第一章 (2)
検討に検討を重ねた結果、明日からは北へ向かうことにした。
地図を参照した結果、北の方はまだそれほど行ったことがなく、例の×印もほとんどついていなかったからだ。そして、数か月前に「北はまだマシだった」と呟いた商人がいたことを、今になってようやく思い出した。彼にとってそれらは充分すぎる理由だった。
そうと決まれば、今日は早く休むべきである。
支倉はごろりと無造作に灰色の床に寝転がった。
暗い色をした天井が静かにこちらを見下ろしている。支倉はこの色が好きだった。一般的なところでは、綺麗と形容できる色とはおそらく抜けるようなコバルト・ブルーの空、そして純白とも言える地上の白だろう、と思う。そうは思うけれど、あいにくその青空は見飽きていること、それからこの暗く湿っぽい色をした灰色から、過去にそこで生を得ていた者の匂いを感じ取ることができること。それがなんだか純粋に嬉しくて、だから支倉はじっと飽きることなくその天井を見つめ続けていたのだった。
その時だった。
建物の奥の方から、かたん、と何か乾いた音がした。支倉は初め気にも留めていなかった。どうせ風か何かの音だろうと、そう思ったのである。
間もなく、その小さな音は再び支倉の耳に飛び込んできた。一定のリズムを踏むその微かな音は、止む気配すらなかった。しばらく黙ってその音を聞き続けていた支倉だったが、次第に音の正体が気になり始めた。
あたりは夕闇に包まれ始め、静かなる冷気が辺りを立ち込めてきたところだった。暗闇に響く、外から吹きつける風の音と、中から響く怪しげな物音。正体の分からないものは、正直な話、怖い。
ゆっくりと上体を起こすと、自分の少ない荷物から小さなカンテラを取り出した。何年か前に出会った商人から譲り受けたもので、一体どういう仕組かは分からないが、固形燃料やオイルといった燃料を使わずして明かりを灯すことができるとても便利なものだ。
そのカンテラのスイッチを入れると、濃い闇の中にぼうっと橙色の温かな光が灯った。それを建物の奥へと向ける。
四角い部屋の角には何もない。そして、汚れた壁のちょうど真ん中あたりに人が一人通ることができるくらいの細い廊下が続いている。さすがに距離があるようで、このカンテラの明かりでは廊下の奥まで照らすことはできなかった。
誰か、いるのだろうか。
今時珍しいくらいに造りがしっかりしている建物だからこそ、他に人がいても決しておかしくはないだろう、とは思う。
しかし、だがしかし。
脳裏に支倉にとって「最悪」の出来事が連想され、ぶるりと背筋が震えた。
もしも追剥だったならば、別に構わない。そういう奴には与えられるものをありったけ渡してさっさと逃げればいいのだ。
しかし、問題は「そうではない者」だ。言い換えると、「自分と立場が同じ者」。やっていることはそれぞれ別ではあるだろうが、同業者ならば分かる。支倉が持つ一番大切なものは、彼の命以上の価値がある。上手に使えば、一攫千金どころではない。やり方によっては世界をもう一度『上書き』できる可能性があるのだ。
そういった人々に支倉は過去に数回遭ったが、毎度毎度追剥を扱う以上の大変な思いをしてきた。だから、できれば争いだけは避けたい。正直な気持ちとしては、「面倒だし怖いから嫌だなあ」の一言に尽きる。
しかし危険をそのまま放置しておくほど彼は図太い神経を持ち合わせてはいない。だから支倉は渋々細い廊下へと足を踏み入れた。
なるべく足音を立てないように、そして気配はなるべく消すこと。まるで狩りに向かう肉食獣のように、その動きは冷静且つ細やかだった。時折その暗褐色の瞳に、獰猛な色が浮かび上がる。それだけ彼の集中の糸はぴんと真っすぐに張られているのだ。そう、一歩間違えば容易く切れそうな程に。
カンテラのスイッチは既に切ってしまった。今はほんのりと熱を蓄えた小型の箱が彼の左手にぶら下がっている。ゆらゆらと揺れる細長い影が、月明かりに照らされて青白い不気味な怪物を生み出していた。
物音が徐々にはっきりと聞こえてくる。ぺたぺた、という何かが這いつくばるような音と、それから何かにぶつかったのだろう、やや勢いのある騒音。息を殺しながら、支倉は自分でも驚くほどゆっくりとした足取りで細長い廊下を行く。
そしてとうとう、支倉は音のする場所をつきとめた。
そこは本来物置にでも使われていたのだろう。支倉が滞在している部屋よりも幾分小さな部屋だった。簡素な扉が、やや半開きになっている。ドアノブに目をやるとほんの少しだけ、塩のような白い結晶がこびりついていた。
支倉は両手にいつもの手袋をはめていることを確認し、そっとドアノブに触れる。そして僅かに開いている隙間から覗きこんだ。黒の両の瞳が左右を見渡してゆく。
彼の瞳が捉えたのは、薄汚い塩材――塩を固めレンガ状にし、特殊加工したもの。堅い割に軽いので、主に商業用の箱に使われる――の箱がいくつかと、薄い色をしたぼろ布がひと山。それ以外のものは、ない。
支倉は大きくため息をつくと、額に手をやりつつ小さく呟いた。
「なんだ……」
結局はただの風の音だったんじゃないか。緊張して損した。
今度はその扉を開け放ち、改めて中を覗き見る。間違いなく、例の箱と布ぐらいしか見当たらない。しかし、支倉の目にそれとは別のものが飛び込んできた。
薄汚れた床に、小さな足跡。かがんでよくよく見てみると、それは人間のそれである。支倉の手より一回り小さいくらいの、裸足の足跡だった。それを見て、思わず彼はぎょっと目を丸くする。
こんなところに、子供の足跡?
