第二章 (1)

 翌日、支倉は陽が昇るほんの少し前に目を覚ました。


 霞んでいる視界は昨夜と変わらず、天井の鈍い灰をぼうっと映している。ほんの少し体が軋むのは、きっと久しぶりに硬い床の上で眠ったからだろう。左腕がまるで棒になってしまったかのように、もどかしい痛みがある。これは一体どうしたものか。


 ゆっくりと体を起こすと、頭の上に放置していたゴーグルを取る。そしてそれだけを装着すると、窓の木枠をおもむろに外し、ひょっこりと顔だけを覗かせた。


 風はなかった。まだ仄暗い空は、遠くの方がやや白んで見える。しばらく待てば、洗いたての太陽がいつものように宙に浮かび上がることだろう。


 それにしても静かだ。まるで死海が凪いだ刹那の、あの独特の空気を連想させる。次はどの方向に吹き荒ぶのか全く予想がつかない、あの不安定さ。その感覚を、彼は体のどこかでぼんやりと記憶していた。


「……ああ、そうか」


『この現象』を、過去に何度か見たことがある。前兆らしいものは、吹き荒んでいた風が唐突に止むこと。これだけだ。だから結局は運任せにはなるけれど、支倉は心のどこかで「そのように」予感していた。一応根拠もある。そういえば昨夜、やたら外が静かだった。いつもならもっと強く吹き荒ぶ風の声が激しく耳を貫くようなのに、昨夜はそれがなかったのである。


 これは、と思った。


 急いで支倉は部屋へ戻り、垂れ耳の付いた帽子を頭に乗せ、革のマスクを適当に装着する。裾の長いコートを乱暴に羽織ると、茶色の手袋を素早く両手にはめた。そして、荷物の中から例の記録用紙を半ばひったくるようにして携えると、窓から勢いよく外に飛び出した。


 今日の塩の丘は、まるで溶けた氷のように表面がつるつるとなめらかで、奇妙な光沢を放っていた。その中に足を踏み入れると、それらの塩はもう随分硬くなってしまったようで、さほど足は沈まなかった。おかげで彼は丘の上を全力で走ることができた。匂いのしない空気を僅かに露出した肌で感じながら、その冷気を全身で受け入れる。マスクの端から漏れ出す白い息が走るたびに後ろへ後ろへと流れていった。急がなければならない理由は確かに彼の中に存在していた。あの一瞬を逃したくはない。


 はやる気持ちを抑えつつ、支倉は塩の丘を駆ける。途中塩がやたら深いところがあり、ずぼっと派手に足をとられたりしたが、急いで足を引っこ抜くと再び走り出す。その繰り返しである。


 喘ぐ息の中に、恍惚とした感情が入り混じっていた。蕩けるような気持ちを、支倉はこの光景に何度も感じている。


 ――風がぴたりと止んだ日は。


 支倉は目を細め、脳裏に今も鮮明に蘇る記憶をなぞる。


 ――風がぴたりと止んだ日は、決まってその優美なる景色が地上を覆い尽くす。


 とうとう支倉は丘の上まで到達し、は、と達成感を含めた柔らかな吐息を吐き出した。喘鳴混じりに、彼はようやく一言だけ口にする。


「間に合った……」


 夜明けの瞬間だった。藍色の分厚いカーテンに覆われていた空が、徐々に白んでゆく。真新しい太陽の光だ。その眩しさに思わず目を細めたが、ゆっくりと震える指先を鈍色のゴーグルに滑らせる。


 一瞬ためらったが、後悔はしない。


 支倉はその黒曜の瞳を覆っていた無骨なゴーグルを額に乗せ、その光を直に浴びた。太陽の光を直に見たのは、本当に久しぶりのことだった。やたらクリアな視界に体が戸惑ったのか、妙な震えが背筋を這う。しかし、どうしてもこれだけは直接見たかった。塩が体に触れてはならないと分かりつつも、どうしてもそうしなければならないと思っていた。


 この青と白の世界で唯一、美しいと思える景色がここにある。


「――『創世の波』だ」


 その時、世界を覆う真っ白な塩の砂漠がゆっくりと波打ち始めた。風は今も凪いだままで、一筋の微風すらも感じない。しかしその砂漠には、例えば水の上に滴を落とした時に描かれる波紋のように、見えないどこかを中心にして塩の環が生み出されている。そしてそれは緩やかな一定のリズムを刻んでいた。


 太陽の光の光沢に、歪みによる一瞬の陰り。全てが一日の始まりを――否、真新しい太陽の誕生を祝っているかのようだった。


 静かなる大地の胎動。支倉はこの波に一種の神々しさを覚え、思わずその場で両手を合わせていた。記録用紙は適当に脇腹に挟み、そして祈りの両手は胸の前に。この光景はそれだけ、厳かな刹那を恐ろしいほどゆっくりと見せつけていた。


 まるで、あらゆるものが我々を屈服させているかのようだ。


 支倉は一旦細めた瞳を再びゆっくりと開き、波に揺れる大地を見つめた。太陽の光と影の繰り返し。不思議な色を纏う大地の中央に、ふと、何か小さな黒点があることに気が付いた。支倉は目を細め、肉眼では確認できないと知ると、思い出したように汚れた外套の内側から小さなスコープを取り出した。そしてレンズ越しにその「黒点」を追いかける。


