第一〇章『Yの悲劇』
どーでもいい知識その① 「さまよえる湖」はさまよっていない
雲の切れ端を散りばめた空は、のっぽのビル群に埋め立てられていた。
通勤ラッシュに一区切り付いた時間帯にもかかわらず、〈ホータン〉の駅前は人でごった返している。
三分も空けずに警笛が鳴り響き、超空間同士を結ぶ〈
特にユドバシカメラやヤニクロの入った駅ビルは、財布を持って行かなくても一日中楽しめる場所として人気を博している。流行曲のPVを流すオーロラビジョンは、絶好の待ち合わせスポットだ。今日もアイドルの足下に老若男女が集まり、スマホとにらめっこしている。
駅前の広場は露店の激戦区。
不動の一番人気はクレープ屋でもたこ焼き屋でもなく、意外にも色とりどりの石を並べた店だ。真剣な表情の中年男性から串刺しのハミウリを持った子供までもが、目を皿のようにして掘り出し物を探している。
〈ロプノール〉や〈ホータン〉を
北を
砂漠にもたらされた水源は農業や牧畜を可能とし、多くの都市国家を育てた。楼蘭の
「
シロ先生に教えてもらったのだが、タリム
そもそもロプ
「さまよえる」と呼ばれる
また土や岩盤の地面に比べて、砂で出来た砂漠は遥かに流水や風の影響を受けやすい。特に南北を大山脈に挟まれたタクラマカン砂漠は、強烈な山風を受ける宿命にある。
当たり前の話だが、水は高い場所から低い場所へ流れる。仮に
細やかな砂と言えども、一度水に沈んだそれが易々と風に吹き飛ばされることはない。その上、ロプ
強風に
底上げされる湖と
この後何百年、あるいは何千年掛けて北の湖には沈殿物が溜まり、南の砂漠は風に削り取られていく。高低差が逆転すると共に湖は再び南へ戻り、また長い歳月を掛けて北へ戻る。これが「さまよえる湖」のからくりだ。
遥か紀元前から一四世紀くらいまで、ユーラシア大陸の中央に位置するタクラマカン砂漠は東西交易の
とは言え、砂漠のど真ん中を横断していたわけではない。
これらに共通するのは、「大山脈の
シロ曰く隊商の規模は数十人から数百人程度で、数十匹から数百匹のラクダやロバを連れていたと言う。一日の移動距離は三〇㌔から四〇㌔ほどで、七時間から八時間の
集団で旅をしていたのは、砂漠に潜む盗賊から身を守るためだ。
人目のない砂漠で大量の荷を運搬する商人たちは、よからぬ行為を働く連中にとって格好の標的だった。また旅路となる砂漠や高峰の過酷さを考えても、助け合ったほうが得策だったのだと言う。
一般的に隊商と聞くと、東から西へ西から東へ延々と旅を続けるイメージがある。そしてそれが間違いでないことを示すように、東洋には西洋から運ばれた、西洋には東洋から運ばれた交易品が存在する。
だが博学なシロに言わせれば、一つの隊商が旅するのは言葉が通じる範囲に限られていたらしい。ある街で隊商の荷を買い取った商人が、別の街まで旅してそれを売る――と言った具合に交易品は複数の商人による「バケツリレー」を経て、東西に渡っていったそうだ。
東洋の交易品と言えば何と言っても絹、つまりシルクだろう。
その
驚くべきことに中国で絹の生産が始まったのは、紀元前三〇〇〇年頃だと言われている。紀元前二〇六年から西暦八年まで存在していた王朝・
一方、西洋では六世紀頃まで絹の生産法が判明していなかった。西洋の人々はそれがカイコの糸であることすら知らずに、樹皮から作られると勘違いしていたらしい。
独占市場かつ莫大な富をもたらす
たかが繭を作るイモムシくらい西洋にもいるだろう――と思うかも知れないが、カイコは家畜化された昆虫で、野生には棲息しない。それどころか、人間が世話をしないと死んでしまう。現に幼虫は握力が弱く、エサであるクワの葉にも掴まっていられない。
またカイコの繭を絹にするまでには、幾つかの工程をこなさなければならない。
湯や蒸気で繭を温め、柔らかくする
わざわざ難所の砂漠を越え、交易しなければならなかった理由がここにある。
仮に絹の生産法が広く知られていたら、命懸けの長旅に人々が殺到することはなかったはずだ。そしてまた西洋人が絹に熱中した背景には、入手しづらさに起因するプレミア感もあったに違いない。容易には入手出来ない代物を身に着けることで、自分自身のステータスを示す意味もあったのだろう。
この頃、西洋では中国や砂漠の人々を、「絹を生む人」と言う意味である「セレス」と呼んでいた。それだけ西洋では、「東洋」と「絹」が直結していたと言える。
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