第三話『風と共に去りぬ』
第一五章『残されたU』
①最後の希望
「タニア……さん?」
突然の静寂に口を空け、シロは懐に目を落とす。
タニアが瞳を閉ざしていた。
頬も額も真っ赤に染まった顔は、だが
でも耳をタニアの口に寄せても、無音しか拾えない。
タニアの胸に当てた手は、上がりも下がりもせずに定位置を突き付ける。
「タニアさん……」
力の入らなくなった背中を前に倒し、シロは膝の上のタニアに顔を
口が許しもなく開き、絶叫が喉を引き裂く。胸の内を代弁する
一度は止まった涙が鼻水が溢れ出し、タニアの頬を
涙のしょっぱさを噛み締めさせる舌、
血の臭いを嗅がせる鼻、
彼女の冷たさを伝える手――。
現実を通告する全てを、今すぐにもぎ取ってしまいたい。
なぜ現世に居場所を与えられる瞬間に、命ある存在を選んでしまったのか。今からでもいい。何も感じず、考えないでいい人形に生まれ変わらせてくれ。それが無理なら、今までの記憶を綺麗さっぱり消して欲しい。
誠心誠意懇願しても、心は記憶は身体から離れない。むしろ
避難所で繰り返したヒーローごっこ、
出前先でのお小言、
夜の勉強会――。
一時間前までは、ぽかぽかと胸を温めてくれた表情たち。
たった六〇分後に見上げてみれば、手足を引き裂かれたような痛みが顔を歪ませる。掛け替えのない輝きが、逆に彼女の欠けた世界の暗さを強調していく。
だが涙を流して哀願したところで、もう二度と新しい記憶が加わることはない。心から欲した笑顔は
なぜ敵の意識を確認しなかった!?
銃の位置を把握しておかなかった!?
油断した!?
何もかも、何もかもお前のミスだ!
〈
頭の中に憎悪と軽蔑に満ちた正論が
タニアの命を奪ったギモンに、怒りが沸かないと言えば嘘になる。
事実、シロの脳内に響く罵声には、ギモンへの恨み辛みも交じっている。万が一、タニアの
だがギモンに飛ぶ怒声など、〈
めぇ……? めぇ……?
メーちゃんはタニアの顔を
「メーちゃん、タニアさんはね、もう目を開けないんだよ……」
見ていられなくなったシロは、健気なメーちゃんを抱き締め、現実を伝える。
――また白旗を
声が、聞こえた。
酷くか細く、
だが覇気がなく、今にも掻き消えそうな声は、同時に得体の知れない威圧感を放っている。彼女が一声発しただけで、頭の中に轟いていた怒号が黙り込んでしまった。
……誰? 誰かいるの?
膝の上のタニアよりずっと近くに、薄汚れた亡霊が立っていた。
第二ボタンも第三ボタンも取れたブラウスが、ベロのように裾を垂らしている。大きく開いた襟は、泥と血で薄汚れた下着を
膝丈のスカートには、腰に達する破れ。
真冬の寒さに体温を奪われた太ももが、青紫の血管を透かしている。
乾燥した上、土埃でごわついた金髪は、ビニール紐を
二本の足はきちんと備わっているが、裸のつま先は乾いた土に覆われている。もしかしたら、今、墓穴から這い出て来たばかりなのかも知れない。
シロの推論を裏付けるように、亡霊の指は茶色く汚れ、割れた爪に血と交じった土を溜めている。
――あの時もあなたは泣いてた。泣いてただけ。泣き落としに引っ掛かった運命が、お兄ちゃんの目を開けてくれるのをただ待ってた。
ひび割れ、引き裂けた亡霊の口が、嘲るように吊り上がる。途端に口角から血が滲み出し、亡霊の顎に細く線を引いた。
――指を
亡霊は
――運命を
「ちか……ら?」
亡霊の言葉を復唱し、シロは自らの両手を凝視する。
兄を見殺しにした日同様、真っ赤に染まった指が、あの時
「〈
寿命を迎えた
別の星が崩壊した際の衝撃波、重力的な
そう、きっかけさえあれば、闇に消えた輝きを甦らせられる。
そしてシロにはきっかけを作ることが出来る。
タニアと言う光が甦るきっかけを。
言うまでもなく、死は強大な相手だ。絶対にタニアを取り返せるとは言えない。だが何もしなければ、確実に彼女を奪われる。限りなく可能性が低くても、
大きく頷くと、シロはタニアの後頭部に手を当て、自らの顔へ引き寄せた。
決めた以上は、一刻も早く術を
死に対する勝率は、刻一刻と下がっていく。彼女が天文学的確率を勝ち取っていたとしても、自分がもたもたしていたら手遅れになりかねない。
判っている。
重々判っているのだ。
だが、身体が動かない。
動けない。
タニアの鼻先まで顔を近付けると、人でなしの理性が克明に描く。
その行動の果てに待ち受ける末路を。
自我を精神を奪われ、光を失った瞳。
命を取り立てられ、蝋人形のように硬直した四肢。
音を立てることのなくなった心臓。
兄と別れた日にも、嫌と言うほど見せ付けられた光景。
兄の顔の前に立ちはだかった壁。
そして血も涙もない〈
一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(一兆)分の一。
一度死に奪われた相手を、取り返すことの出来る確率だ。
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