 波の中央に、小さな影がある。ひらりとたなびいた栗色の帯は――ああ、長い髪の毛だ。白く日焼けをしていない肌が、塩を浴びて震えるように舞う。裸足の足跡が点々と波間を漂い、そして徐々に消えてゆく。そう、踊るようにその「黒点」は塩の上を飛び跳ねていたのだった。


 支倉は思わず目を瞠った。あまりに驚いたので一旦スコープを目から外し、腕をつねってから再び覗き直してしまった程だ。


「あの子……」


 そう、波間に漂う彼女は、間違いなく昨夜何故か拾ってしまった少女だ。支倉が起きた時、既に外に夢中になっていたせいですっかり忘れていたが、昨夜は確かに己の隣に寝かせたはずだ。枕代わりにしてやった軋む左腕がその証拠である。今朝はどうだったか必死になって思い起こすと――自信もないし根拠もないが――横にはいなかった、と思う。


 スコープから目を離し、ぽかんとした様子で支倉は塩の上を舞う彼女を見つめる。白い波の中、それはそれは楽しそうに駆ける彼女が、まるで妖精か何かに見えてしまったからだった。もっとも、妖精なんてものは小さい頃に聞かせられた伝承の中でしか知らないのだが。


 しかし、もしもそういったものが実際に在るのだとしたら、きっと今の彼女のように自由に、美しく舞うのだろう。


 塩の波がゆっくりと静まってゆく。白んだ閃光を放つ太陽も、今はその全身を空に漂わせ地上を徐々に焦がしてゆく。少女の舞いもそれに伴い徐々に収束し、やがて止まった。名残惜しそうに彼女はぽつんとただそこに立ち、今さっき太陽が昇ってきた方向を見つめている。


 そんな彼女の姿を、支倉は食い入るように眺めていた。


 『上書き』された白の世界が、いかに虚無なものかを支倉は思い知らされたのである。


「……ハセクラ!」


 唐突に彼女が叫んだ。その声にはっとし、支倉はようやく自分の意識が飛んでいたことに気が付いた。声がした方に目を向けると、少女はにこにこと笑いながら、こちらにやってくるではないか!


 そこではたと気が付く。


 彼女はほとんど生身の状態で塩の海を駆け回っている。これはまずい。非常にまずい。


 慌てて支倉はゴーグルをかけ、彼女の元へと向かう。途中下り坂に足をとられ仰向けに寝転んだまま滑り落ちてしまったが、幸い皮膚にその塩が触れることはなかった。がばりと勢いよく体を起こすと、それとほぼ同時に少女が小走りで支倉の横に辿り着いた。淡い紫色の瞳が、支倉の黒い双眸を見下ろしている。


 昨夜はカンテラの明かりのせいで判別できなかった色だ。


 呆然としながらも支倉は、その瞳が昔図鑑で見たスミレという名の花の色にそっくりだなと思った。


「ハセクラ、おはよう」

 少女は、ふわふわした笑みのまま支倉を見下ろした。「それ、おもしろそうね」

「いや、全く面白くない……って、お前! そんな恰好で外に出たらどうなると思っているんだ!」


 勢いに任せ、支倉は少女の細い両肩を強く掴んだ。あまりの唐突さに驚いたらしく、少女はびくりと大きく体を震わせ、同時に表情から笑みが消えた。しかしそれに気が付かないほど、支倉は動揺し切っていた。


「塩の海に直に触れたら、死んじまうんだぞ!」


 力任せに怒鳴りつけると、そこでようやく支倉ははっと我に返った。

 必死になりすぎて、彼女をよく見ていなかった。力が入りすぎた細い両肩は真っ赤に染まり、彼女の白い色をした頬もまた同じ色へと変化している。スミレ色の大きな瞳からは次第に大粒の涙がこぼれ始め、すぅ、と透明な残光が走った。そして、怯えたように小刻みに体を震わせている。


「あっ……、ご、ごめん」


 慌てて支倉は彼女から手を離し、泣きじゃくる彼女の顔を覗きこむ。声こそ我慢しているようだが、その涙の量が尋常でない。こんなところで泣いたら、余計に水分を持っていかれてしまうではないか。それに、いつまでも彼女の足を塩に触れさせるのはよくない。


 困った末に、支倉はその腕の一方を彼女の脇腹へ、そしてもう一方の腕を膝の裏へと回し、ゆっくりと抱き上げた。彼女がその大きな目をさらに見開く。思いの外軽い体は支倉にとってさほど苦ではなかったので、そのまま彼女を自分の外套の下にくぐらせることにした。


「ちょっと嫌だろうけど、我慢してくれ」


 そう声をかけると、最初はもぞもぞと動いていた少女だったが次第に落ち着いてきたらしい。小さな身体を支倉に預け、機嫌がよさそうににっこりと微笑んでいた。ぴたりと形のいい耳を彼の胸板に当て、ゆっくりと瞳を閉じる。その心臓の音に聞き入っているようだ。


 とにかく、生身を外の塩に直接触れさせるのは危険だった。そろそろ風も吹き始める頃だし、こんな小さな子供ならば、すぐに息の根を止められてしまうのは目に見えて分かっている。


 そう思っていると、支倉が身につけているマスクの隙間、ちょうど僅かに皮膚が見えている部分に何か冷たいものが当たった。乾いてはいるが、痛いくらいに一気に体温を奪われる白い粉だ。


「やばい、降ってきたな」


 彼はゴーグル越しに晴れ渡る空を仰ぎ、塩の海に足を取られつつ元の廃屋へと戻っていったのだった。

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