⑬Double-Action

 なぜ手の届く場所に〈荊姫いばらひめ〉さまがいるのかは判らない。

 だがマーシャの手料理に舌鼓したつづみを打つ顔は、三つ星レストランにでも来たかのようだった。二人で使うには少し狭い六畳間や、せんべい布団に対する苦情を聞いたことは一度もない。


 むしろ元貧乏人を自称する〈荊姫いばらひめ〉さまには、宮殿やベッドより今の生活のほうが性に合っていたのかも知れない。多少は演技していたとしても、寝顔まで安らかにすることは出来ないだろう。


 また同時に〈荊姫いばらひめ〉さまは、呼び捨てにする礼儀知らずに一度として目くじらを立てなかった。言葉より先に手を出す乱暴者に、二ヶ月間も付き合ってくれた。野蛮な田舎娘に愛想を尽かすなら、たんこぶが積み上がる前に〈アルカディア〉へ帰っていたはずだ。


 きしむ階段や黄ばんだ天井は、赤絨毯やシャンデリアに匹敵する魅力を持っている。そして〈荊姫いばらひめ〉さまはとことん自分に厳しく、無礼な下々には極限まで甘い。改めて考えてみれば、今さら〈荊姫いばらひめ〉さまが遠くに行ってしまう理由はどこにもない。


 懸念から解放されたタニアは、鼓動の催促に従い、目の前のシロに駆け寄る。たった六回足音を響かせただけで、世界の果てよりずっと遠かったはずの懐に収まった。


「シロ! シロ!」

 タニアはシロの腰を抱え込み、激しく背中を揉みしだく。海抜ゼロ㍍地帯な胸に顔を擦り付けると、硬い肋骨が頬を小突いた。このカメの腹に顔を擦り付けたような感触、間違いない。絶対に絶対に〈荊姫いばらひめ〉さまだ。


 避難所ではすべすべだった肌が、今日は灰とススでごわついている。甘い香りに包まれるはずの鼻も、酸っぱい汗と慣れ親しんだ厨房の臭いばかり嗅ぎ取っている。あまりにも繊細な薔薇の芳香は、先着五〇名さま限定一九八イェンのサラダ油に上書きされてしまったらしい。


 真っ黒な換気扇のせいで染み付いた臭いは、クドくギトギトでデリカシーの欠片かけらもない。シロの肌に密着し、深く息を吸っただけで、唐揚げを食べ過ぎたように胸が焼ける。正直なところ、六年越しの再会劇に似付かわしい要素は全くない。


 でも、タニアとお揃いの香りだ。


 改めて〈荊姫いばらひめ〉さまがどこにも行かないことを保証された気がして、目の前が滲む。自然とシロの腰を挟む腕に力が入ると、鼻がぐじゅぐじゅ、口がえぐえぐ、湿った音でひそひそ話を始めた。


「た、タニアさん、ちょっと苦しい……」

 ベアハッグを食らったシロは、タニアの背中をタップし、ブレイクを促す。

「……シロには私の声が聞こえるの? 今日も、六年前も、私の世界が暗くなった時には、絶対にシロが来てくれる」

 本当の名前に気付いた以上、「シロ」と呼ぶのはおかしい気がする。けれど二ヶ月間、一緒の部屋で過ごしたその顔を、今さら他の名前で呼ぶ気にはならない。


「……告白する前に思い出されちゃった」

「六年前」と言う単語を聞いたシロは、小さく背中を震わせ、観念したように息を吐く。

「久しぶりって言うんですかね、こういう場合も」

 躊躇ためらいがちに歯を覗かせ、シロは天の川を見上げる。

「あの時もお星さまが綺麗でしたね。最初はすっごい雨でしたけど」


 やっぱり、やっぱり憶えててくれた……!


