⑬Double-Action
なぜ手の届く場所に〈
だがマーシャの手料理に
むしろ元貧乏人を自称する〈
また同時に〈
懸念から解放されたタニアは、鼓動の催促に従い、目の前のシロに駆け寄る。たった六回足音を響かせただけで、世界の果てよりずっと遠かったはずの懐に収まった。
「シロ! シロ!」
タニアはシロの腰を抱え込み、激しく背中を揉みしだく。海抜ゼロ㍍地帯な胸に顔を擦り付けると、硬い肋骨が頬を小突いた。このカメの腹に顔を擦り付けたような感触、間違いない。絶対に絶対に〈
避難所ではすべすべだった肌が、今日は灰とススでごわついている。甘い香りに包まれるはずの鼻も、酸っぱい汗と慣れ親しんだ厨房の臭いばかり嗅ぎ取っている。あまりにも繊細な薔薇の芳香は、先着五〇名さま限定一九八イェンのサラダ油に上書きされてしまったらしい。
真っ黒な換気扇のせいで染み付いた臭いは、クドくギトギトでデリカシーの
でも、タニアとお揃いの香りだ。
改めて〈
「た、タニアさん、ちょっと苦しい……」
ベアハッグを食らったシロは、タニアの背中をタップし、ブレイクを促す。
「……シロには私の声が聞こえるの? 今日も、六年前も、私の世界が暗くなった時には、絶対にシロが来てくれる」
本当の名前に気付いた以上、「シロ」と呼ぶのはおかしい気がする。けれど二ヶ月間、一緒の部屋で過ごしたその顔を、今さら他の名前で呼ぶ気にはならない。
「……告白する前に思い出されちゃった」
「六年前」と言う単語を聞いたシロは、小さく背中を震わせ、観念したように息を吐く。
「久しぶりって言うんですかね、こういう場合も」
「あの時もお星さまが綺麗でしたね。最初はすっごい雨でしたけど」
やっぱり、やっぱり憶えててくれた……!
歓声も上げられなくなったタニアは、ただ限界まで口を開いていく。だらしなく下顎が落ち、喉の奥をさらけ出すと、力の入らなくなった膝ががくがくと震え始めた。シロに抱き付いていなかったら、間違いなく座り込んでいただろう。
確かにシロはマーシャに、避難所での
だがタニアの記憶が正しければ、避難所の天気まで教えたことはないはずだ。大雨が町を襲ったことはともかく、途中で星空が覗いたと言う話は憶えていなければ口に出せない。
「ごめんなさい。今まで本当のこと言わないで――ううん、私、隠してた。正体を知られたら、普通に接してもらえなくなるかも知れない。マーシャさんの料理はおいしくって、アルハンブラさんとの
真面目すぎるシロは
「……私、みなさんを信じてなかったんです。マーシャさんもアルハンブラさんも、〈
人聞きが悪い? タニアには死んでも言えない。
一つ屋根の下、しかも同室で寝泊まりするのは、使用済衣装をくんかくんかするストーカー……ゴホン熱心なファンだ。本名など明かしたら、「空、きれい……」な事案が発生しかねない。今もどこかで、排水口の金髪を楽しみにしているタニア・ミューラーがいる。
「がっかりしちゃいましたよね。一生懸命頑張って近くに行こうとしてた相手が、こんな情けないヤツで」
シロはタニアの肩に手を置き、目一杯遠ざけた。
「私は誰かの目標になれるヤツじゃない。〈
「……シロは情けなくなんかないよ」
迷いなく言い切ると、タニアはシロの手を取り、自らの頬に当てた。
社交辞令? 思いやり? 一切、加工はしない。
今のタニア・ミューラーから湧き出た
「私が苦しい時には風みたいに現れて、曇り空を吹き飛ばしてくれる。今晩もお星さまに立ち向かって、私のところまで駆け付けてくれた。出逢ってから今日まで――ううん、明日からもず~っと、シロは私のヒーローだよ」
「……ヒロインですよ、私、女の子ですもん」
顎まで垂れた鼻水を
シロの肩が大きく浮き沈みし、きらきらする
「……帰ろう?」
弱々しく座り込む金髪に、ほどけかけたポニーテールが手の平を見せている――。
六年前とは逆の構図だ。
たった二〇〇〇日前まで、つま先を立てても見られなかった
随分、歩いて来たんだなあ……。
何気なく自分の手足を眺めると、やけにしみじみとした息が漏れる。バイクのミラーに映る鏡像は、たかが一一年しか生きていないクセに随分と老成した表情を浮かべていた。
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