支倉にそう要求してきた。それでいいのかと聞いてみたら、彼女はそれがいいの、と言い張った。


「もっと可愛いのがいいだろうに」

「でもね、シラナミって言った時、ハセクラはすごく優しい顔をしていたの。それがいい」


 だから一番に呼んでほしいと、彼女は続けた。


「し……シラナミ?」

「はい、ハセクラ」


 彼が呼ぶと、彼女は満足そうに返事する。

 そしてその小さな頭を支倉の左肩あたりにとん、と押し付けた。よく分からない鼻歌なんかを口ずさんでおり、機嫌がいいことこの上ない。とことん、彼女はマイペースだ。呆れを通り越して感心してしまう程に。


 塩の雨は、今も変わらず降り続ける。荒れた伴奏の中で、彼女の歌が灰色の空間に色づけていった。

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