第10話

 上州屋の奥にある木賃宿、玉村屋にも火が燃え移っていた。

 そのすぐ風下の茶屋では、まとい持ちが屋根に登って、「は組」の纏を振り回している。

 江戸時代の消防は破壊消防が基本だった。現代のような消防ポンプはなく、延焼を防ぐために火事になった家屋とその風下の家屋を倒して消火するという方法だった。

 竜吐水りゅうどすいという消防ポンプはあったが火事を抑えるほどの力はなく、もっぱら纏持ちの火傷を防ぐために用いられた。

 纏持ちの纏はこの家屋まで火が来る前に、これより風上の家屋を倒せという目印だ。

 町火消「は組」の組頭、金次郎は、腕っぷしと責任感が人一倍強い男だった。

 まだ玉村屋の火が小さいことから、当初、金次郎は土手組の下人足たちに川からたらいでバケツリレーをやらせたり、竜吐水の水をかけさせたりしていた。だが次第に火が燃え上がり、それだけでは間に合わないことに気づいた。

 とび人足たちは上州屋はおろか、風下のおおかたの家屋を倒して消火している。

「お頭」鳶人足の一人が言う。「そろそろこの木賃宿、倒しましょうや」

「そうだなあ」

 すると、紺絣こんがすりの着物を着た小太りの若者が金次郎の前に来て土下座する。

「まだあの宿には、おらのおっかあがいるだ」紺絣の男が言う。「宿を倒さんでくれ」

「なんだって」金次郎が言う。「まだ人がいたのか」



「おまえは儂たちについて来るんじゃ」新之助が言う。「おまえの器量なら遊郭に高く売れるじゃろうて」

 新之助は嫌がるお菊の手を強引に引き、河原の土手の石段を登って行く。大竹がその後に従う。

 河原に置き捨てられた首なし死体の切断面から、なにやら青緑色の塊が盛り上がる。

 青緑色の塊は大きくなり、ある形を作り始める。

 徐々に青緑色の血液が引くと、塊の全貌が見えてくる。

 魔左衛門の首だった。

 太い眉。頬の刀傷。すべて魔左衛門の切られた首と同じだった。

 目を開く。

 眼光の鋭さは切られる前のもの以上だった。

 首が生え終わると、魔左衛門はやおら立ち上がり、地面に落ちていた自分の刀を拾う。

「オオォォォー」

 魔左衛門は天に向かって大声で咆哮する。それは獣の雄叫びだった。人間のものではない。

 石段を登っていた三人が魔左衛門に気づく。

 大竹が石段を駆け下りる。

「痛っ」と新之助。

 お菊が新之助の手を噛んだのだ。新之助が手を放すと、お菊は石段を駆け下り、大竹に捕まらないように河原を迂回し、魔左衛門の背後に回る。

 大竹はおもむろき刀を抜き、下段に構える。

 魔左衛門と大竹。二人の剣客の睨みあいが続く。

 意を決した大竹が疾走して魔左衛門に斬りかかる。

 相打ちだった。

 互いに互いの腹を一文字に斬り、二人とも同時に倒れる。

 ほどなくして魔左衛門が起き上がる。

 腹からまだ青緑色の血が垂れているが、ほとんど止血したようだ。

 魔左衛門の正面には体を震わせた新之助が刀を中段に構えている。

「来るな」新之助が懇願するように言う。「こっちへ来るな」

 魔左衛門は刀を八相に構える。

 するとそのとき、「オオォォォー」という雄叫びとともに、水しぶきを上げながら、川から一匹の白い大きな獣が飛び出す。

 それは三度笠をかぶった全裸の男だった。

 それはとても人間とは思えない身のこなしで、新之助に飛びかかる。

 狼のように新之助の喉元に食らいつく。

 新之助の首筋から血が噴き出す。

 新之助は口から舌を出したまま息絶え、河原に仰向けに倒れたまま動かない。

 それは口のまわりについた血をぬぐいながら、魔左衛門を睨みつける。

 魔左衛門は相手がいつ飛びかかって来てもいいように、改めて刀を構え直す。

 よく見るとそれは魔左衛門そっくりの顔をしている。

 しばし沈黙が流れる。

 それはやおら新之助の帯を解き、茶色の着物を脱がせて自分に羽織る。脱がせるとき、仰向けの死体を横転させ、背が上になったので、新之助の刺青が露わになる。

 薄暮の光を浴びた七紋龍は、宿主を失ってなお威厳を保っている。

 それはもう一度、魔左衛門を睨みつけるが、「オオォォォー」と雄叫びを挙げると、石段を駆け上がり、土手の道を走り去る。

「マーさん」お菊が近づいて言う。「あいつ、誰なの?マーさんそっくりの顔だった」

「......」

 魔左衛門にも相手が何者なのかわからない。

 首を切られたところまで覚えている。

 自分は胴体から首が生えてきた。

 目の前にいた男は首から胴体が生えてきたのだ。

 男は自分の分身だ。

 いや、男の方が本物で、今の自分が男の分身かも知れぬ。

 だがそれはどうでもいいことだった。

 旅の途中、これまでにも何度となく、自分は増殖してきたのではないか。

 首を切られる前の自分とて、分身のそのまた分身だったかも知れぬ。

「姉ちゃん」

 喜平が土手を駆け下りてくる。ずっと木陰に隠れていたのだ。

「喜平」お菊が言う。「大丈夫?」

「怖かったよう」

 喜平は泣きじゃくりながら、お菊に抱きつく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る