第一章 (1)
空の蒼と地上の白。これが世界を構成する色の大部分である。
うんざりするほど完璧な白の砂漠は、突風に煽られひどく荒れていた。巻き上げられたそれらの白い粒は、充満する空気を同じ色に染め上げながら勢いよく天へと昇ってゆく。
濁った視界の中耳にする音はと言えば、ひゅんと空を切るような鋭い悲鳴だけだ。
ふと空を仰ぐと、見飽きてしまった濃い青がその白によって薄氷色に変化したところだった。残酷な太陽の光がそれらの白に光という命を与え、より一層輝きを増す。
風が一瞬凪いだ。
その直前まで息が詰まるほどの凄まじい風が全身を吹きつけていたので、それが失われた途端、重力に引き寄せられるように光の粒が地上に降り注ぐ。息苦しさからの解放。ふっと息を吐き出すと、ぱらぱらと軽い音を立て、その身に纏った長い外套の上で弾けていく。それはまるで花弁のようだった。
その様子をゴーグル越しに眺めた後、彼――
「とうとう、ここも終わりか」
懐から懐中時計を取り出し、静かに時を刻み続ける針を見つめる。真鍮独特の濁った金茶が、太陽の光を享受して白く光った。こんなところまで白くならなくてもいいと、支倉は内心舌打ちする。どいつもこいつも、見渡す限り白一色。正直飽きたし、眩しいことこの上ない。
彼は茶色い革で出来た手袋をはめた右手で、左脇に携えていた紙束の表紙を開く。そして最後の行を探すべくぺらぺらとめくり始めた。彼独特の字が延々と綴られたその紙の最後の一行、その下に今の時間と場所を新たに書き加えると、支倉は満足そうに瞳を閉じた。
「『ひとつの終演に、多大なる拍手を』」
呟いたその声は、再び吹きつけた強風により見事にかき消されてしまった。
ゴーグルとマスクの隙間、ちょうど頬がほんの少しだけ見えている部分に、白い粒が礫のように当たった。刹那、まるで氷にでも触れたかと思う程の鋭い痛みが走る。いけない、と彼はマスクを上にずらし、肌が少しでも露出しないようにした。
まだずきずきと痛む頬に、支倉は目を伏せながら考える。
くらったのが頬でよかった、これならばまだ低温火傷で済む。もしも全身に『これら』が命中したならば、間違いなく命はなかったろう。
――そう、ここは全てを塩に『上書き』された世界。冷たい塩に支配された、終わりの世界なのだ。
***
ほんの数十年前までは、この国はたくさんの人間で溢れていたそうだ。大地は「土」なるものに覆われ、草花が咲き乱れていた。時折空から降るのは「雨」という名の水で、それが土の大地を潤していたそうだ。
――今となっては、それはただの御伽話でしかない。
支倉が少年だった頃、既にこの土地は塩で溢れていた。空から降るのは冷たい「塩」で、それらが降り積もるたびに街はどんどん埋もれていった。この「塩」とは人々が「食塩に似ているから」という理由で適当につけた俗称であり、実のところこの白い粉の正体はよく分からない。何せ触れることすらできないのだ。
なぜならこの「塩」に直に触れると、その身体は元の状態を保つことができなくなるのである。微量ならば低温火傷で済むが、長時間その身をさらしてしまえば体を構成する物質――肉や、骨、臓までもが「塩」へと変質してしまう。
原因も分からず、全身を何かで覆うことよりも優れた対策が編み出されない以上、人間はもうこの土地に住むことはできない。数え切れないほどの人々が、「塩」によって命を落とした。かろうじて生き延びた者でさえ、この得体の知れない恐怖に怯え、まだ塩が積もっていないどこか異国の地に逃れてしまった。住む人間がいなければ、街も機能しなくなる。こうして、次々に街は死んでいった。
これらの事実は、もうずっと前に出会った旅人が、支倉を見るなり参考までにと教えてくれたことである。
――もうこの地上にはおれたちの住む場所はないのさ。全部、この塩に『上書き』されちまった。
――覚悟? ああ、できているさ。
――塩と死を、共に。ってね。
最後に彼がそう言って笑ったのを、支倉はとてもよく覚えている。とても綺麗な笑い方だったからだ。覚悟というものができている人は、きっとあんな風にさっぱりとした表情ができるのだろう。
