②叶えたい願い

 天文学的低確率には、幾つか理由がある。

 代表的な理由が、前提条件の厳しさだ。

 まず術をほどこすには、亡骸なきがらに〈たましい〉が遺っていなければならない。

たましい〉とは「生きている」と言う証明だ。当然、亡骸なきがらには遺らない。肉体が死を迎えると共に、〈たましい〉もまた煙のように消え失せる。そもそも〈たましい〉を遺した亡骸なきがらを、〈詐術師さじゅつし〉は死者と定義しない。


 ――が、万に一つ以下の割合で、肉体が死んだ後も〈たましい〉が遺る場合がある。


 現象としては〈詐連されん〉発足以前から知られていたが、正確な確率や理由は明らかになっていない。

詐連されん〉の公式記録によれば、発足時から現在までの二五〇〇年間、〈たましい〉の遺った亡骸なきがらは一〇体程度しか確認されていない。確率や法則性を導き出すには、あまりに少なすぎる数だ。


たましい〉と亡骸なきがらの結び付きは、刻一刻と変化する。死んだ瞬間に消えなかったからと言って、永遠に遺り続けるわけではない。

 むしろ死んでいるのに「生きている」と訴える状況は、スピードの落ちたコマ以上に不安定だ。何も手を打たなければ、一時間以内に〈たましい〉が消えてなくなってしまうだろう。


 また通常無理とされる現象を可能とする秘術は、使用者も限られている。

 無闇に死をくつがえすことが混乱に繋がると考えた開発者は、クリスチャンとその周囲にしか術を教えなかった。その内、習得にまでこぎ着けられたのは、シロを含め四人だけだ。


 超低確率を掴み、

 亡骸に〈たましい〉を遺し、

 しかもその〈たましい〉が消える前に、

 世界中に五人しかいない使い手と巡り逢う――。

 

 死にあらがううには、最低でも以上の条件を満たす必要がある。

 ひょっとしたら、骨壷の中で目を開くほうが簡単かも知れない。


 その上、タニアの未来を変える術には、もう一つ天文学的低確率を決定付ける要因がある。


 代償。


 永遠の眠りを覚ます力は、使い手に相応の代償を求める。

 自分を実験台にし、マウスを呼び戻した開発者は、初回に右目の視力を失った。左手の触感をなくしたのは四回目。最後の一〇回目には「笑う」と言う感情を奪われた。


 平均寿命二歳の小動物を呼び戻しただけで、感情を要求されるのだ。

 天寿をまっとうするのに、一世紀近く要するヒトを呼び起こしたら? 

 使い手が死者の身代わりになることは想像にかたくない。精神だけを持って行かれ、生きた人形になる可能性も大いにある。

 経験者がいない以上、実際にどうなるかは誰にも判らない。

 運がよければ、マウスの時と同程度の被害で済むだろう。だが少なくとも術の開発者は、人間にだけは使わないようにと度々注意していた。


 代償を要求するのが何なのかは、シロは勿論もちろん、開発者にも答えられない。

 生物の不文律ふぶんりつに盾突いた使い手に、〈黄金律おうごんりつ〉がペナルティを与える――と言うのが〈荊姫いばらひめ〉の見解だが、空理くうり空論くうろんの域は出ない。何しろ計算機の〈黄金律おうごんりつ〉には、正義に報いる心はおろか、不正を戒める公平さもないのだから。


 実のところ、一兆分の一と言う低確率の根底にあるのは、〈たましい〉が亡骸なきがらに遺る難しさでも、使い手の稀少さでもない。


 最大の原因は、ヒトの心だ。


 他人の未来と引き替えに、自分の命を捧げる? 生きた人形になる? 右の頬を打たれたら、左の頬を出す聖人以外には、応じられない取り引きだ。


「っ……うぅ……」

 動かせなくなった目が焼けるようにうずきだし、口中が――そう、舌の裏側までが干上がる。つま先は水揚みずあげされた魚のように悶え、必死に逃げ場を探していた。


 ――私は絵空事の善意を待つだけだった。運命の善意を。たかが計算機の善意を。


「うぅ……くっ……」

 荒れた吸気が火の粉をあおり、狂った呼気が灰を蹴散らす。手の平を袖でくるみ、絞っても、絞っても、汗がやまない。なのに、喉は屍のように冷え切っている。


 ――あなたはどうするの?


