⑫少年よ

 金色の火の粉を掻き分け、シロはクレーターの中央を一瞥いちべつする。ヒトの姿に戻り、うつぶせるギモンを確認すると、シロはSOTOBAそとばのタイピンを最下段の「P」に下げた。


覇阿禁愚パーキング


 シロの全身を包む骸骨がコートが、遺灰のような粒子に変わり、末端から崩れ落ちていく。おどろおどろしい着ぐるみを脱ぎ捨てると、シロはタニアと視線を重ね、路傍の花を見付けたように微笑んだ。


 あの頃、メイクさんの尽力により、曇り一つなく磨き上げられていた顔は、ススと血で黒ずんでいる。カーディガンもワンピースも、ひまむらのセール品だ。オーダーメードの一点物ではない。


 でも笑顔の輝きは、避難所で出逢ったお星さまに他ならない。


 タニアは六年間、人生の半分以上に当たる時間、あの微笑みを追い掛けてきた。少しでも近付きたい一心で、机にかじり付いた。食卓に朝食が並ぶ前に、玄関から駆け出したのだ。


荊姫いばらひめ〉さまが手の届く場所に来たら、お迎えを見た園児のように飛び付く。あの頃のように〈荊姫いばらひめ〉さまを抱き締め、胸一杯に薔薇の香りを吸い込む――。


 毎日毎日、〈ひめ〉になった自分を想像する度に、タニアは固く誓っていた。

 いや、わざわざ誓う必要もない。

 何しろ〈荊姫いばらひめ〉さまの名前を聞いただけで、沸騰するタニア・ミューラーだ。可憐なお姿を一目見たなら、全自動的にブレーキを忘れるだろう。事実、脇目も振らずに猛進する自分なら、この目で見たように思い浮かべることが出来る。


 避難所の出口に引き裂かれてから六年後の今晩、タニアは悲願の時を迎えた。


 にもかかわらず、突進以外失念するはずの足は、お行儀よく踏み止まっている。おしとやかにつま先を揃えた様子と言ったら、園児は園児でもお受験の作法を叩き込まれた優等生だ。


 出来ることなら、すぐにでも〈荊姫いばらひめ〉さまの名前を呼びたい。

 でも真の名前を口走れば、自分との距離を思い出させてしまうかも知れない。

 その可能性が脳裏を過ぎると、喉で足止めを喰らう。再会の瞬間をシミュレーションしていた時は、世界中に響かせられた名前が。


荊姫いばらひめ〉さまは〈詐連されん〉の至宝だ。

 商店街はおろか地球の裏側で訊いても、その名を知らない〈詐術師さじゅつし〉はいない。

詐連されん〉の一員ではない〈砂盗さとう〉たちにしろ、シロの正体を知っていたら攻撃を仕掛けようとは思わなかったはずだ。それどころか、印籠いんろうを見たように平伏していたかも知れない。


 それに引き替え、タニア・ミューラーはさびれた定食屋の娘。〈自漕船じそうせん〉に補助オールを着けていた頃からご贔屓ひいきのマツさんに尋ねても、「看板」の冠詞さえ出て来ない。


 気軽に声を掛けるな――。


荊姫いばらひめ〉さまに言い放たれても、タニアに返す言葉はない。

 むしろ〈荊姫いばらひめ〉さまはよくこの二ヶ月間、田舎町の小娘に馴れ馴れしく話し掛けさせたものだ。タニアが〈荊姫いばらひめ〉さまだったら、頭を蹴られた時点でブタ箱に叩き込んでいた。


 身分と一緒に居場所を思い出した〈荊姫いばらひめ〉さまは、黄ばんだ天井やきしむ階段なんか捨てて、赤絨毯とシャンデリアの宮殿に帰ってしまうかも知れない。そう、タニアが一生汗を流し続けても、辿り着けるか判らない場所に。


 洗濯物を取り込む背中、

 横並びの布団、

 机の後ろで見守る眼差し――。

 この二ヶ月間、「おはよう」と「おやすみ」の間に幾らでも転がっていた景色――だが喉の奥に閉じ込めた名前を解放すれば、世界の果てより遠くなる。またテレビや写真でしか、大好きな微笑みに出逢えなくなってしまう。


 ……また「行かないで」を呑み込むのか?


