塩と死を、終焉の終演
依田一馬
序章
辺りは闇と静寂に包まれていた。
僅かに吐息を吐き出すことすら躊躇してしまうほどの――例えるなら、まるで細い糸をぴんと張った時のような緊張感。それと紛うほどの鋭利な静けさが、この真白き地上を支配している。
昼が生きる者の世界だとしたら、夜は死んだ者の世界だ。この静けさが拍動すらも凍り付かせ、未知の力を以て生きとし生ける者を圧倒していた。
――否、今は昼ですら、死んだ者の世界だ。
彼は濁った思考の中、そんなことを考えた。
先程までは目の前で火を焚いていたらしく、小さな銀のカップから白い煙が立ち昇っていた。中に入っている乳白色の蝋は、その熱により溶けてしまい透明な液体と化している。
彼はせめて指先だけでも暖めようと、両手を握り合わせ己の息を吐き出した。しかし、ほんの一瞬だけ感じた温もりは夜の冷えには勝てなかった。口から吐き出した水蒸気が体温そのものを奪ってしまい、その行為は完全に逆効果となってしまった。
手を暖めることを諦め、彼はその暗褐色の瞳を静かにカップから立ち上る煙へと向けた。そして、そのままじっと動かなくなる。瞬きすらろくにしていないのではなかろうか。ただ緩やかに流れる風が彼のやや短い黒髪を流す程度で、彼自身が動くことはなかった。
どれくらいそうしていただろう。
凍り付いたように動かなかった彼がおもむろに首を動かした。そして、横で安らかな寝息を立てている『彼女』に視線を落とす。
今は瞼が閉じられているため見ることはできないが、彼は『彼女』が持つ独特な瞳の色が好きだった。そして、ひび割れてしまいぼろぼろになっている頬も、薄い栗色をした長い髪の毛も、朽ちかけた細い指先ですら、全てが愛おしいと感じていた。
彼は『彼女』の柔らかな髪にそっと触れ、優しく撫でてやる。ぴくんと『彼女』の身体が震えたが、……やがて厚さのない胸のあたりが規則正しく動き出すと、彼は口元に笑みをこぼした。
彼女は、己が下したこの選択をどのような思いで耳にするのだろうか。
吐き出した白い息が、ゆっくりと天上へ伸びてゆく。そんなふたりの様子を見つめていた銀のカップからはいつの間にか全ての熱が奪われ、乳白色の固形物を残すだけとなった。
時間の経過を、彼は改めて思い知らされたのだった。
ああ、愛しい子よ。
そして彼は思うのだ。
どうか、――ずるい選択をした俺を、赦してください。
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