 シロを見下ろしていた亡霊は、訊くのを躊躇ためらうように顔をそむける。

 不甲斐なく伏せた目が、何度もシロに向かい、同じ回数引き返す。やがて眉間に力を込め、自分を奮い立たせると、ついに亡霊はシロと視線を重ねた。


 ――また、私を生むの?


 心からさげすみ、それ以上に悲しみをたたえた問い掛けが、判決文のように響き渡る。瞬間、地の底に叩き付けられたような衝撃が全身を揺さ振り、シロの額から大粒の汗を落とした。


「また、あなたを……」

 半ば無意識に呟き、シロはまぶたを下ろす。鋭敏になった触覚が、冷たくなっていく血を、生前より硬くなった体躯を感じ取ると、一面の暗闇が真冬の荒野に変わった。


 星。


 星が見ていた。


 全天から目を光らせ、顔を上げられなくする星。


 吐く息が、真っ白く染まる夜だった。

 舌の上を往来する空気が、唾液を氷水のように冷たくして、歯の根をきしませる。かき氷を早食いしたような頭痛が、肺の膨らむ限り連鎖して、眉間に深いシワを刻ませた。


 土は氷だった。

 あれは氷だった。


 爪を尖らせ、ぎ取らないと掘り起こせない。一掻ひとかきごとに手の感覚が摩耗して、肌が色落ちしていく。それでも地面をこそいでいると、指をまっすぐに戻せなくなった。

 砂利が指紋を削り取り、指の先を血塗ちまみれにしていく。一つ残らず爪が割れると、土ばっかりだった視界に薄汚い金髪が紛れ込んだ。


 全身に巻かれた麻布をめくると、そこには毎朝毎朝、飽きるほど叩き起こしてきた顔。


 夢の中にしかない発明品を見せびらかし、得意そうにほころぶ唇。

 自らの偉大さに興奮し、大きく膨らんだ鼻。

 どこを見ても寝息を漏らしていた頃と一緒で、毛布代わりの麻布を引っがしたくなる。けれど一生懸命揺すっても、必死に名前を呼び続けても、兄のまぶたは開かなかった。そう、行動することを放棄した〈荊姫いばらひめ〉は、望む未来に辿り着けなかった。


 ――どうする? やめる?


「はい」も「いいえ」も言わない卑怯者に、亡霊が囁く。


 ――そうよね。私は血の繋がったお兄ちゃんにも力を使わなかった。赤の他人に手を伸ばせるはずがないわ。


「……うん、タニアさんと私は赤の他人。一緒に暮らした時間は、半年にも満たない」

 まぶたを開き、シロは大穴の空いた壁から外を眺める。

 夜明けの近い天球は、すみれ色に染まりつつあった。

 地平線に見え隠れする山吹色やまぶきいろは、麦畑のような豊かさを感じさせる。きっと今日のあかつきには、とびきりきらびやかな太陽が昇るのだろう。

 だが固く瞳を閉じているタニアに、日の出を拝むすべはない。


「でもね、その短い間に、私は両手からこぼれちゃうくらいの笑顔をもらったよ」

 大きく息を吸い込み、シロは亡霊と目を合わせた。今朝出来たばかりの酸素が身体に行き渡ると、のりを貼ったように背筋が伸びる。

「この子と出逢えたから、私は今、ここにいる。あなたと向かい合える。ううん、お利口な理屈なんか要らない。私はこの子を死なせたくない、絶対に」


 ――身代わりになっても?


 静かに威圧し、亡霊はシロの瞳を覗き込む。


 ――この子が明日の太陽を見る代わりに、あなたが太陽を見られなくなるかも知れない。ううん、明日のあなたには太陽が太陽だと判らなくなっているかも知れない。


 はっきりと口に出された現実が、シロの背中を大きく揺らす。深く高く肩が上下すると、うなじに添えた手からタニアの頭が滑り落ちた。

 首の座らなくなった頭がシロの膝に落ち、彼女のポニーテールが地面を撫でる。シロの顔とタニアの顔に距離が出来ると、今まで呼気でなびかせていた彼女のまつげが、微動だにしなくなった。

 縫い目のように並んだまつげは、彼女のまぶたと目の底をきつく結び付けている。自然に任せる限り、タニアが目を開くことは絶対にないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る