 牽制するように自問すると、避難所での別れが脳裏を過ぎる。

 体育館の玄関に五歳の少女が立ち、〈荊姫いばらひめ〉さまの背中を見送っている。

 大好きな人を困らせたくない一心で踏ん張った足は、今にも走り出しそうにつま先を揺り動かしていた。無理矢理現在地に貼り付けられた靴底が、腹いせに緑のマットをこね回している。

 手を振ってすぐ背中に回した左手は、伸びようとする右手を押さえ付けている。かぎ状になった右手は右手で、隙あらば前に出ようとする左手を懸命に縛り付けていた。

 金色の髪が視界から消えても、少女は玄関から動かない。涙を流すことすら出来ない瞳は、ただひたすら背中の消えた方向を眺め続けている。


 またあの時のように、〈荊姫いばらひめ〉さまを見送る?


 恐る恐る自分に問い掛けただけで、タニアは身震いに襲われる。

 衣服はおろか肉まで剥がれたような寒さは、添い寝を失った後の避難所に他ならない。どんどん小さくなっていく背中を見届けるのは、一回だけで充分だ。


 では正体に気付いたことを黙っている?


 いや割れた皿を隠しただけで目の泳ぐ大根役者に、知らないフリを続ける器用さはない。そしてまたアケデミー賞レベルの演技力を持っていたとしても、〈荊姫いばらひめ〉さまを誤魔化すことは出来ないだろう。


 何しろ〈荊姫いばらひめ〉さまは、三〇〇年に一人しか受からない試験を突破した人だ。今宵見せ付けた腕っ節は勿論もちろん、おつむの出来もパンピーの比ではない。

 触れてもらった部分を国宝のように撫でる手付き――。

 脳天の直前で遠慮する拳骨――。

 凡人にはタチの悪い風邪にしか見えない仕草も、〈荊姫いばらひめ〉さまにとっては推理のきっかけになってしまう。半日もあれば、正体を知られたことを確信するだろう。


 何より今タニアの目の前には、一生手が届かなかったかも知れない微笑みがある。あるのだ。微笑み掛けられて以来、鼓動は胸を連打し、走れ! 走れ! と身体を急き立てている。

 小利口な分別も今には無関係な今後もかなぐり捨てて、〈荊姫いばらひめ〉さまの懐に飛び込んでしまいたい。六年間もお預けされた挙げ句、これ以上我慢しろなんて酷にもほどがある。


 声を出すべきか? それとも黙っているべきか?


 タニアが苦悩している間にも、シロは容赦なく歩み寄ってくる。結局答えの出せなかったタニアは、目の前のシロから視線を逸らした。


「ふぃ~、ちかれたび~」

 冴えない営業マンのように背中を丸め、シロはSOTOBAそとばで肩を叩く。

「『ない』ものをを実体化する〈詐術さじゅつ〉って、すっごくしんどいんです。〈黄金律おうごんりつ〉に『ある』って信じ込ませてる間中、〈発言力はつげんりょく〉を持って行かれちゃうんですよね。しかも今回は、必殺技の〈結論けつろん〉まで使っちゃったし」

 講義を終えると、シロはワンピースの裾をつまみ上げ、溜息を吐いた。

 派手に立ち回ったせいか、シロお気に入りのそれは肩口や背中がビリビリに裂けている。白かった生地は血やススで薄汚れ、まだら模様にリメイクされていた。

「やっぱドンパチなんてするもんじゃないですね。マーシャさんに買ってもらったお洋服も、ボロボロになっちゃうし。げば、まだ着られるかなあ?」


 リストラ予備軍のように肩をトントン? ひまむら安心価格一〇〇〇イェンで買い叩いたワンピを、いでまで着倒そうとする?

詐連されん〉の看板にあるまじき所帯臭さだ。

 閑古鳥の巣窟での二ヶ月間が、倹約を常態化させてしまった? いや晩餐会を渡り歩いていたはずの頃も、真っ平らなチューブから歯磨き粉をひねり出していた。


 避難所で拝見した振る舞いと、ミューラー家でさらした痴態ちたい――。


 間違い探しのつもりで、二つの記憶を照らし合わせてみる。


 穴が空くほど見比べても、名前以外の変化は見付からない。


 特別あつらえのお召しものをまとっていても、お足下は〈詐校さっこう〉指定の上履き。日曜朝八時にフーリガンっぽい声援を送り、掃除機がおなりになれば道を開ける――。


 それが、その〈ロプノール〉でもなかなか見ない小市民こそが、タニアの知る〈荊姫いばらひめ〉さまだ。地位を鼻に掛け、下々を突っぱねる高慢ちきなどどこにもいない。

荊姫いばらひめ〉さまはシロで、シロは〈荊姫いばらひめ〉さまそのものだ。

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