 歓声も上げられなくなったタニアは、ただ限界まで口を開いていく。だらしなく下顎が落ち、喉の奥をさらけ出すと、力の入らなくなった膝ががくがくと震え始めた。シロに抱き付いていなかったら、間違いなく座り込んでいただろう。


 確かにシロはマーシャに、避難所での顛末てんまつを聞いている。そしてまたタニア自身も、〈荊姫いばらひめ〉さまの偉大さを語る過程で、約束のことを話した。つまりシロが六年前と言う単語に反応したからと言って、ずっとタニアのことを憶えていた証拠にはならない。


 だがタニアの記憶が正しければ、避難所の天気まで教えたことはないはずだ。大雨が町を襲ったことはともかく、途中で星空が覗いたと言う話は憶えていなければ口に出せない。


「ごめんなさい。今まで本当のこと言わないで――ううん、私、隠してた。正体を知られたら、普通に接してもらえなくなるかも知れない。マーシャさんの料理はおいしくって、アルハンブラさんとの晩酌ばんしゃくは楽しかった。タニアさんはお箸を動かす暇も与えずに話し掛けてくれる。怖かったんです、みんなと一緒の席に着けなくなるのが」

 真面目すぎるシロはうつむき、声をしぼませていく。


「……私、みなさんを信じてなかったんです。マーシャさんもアルハンブラさんも、〈荊姫いばらひめ〉の名前を聞いたからって、接し方を変える人じゃないのに。タニアさんは夜な夜な、私の歯ブラシをしゃぶることくらいはしたかも知れないけど」


 人聞きが悪い? タニアには死んでも言えない。

 一つ屋根の下、しかも同室で寝泊まりするのは、使用済衣装をくんかくんかするストーカー……ゴホン熱心なファンだ。本名など明かしたら、「空、きれい……」な事案が発生しかねない。今もどこかで、排水口の金髪を楽しみにしているタニア・ミューラーがいる。


「がっかりしちゃいましたよね。一生懸命頑張って近くに行こうとしてた相手が、こんな情けないヤツで」

 シロはタニアの肩に手を置き、目一杯遠ざけた。

「私は誰かの目標になれるヤツじゃない。〈ひめ〉の中で一番弱くて、ダメダメで、ずるい。今日も自分を守るのに腐心して、タニアさんを危ない目に遭わせた。むしろ反面教師にされるべきなんです、〈荊姫いばらひめ〉は」


「……シロは情けなくなんかないよ」

 迷いなく言い切ると、タニアはシロの手を取り、自らの頬に当てた。

 社交辞令? 思いやり? 一切、加工はしない。

 今のタニア・ミューラーから湧き出た生成きなりの言葉を、口に復唱させる。


「私が苦しい時には風みたいに現れて、曇り空を吹き飛ばしてくれる。今晩もお星さまに立ち向かって、私のところまで駆け付けてくれた。出逢ってから今日まで――ううん、明日からもず~っと、シロは私のヒーローだよ」

「……ヒロインですよ、私、女の子ですもん」

 顎まで垂れた鼻水をすすり、シロは震える唇を結ぶ。途端に大粒の水玉を溜めた目尻が戦慄わななきだし、シロの膝が内側に崩れた。安産型の尻が床に落ち、地面に着いた両手を低い砂煙が包み込む。

 シロの肩が大きく浮き沈みし、きらきらするしずくが砂を濡らす。嗚咽おえつの合間に咳が挟まると、か弱く丸めた背中が突き飛ばされたように震えた。


「……帰ろう?」

 まぶたを腫らした顔をそっと覗き込み、タニアはシロに手を伸ばす。


 弱々しく座り込む金髪に、ほどけかけたポニーテールが手の平を見せている――。


 六年前とは逆の構図だ。


 たった二〇〇〇日前まで、つま先を立てても見られなかった旋毛つむじが、今は目の下にある。キングサイズと疑わなかった膝は、クッションより手狭。あの頃は海のように深かった懐も、少し腰を引いただけで抜け出せてしまった。


 随分、歩いて来たんだなあ……。

 何気なく自分の手足を眺めると、やけにしみじみとした息が漏れる。バイクのミラーに映る鏡像は、たかが一一年しか生きていないクセに随分と老成した表情を浮かべていた。

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