⑭DEEP BREATH

「タニアさん、本当に大きくなりましたね」

 胸元まで達していたよだれを拭い、シロはタニアを見上げる。

「あの頃はおねしょする度に泣きべそかいてたのに」

「で、デタラメだ! おねしょなんかしたことないもん!」

 裏返った絶叫が夜空を貫き、顔がかあっと熱くなる。意味もなく四肢を振り回すと、千手せんじゅ観音かんのん的な残像がタニアの視界を埋め尽くした。


 めっめっめっ……。

 噛み殺したていだが、実際は聞かせる気満々の含み笑い――。

 タニアはう~っとうなり、涙の滲む目をバイクのシートに向ける。

 ヘルメットをかぶった毛玉が、「チキチキな猛レース」のイヌみたいな顔してやがった。これ見よがしに黒い翼で覆った口は、いやらしく歯を覗かせている。


「しましたよ。私、毎日、お布団干してあげたじゃないですか」

 整然と言い返すと、シロはタニアに背を向け、バイクのハンドルに手を掛ける。大切な出前は三歩で忘れるクセに、人の汚点は脳に刻み込んでいるらしい。避難所での生活をこと細かに憶えてくれているのは嬉しいが、親戚にはいて欲しくないタイプだ。


 確かにシロの言う通り、毎夜、布団にメルカトル的な図を描いたのは間違いない。だが事実関係を認めてしまったら、一生、毛玉に嘲笑されることになる。

 霊長類の尊厳を守るためなら、多少の嘘は許されるはずだ。拳や包丁を駆使し、証言を撤回させることくらいオッケーなはずだ。


「わ、私じゃない! 他の子とカン違いしてんだ! 名誉めいよ毀損きそんだあ!」

 威圧するように声を張り上げ、タニアはシロの背中にしがみつく。


 金属質の遠吠えが響いた。


 鋭利な衝撃がタニアを突き飛ばし、強く弾かれた身体が一歩、二歩とよろめく。口一杯に鉄の味が広がると、ぬめっぽいぬるま湯が胸を濡らした。


「……え?」

 タニアはなぜか重い頭に力を込め、音が体当たりしてきたほうへ動かしてみる。

 クレーターの中央にうつぶせたギモンが、こちらに向けて腕を伸ばしていた。

 ダメージによって震える手には、巻き貝型の〈偽装ぎそう〉が握られている。弾倉役の殻もろとも砂にまみれた銃口は、薄く煙を棚引かせていた。たぶん、針状の銃弾を発射したばかりなのだろう。


「……ち、畜生、急に割り込みやがって」

 憎々しげな呟きを最後に、ギモンの顔が地面に着く。後を追うようにギモンの腕が落ちると、手の平から巻き貝が転がり落ち、砂埃に沈んだ。

「ぐぁ……ぁ……」

 喉の奥から胃液が沸騰したような圧力がり上がり、けたたましい咳がタニアの唇を打ち破る。普段とは違い、コップの水を吹き散らしたような音が鳴ると、タニアの目の前にあかい雨が降った。


 壁、床、目の前のシロ――。

 視界を形成する線がふうっとぼやけ、砂埃が晴れたはずの空に薄い闇が掛かる。意思とは無関係に膝が曲がり、顔面に地面が迫る。砂に刻印された足跡が頬擦りしてくると、口中に満ちた鉄の味にじゃりじゃりとした食感が加わった。

 感覚の揮発になった手が腰の脇に落ち、砂漠には不釣り合いな水音を鳴らす。その矢先、胸から広がる血に顎が浸かって、音の原因を教えてくれた。


「タニアさん!」

 麻痺しかけた鼓膜にかすかな痛みが走り、血の水溜まりが激しく波打つ。今のはシロの声、だろうか? 酷くぼやけていて、耳鳴りと区別が付きにくい。

「タニアさん、ねえ、タニアさん! しっかり! しっかりして!」

 霧吹きのように唾を吹き散らし、シロはタニアの頭を膝に乗せる。

 一丁前に見下ろしていたクセして、五分も経たない内に膝枕とは、我ながら情けなくなってしまう。どうやら六年前から成長したのは、図体だけだったらしい。


 自分に呆れるやら、腿の柔らかさが懐かしいやらで、不細工に顔がほころぶ。目が細くなっていくにつれて、すぐ前にいるシロがどんどん遠くなっていく。

 だらしなく開いた唇に続いて全身の筋肉が弛緩しかんし、手足の指が枝垂しだれる。シロの体温を感じなくなると共に、せ返るような血の臭いが硬質の無臭に変わっていった。成長のない主人に見切りを付け、嗅覚が身体から離れていってしまったのだろうか。


「閉じないで! 目を開けて、開けて下さい!」

 大きく腰を浮かせ、シロはタニアの胸に両手を押し付ける。たちまちあかい水滴が跳ねて、シロの額を水玉模様に変えた。

 眼球を直撃する血飛沫ちしぶきをものともせずに、シロは傷口を押さえ続ける。だが状況は変わらない。タニアの胸からは渾々こんこんと血が染み出し、シロの膝をあかい水溜まりに浸けていく。


「タニアさん、ずっと一緒にいるんでしょ……? 私と約束したじゃないですか……!」

 シロは顔中を震わせ、膝の上のタニアに訴え掛ける。

 肩を揺さ振る咳に、鼻水を吸い上げる音に細切こまぎれにされた声は、音飛おととびする〈音針おんしん〉以上に聞き取りにくい。自分自身の聴覚が失われようとしていることもあって、タニアには何を言っているのかさっぱり判らなかった。


「……もう遺されるのはやだよ」

 うめくような咳を無理矢理噛み切り、シロは大の字のタニアを抱き締めた。

 まばゆい金髪がタニアの顔を包み込み、黒くぼやけていた頭の中を照らし出す。遠い昨日に光が差し込むと、頭の中一杯に雨上がりの星空が広がった。

 胸の中に薔薇の香りが行き渡り、荒く乱れていた息を落ち着かせていく。麻痺していた手に〈荊姫いばらひめ〉さまの感触が甦ると、未明の寒さに浸食されつつあった心臓が、セピア色の温もりに染まった。


 杓子しゃくし定規じょうぎで無愛想な〈黄金律おうごんりつ〉も、たまには粋なはからいをする。


 最期に巡り逢う景色がこれなら、いちゃもんの付けようがない。

 

 す……はー、すぅ……はー……。

 口が吸うのも吐くのも忘れがちになり、まぶたがとろん、とろんと底を撫でる。程なく背中と地面の間に底の見えない穴が空き、首を座らせていた何かが落ちた。


 まぶたがシロの顔をさえぎり、暗闇――いや果てしない無が広がる。不思議と心地よい静寂に気持ちが傾くと、意識の詰め物である五感が闇の底に沈んでいった。味覚、聴覚、視覚、そして辛うじて無臭を捉えていた嗅覚も、今はもう地球の底より遠い場所にある。


 やがて最後まで残った温もりが溶けだし、温かくも冷たくもない感触に置き換えられていく。ハリボテになった意識が崩れた瞬間、無はタニアの一部に、タニアは無の一部になった。

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