第3話

 玉村宿は、中山道に通じた倉賀野宿から、日光例幣使街道を東へ進むと、最初に見えてくる宿場町である。

 本陣一軒、問屋場二軒、旅籠五十軒、その他、木賃宿や茶屋は数知れず。春になると上方から日光へ向かう例幣使の一行で賑わう。

 大旅籠、上州屋は玉村宿のはずれ、木戸付近にあった。

 数えで十八のお菊が上州屋に奉公に上がってから三年経つ。

 庄屋の娘で幼少の頃は何不自由なかったが、おりからの天保の飢饉で生活が苦しくなった。村では百姓一揆が相次ぎ、小作人が実家を放火して半焼したこともある。

 半分、身売りするように次女のお菊とすぐ下の弟、喜平が上州屋に出された。七人いた兄弟もばらばらになった。

 しかし、どんなに苦しくても前向きに生きる明るい性分が、村一番の器量よしにもまして、お菊の取り柄だった。

 もうすぐ麦秋の季節がやってくる。

 そう思うとお菊の胸は高鳴った。

 今時分、生まれ故郷の高崎では麦が実り、視界いっぱいに広がる村中の麦畑が、黄金色の海原になっているだろう。風が吹けば幾重にも黄金色の波ができる。

 お菊は何にもましてこの光景が好きだった。

 冬は凍てついた空っ風、「赤城おろし」で喉の弱いお菊は喘息に苛まれるが、初夏の麦畑を見るたびに、自分が上州の地に生まれついたことをありがたいと思うのだった。

「姉ちゃん」

 振り向くと額にたんこぶを作った喜平がいる。

「こんなとこ、もうたくさんだいね。おいら、今日で上州屋を出てく」

「喜平っ」お菊が喜平の額に手を当てる。「どうしたん?」

「番頭に箒で叩かれたんだいね」

「番頭さん、どうしてそんなにひどいことするん?」

 喜平は、裏庭で風呂を炊く薪の割り方をいつまでたっても覚えないから、番頭を本気で怒らせたと説明する。

「それだけで叩くん?」

「それと......夕べ厨房で刺身を盗み食いしたことがばれたんだいね」

「だったら、喜平も半分悪いやいね」

「悪いもんか。番頭だって、ときどき盗み食いしてるん......」

「でも喜平、よう考えて。ここ追い出されたら、あたしたち行くとこないんよ」

 すると女将が廊下を通りかかる。

「あんたたち」女将が言う。「何油売ってるん?。お菊、早くお客さんの膳下げな」

「申しわけありません」お菊が頭を下げる。「ただいま、まいります」


 部屋に入ると、衣冠束帯を着た男が寝そべっている。

 男の名は梅小路昌幸。日光帰りの例幣使の使者と名乗り、三日前くらいから上州屋に居ついている。

 例幣使の一行なら、かなり前に本陣を立ったはずだった。一人で旅籠屋に泊まるのはおかしい。

 別の飯盛女には前橋藩に奉公する御家人と称しているらしい。

 例幣使の使者なのか御家人なのか、そのいずれも嘘かも知れぬ。だが金回りだけはいいようで、宿代を小判で払うので上州屋の女将には気に入られていた。

 膳を下げていると、寝ころんだままの梅小路が突然、お菊の腕を握り、

「おまえ、飯盛女でごじゃろう?。いくらで買えるかの?」

「うちの飯盛女は遊女はやりません」

「今時の旅籠はどこも最初はそんなふうに断るものでごじゃる。どれ、金ならいくらでも出す。いくらでごじゃる?」

「やめてくださいまし」

 梅小路は中腰になり、執拗にお菊の体を触ってくる。

 お菊は思わず梅小路の頬を張る。下げていた膳が床に落ちる。

 梅小路は女のように声を出してヒイヒイ泣きじゃくる。

「失礼します」

 床に落ちた膳を拾うと、お菊は部屋を後にした。

 かかあ天下で知られる気丈な上州女の血が、お菊にも流れていた。

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