先程ドアノブに触れた時、確かに微量だが塩がこびりついていた。ということは、この部屋にいたであろう『誰か』は確実にその身体に塩を纏って入ってきたはずなのだ。その証拠に、床のあちこちに塩を落としたような細やかな結晶が落ちている。それなのに裸足とは――
もう少し観察してみようと、支倉はカンテラのスイッチを再び入れた。橙の明かりが部屋を満たし、足跡も先程よりはっきりと見えるようになった。
「――それ、なあに?」
その時だった。唐突に鈴の音のような可愛らしい声がどこからか聞こえてきた。さすがに驚いて、咄嗟に支倉はカンテラを真正面へと向ける。しかし、彼の目の前には何もない。あるとしても、先程と変わらない箱と布の山のみだ。
……と思ったが、その布が突然もぞりと動き始めたではないか。
目を瞠ったまま固まっていると、その動きはやがて止まり、ゆっくりとした動きで『上体』が起こされた。さらりと揺れる、薄い色の長い髪の毛。
「そのまぶしいもの、なに? きれいな色」
そして囁くような声で、『彼女』は言い放ったのだった。
それはどう考えても、自分より幾分若い少女の声だった。カンテラの光がその人物まで充分に届かなかったので、彼は恐る恐る近づき、その姿を確認しようとした。
徐々に露わになる、生き物の姿。
初めは小さな裸足の脚、それからあまり綺麗とは言えない橙に染まった布。これはカンテラの色だろうから、おそらく本来は白に近い色をしているのだろう。
「……そこに誰か、いるのか」
情けないことに、声が微かに震えている。
充分過ぎるほどの時間をかけてようやく、カンテラが声の主を照らし出した。
橙の明かりのせいで正確な色はよくわからないが、おそらく茶色か何かであろう色素の薄い髪、そして瞳も黒ではない何かの色をしている。年はおそらく十代前半くらいだろう。少なくとも、支倉より片手の指で数えられる程度若いと思う。やや長い睫毛がカンテラの光を弾き、数回瞬きをされた。その後大きな丸い瞳をこちらにじっと向けて、彼女は質問を繰り返す。
「あなたは誰?」
それはこっちが聞きたいよ、とは言えない支倉だった。小さくため息をつき、それからふと彼女の出で立ちに気が付いた。
白い色をした袖のない薄手のワンピース一枚。今まで布だと思っていたものは、どうやら彼女が纏う唯一の洋服だったらしい。彼女は裸足のままぺったりと冷たい床に座り、しかし寒さに震えている素振りは一切ない。見たところ、手袋やマスクといった体を防御するものはなさそうだ。
もしかしたら、可哀そうにこの少女、持ち物を他者に奪われてしまったのかもしれない。支倉は座りこむ彼女の前にしゃがみこみ、顔を覗きこみながら尋ねた。
「お嬢さん。その恰好はどうした? 追剥にでも取られたのか?」
「あなたは誰?」
反芻するように、彼女は再び同じ問いを投げかけてきた。これに答えなければ何も言うつもりはない、ということだろうか。賢明ではあるけれど、これはこれで相当厄介だ。仕方ない、と支倉は肩を落とし、右の親指で己を差した。
「俺はハセクラだ」
「ハセクラ?」
可愛らしく首を傾げながら彼女は無表情で言う。それが彼の名前だと理解するのに、ほんの少し時間がかかったようだ。そして完全に理解してからは、突然嬉しそうににこにこと笑いながら仏頂面の支倉を見つめ返した。
「ハセクラっていうのね!」
「ああ。それで、お嬢さんはひとり? もしかしてお父さんやお母さんとはぐれたのか?」
その問いに、突然彼女は口を閉ざした。再び困惑した表情を浮かべ、丸い瞳を汚れた床へと向けた。当然、そんな彼女の前で顔をひきつらせているのは支倉だ。
なんてこった。これは相当厄介なものを見つけてしまったぞ。支倉は己の行動について心の奥底で深く反省した。どう考えても、これはただの迷子なんかじゃない。厄介事に巻き込まれるのだけは避けたい支倉としては、是非とも関わることを遠慮したい類の出来事だ。
そう考えていると、どこからともなく「きゅう」と小さな情けない音が聞こえてきた。……少女の腹の音だと気が付くのに、そう時間はかからなかった。はっとして、彼女は己の腹を押さえ、恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「ええと……」
ほんの少しだけ悩んだが、意外と結論は簡単に出た。彼女が怯えないよう出来る限り優しい声色で、そっと話しかけてみる。
「お嬢さん、何か食べる?」
厄介であっても、こんなに小さな少女を放っておけるほど支倉は冷酷な人間ではなかった。少なくとも、そんな恰好では外にも出られないだろう。一晩だけなら、まあ一緒にいてやってもさして問題はない。要するに、困った時はお互い様、ということだ。
彼女はしばらく無表情のままじっと支倉を観察していたが、危険な人ではないと判断したのだろうか、ゆっくりと首を縦に振った。
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