第6話

 お菊は太鼓橋に佇んでいた。

 上州屋は例幣使街道に面し、街道を挟んで烏川の支流が流れている。烏川は五料宿付近で利根川と合流する。

 太鼓橋は上州屋を出て街道を渡ったところにあった。

 女将から聞かされた話では、梅小路が自分を身請けしたとのことだった。

 身請けとは、旅籠に相当の金を積み、妾にするため飯盛女を買い取ることを言う。

 もともと遊郭から芸娼妓を買い取ることを指したが、旅籠の飯盛女の場合にも使う。

 あんな品のない男の妾になるくらいなら、いっそ川へ飛び込んで自害する方がまし。そう思い、太鼓橋まで来たものの、後に残される喜平のことを考えると不憫でならない。

 上州屋で働く以前にも、天保の飢饉で実家の生計が傾いてこのかた、これまで何度も辛い目に会ってきた。

 だが本気で死のうと思ったのは初めてだ。

 草鞋を脱ぎ、欄干に上ろうとすると手を掴まれる。

 梅小路だ。

「死ぬくらいなら」梅小路が言う。「麿と契らせてたも」

 お菊は我に返ると草鞋を履き、その場を去ろうとする。

 だが梅小路はまだ手を離さない。

「一回だけじゃ、契らせてたも」

「いやです」

「一回だけでごじゃる」

 お菊は梅小路を突き飛ばし、足早に上州屋に戻ろうとする。しかしそうはこの色男の問屋が卸さない。

 梅小路は走って先回りし、大の字を作って通せんぼする。

「誰か助けて」お菊が叫ぶ。「お願い。助けて」

 すると太鼓橋を渡ってきた見知らぬ男が、何を思ったか、お菊と梅小路の間に立ちはだかる。

 三度笠をかぶった長身の男だった。

「何者じゃ」梅小路が言う。「そこをどかぬか」

「......」

「邪魔するやつは斬るでごじゃる」

 梅小路は刀を抜いて三度笠の男に斬りつける。

 三度笠の男は刀を手で掴み、そのまま粘土細工のようにグニャリと捩じり曲げる。手から青緑色の血が流れる。

 梅小路は腰を抜かして後ずさる。小便を漏らしているようだ。

「助けてくれ。金ならいくらでもやる」

 梅小路は懐から小判を数枚、投げる。

 起き上がれるようになると、梅小路は例幣使街道を西へ走り去った。

「ありがとうございました」お菊が三度笠の男に頭を下げる。「怪我は大丈夫ですか?」

 三度笠の男の手から、不思議なことに刀の傷跡がスゥーと消えていく。

「是非、あなたさまのお名前を教えてくださいまし」

「......」

「どうか、お名前だけでも」

「......魔左衛門......」

 

 お菊の勧めで魔左衛門は上州屋にしばらく滞在することになった。

 魔左衛門が渡世人であることは、お菊には一目でわかった。

 梅小路が太鼓橋に落としていった小判の一枚をお菊が女将に払うと、女将は二つ返事で魔左衛門の宿泊を許した。

 お菊と喜平は次第に魔左衛門と親密になり、魔左衛門を兄のように慕うようになった。

 魔左衛門のことをお菊は「マーさん」、喜平は「マー兄ちゃん」と呼んだ。

 魔左衛門は寡黙な上、過去の記憶がほとんどない。

 だが悪い人ではない。お菊はそう思った。

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