支倉は塩の山の上をまるでシャベルで掘るようにざくざくと歩き、そこにやたら長い奇妙な足跡を残していった。ひやりとした冷気がブーツ越しに伝わり、時折背筋にぶるりとした寒気が走る。この塩は、地上の熱という熱を根こそぎ奪ってゆくのだ。だからこんなにいい天気でも、外の気温それ自体はさほど上がらない。
黙々と歩くうちに、彼は昨日から勝手に滞在している古い建物の前に辿り着いていた。もうこの土地にも相当塩が積もっているはずだから、おそらく塩が降る前はかなり高さのある建物だったのだろう。ぽっこりと飛び出た浮島のような形、それにいくつか開いている四角い穴に手をかけると、支倉はひょいと中に飛び込んだ。そして乾いたコンクリートの上に着地する。
中は多少汚れてはいたが、この程度なら問題ない。むしろ、これだけ荒れていない建物は珍しいとも思う。
支倉は窓の木枠を丁寧に閉め室内に塩が入り込まないようにすると、ゆっくりと後頭部に手を回す。そして今まで顔面を覆っていた濃い茶色のマスクを外し、足元に無造作に放り出した。
汗でやや湿った唇が露わになる。
無骨な鈍色のゴーグルも上にずらし、顎の下で結んでいた垂れ耳が付いた帽子の紐を解く。そして、それらふたつを全部取っ払うと、彼はようやく「塩」の世界から解放された。
やや短い東洋人独特の黒髪に、それと同色の瞳。痩せこけてはいるが、精悍な顔立ちは凛凛しいと思えるほどである。さらにゆっくりとした手つきで体を覆っていた裾の長い外套を脱ぐと、それも帽子らと共に床に放り出された。そして彼は額に手を当てつつ、先程何やら記録していた紙をめくった。ふむ、と再び小さく呟く。別に何ということはない、「またか」と思っただけである。
支倉は自分の少ない荷物の中から手探りで地図と小型のコンパスを取り出すと、今自分がいる場所を参照した。
地図は大分使いこんだものらしく、折り目の部分の文字がややかすれて読みにくくなっている。そして、あらゆる場所に支倉自身が書き込んだものと思われる黒い色の×印がびっしりと並んでいた。むしろその印がない場所を探す方が難しいのではないかと思えるほどだ。
左の人差し指が紙面上をゆっくりと滑り、今彼がいる場所でぴたりと止まる。そして胸ポケットに挿してある黒のペンで、支倉はゆっくりともうひとつ×印を書き込んだ。
こうしてまた、×印――「塩」により死んだ街が生まれてしまった。支倉は絶望ともとれるような細く長い息を吐き出し、ゆっくりと瞳を閉じる。
「ここもだめだということは……、もう南は全滅、だろうか」
長いこと一人でいると、独り言すらも無駄に大きくなるものだ。あいにく支倉には、行動を共にする仲間というものは存在しなかった。
再び目を開けた先に見えた地図の光景は、びっしりと埋められたクロス・マークで真っ黒に染まっている。
まるで、地上の『白』と正反対だ。脳裏にこびりついた滲みひとつない純白が、紙面の黒と交わり不思議な錯覚を生む。まるで、地上も「そうであるか」のように。
そんな妄想は、今は不要だ。
支倉は唐突に我に返り、あっさりと自分の思考の暴走を投げやった。そして冷たい床にぺたりと座りこみ、早く次に行く方向を決めなければと頭を悩ませ始める。もっとも、どの方向へ行っても似たようなものではあると思うが。しかし、期待だけは捨てたくない。
支倉自身、この急速な街の塩化には心底驚いている。彼が今まで住んでいた土地を捨て放浪し始めたばかりの頃は、まだ緑豊かな土地もあったし、水もそのまま飲むことができた。生水の場合は自分で一旦沸かさなくてはならないという多少の手間はあれど、今の状態と比べたら、本当に楽だった。
もしも、今もそのような場所があるのだとしたら――
ふと思い立ち、支倉は今まで記録してきたものを確認しようと再びボロボロになった用紙をめくった。見なれた己の汚い字は、時に弱弱しく、時に力強く書かれていた。そして最後の字は、感情らしいものが何一つ見えないやたら平坦な字だった。
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