第九章『Dが見ていた』
①病院にて
〈
意識のないアルハンブラは集中治療室に直行。道中の事情聴取でモグラに叩きのめされたことが明らかになったシロは、精密検査に向かう。一方、無傷で難を逃れたタニアとメーちゃんは、空いていた個室へ案内された。
一人と一匹を丸い椅子に座らせ、女性隊員さんは更に詳しい説明を求める。恐怖と混乱に食い荒らされた記憶をつっかえつっかえ語っていると、隣室のテレビが正午の時報を鳴らした。
一時にはメーちゃんの飼い主と会う約束をしている。
相手は物腰柔らかな女性隊員さんだ。きちんと事情を話せば、聴取を後回しにしてくれるだろう。しかし何しろ身内が大けがを負ったのだ。
タニアは女性隊員さんにお願いし、後日改めて連絡する
「ごめんね、早く飼い主さんに逢いたいよね……」
めぇ……。
謝られたメーちゃんは、迷うことなく首を振る。
そのまま膝の上に乗ると、メーちゃんはタニアの手を優しく舐めた。
程なく短針が二時を指し、話が〈
積極的な協力が解決を速めること――。
砂漠の治安が回復すれば、多少なり観光客が戻って来ること――。
数時間前の出来事を思い出すだけで、辞書を引くようにもたついてしまう今のタニアにも、それくらいの判断は付く。だが詳細な説明を求められたタニアの答えは、「そこからはよく憶えていない」だった。
〈
〈
真実を隠して解決を遠のかせたことを、〈
だがシロの消えた部屋には、絶対に
幸い――と言っては絶対にいけないが、タニア以外から真実が露見する可能性は限りなく低い。アルハンブラやオープンシップの男性はずっと気を失っていた。意識はあっても茫然自失としていた女性にしろ、シロの活躍を語れるとは思えない。現に警備船で〈ホータン〉へ向かう途中も、取り留めのない話を繰り返すばかりだった。
何かに没頭していると、時間が急ぎ足になるのだろうか。
のらりくらりと聴取に答えている内に、窓の外の太陽が地平線に顎を乗せる。薄暗い部屋に夕日が差し込み、純白のベッドを茜色に照らした。
「今日はこのくらいにしましょうか」
丁寧に一礼し、女性隊員さんが部屋を出る。入れ替わりにお医者さんが入って来て、アルハンブラの容態に付いて説明を始めた。
結論から言えば、骨や内臓には全く問題なし。今後も脳波に異常が見られなければ、数日中に退院出来ると言う。ただ足首の腫れが酷く、当分は杖が手放せないそうだ。
胸を撫で下ろすのもそこそこに、タニアはお医者さんに先導され、三階へ向かう。壁際に紫の闇を溜め始めた廊下を進み、アルハンブラの病室までやって来ると、白い扉の前にシロが立っていた。
〈ホータン〉に向かう間中、難しく床と睨み合っていた顔は、普段通りの穏やかさを取り戻している。
タニアを見付けた途端に作った微笑と、
疑う余地なく、二つの顔の持ち主は同一人物のはずだ。なのに、両者を照らし合わせてみると、本人とモンタージュを重ねたような、何とも言えない違和感がタニアを襲う。
自分が目にした光景は本当に現実だったのか?
強い日差しのせいで頭がおかしくなって、幻覚でも見たのではないか?
助けに入ることが出来なかった負い目もあってか、世迷い言としか言いようのない疑問が頭を
「今は薬で眠ってます」
お医者さんに告げられたタニアは、そ~っとドアを開き、アルハンブラの寝顔を
この目で確認したかったことを見て取った途端、タニアの口からは安堵の息が漏れていく。長ったらしい呼気が肺を空っぽにすると、重かった胸が少しだけ軽くなった。
ひとまずアルハンブラの無事を確かめたタニアは、シロに後を任せ、病院の外へ出た。
院内では禁止されている携帯を使い、自宅に連絡を入れる。最初の呼び出し音が半分も鳴らない内に、慌ただしく問い掛ける声がタニアの耳を貫いた。
「も、もしもし!? ターニャかい!?」
スピーカーから語り掛けてくるのは、三六五日聞いている声だ。
例外に漏れず、今朝も耳から言葉が溢れるほど浴びてきた。
だがありふれたその声は、砂でざらついていたはずの瞳を一瞬にして潤ませていく。
気持ちが落ち着くまで待ってから話をしてみると、しっかり者のマーシャは病院に向かう手筈を整えていた。何でも自家用船を持つ八百屋のクマさんが、〈ホータン〉まで送ってくれるらしい。ただ色々と入院に必要な準備があって、今日中には駆け付けられないと言う。
タニアやシロは
「ここで
一度電話を切ったタニアは、アルハンブラの病室まで戻り、シロに相談してみる。話を聞いたシロは、アルハンブラの担当医に事情を説明し、空き部屋のベッドを使わせてもらう許可を得た。こと出前以外に関して、本当にシロは頼りになる。
受付に預けていた荷物を引き取ったり、買い物したりしている内に夕飯の時間になったのか、空き部屋に移って間もなく、看護婦さんの靴音が廊下を往復し始める。カタカタとプラスチック製の食器を鳴らしながら、淡泊な健康食の香りが消毒液の臭いを立ち
疲れのせいかちっとも唾液の湧かない口に、コンビニで買ってきたおにぎりを詰め込み、タニアは壁掛け時計に目を向ける。
いつものように天井がヤニで黄ばんだ木目なら、絶え間なく響く笑みが〈
ただ真っ白く潔癖なだけの今日の天井は、二往復以上の会話を聞かせてもらえない。賑やかしにテレビを
マラソン大会、そして〈
「……私、言ってないよ」
「……ありがとう」
タニアの予想に反してまだ起きていたのだろうか。もどかしげに動かした足がシーツと擦れる音に、ひっそりとシロの囁きが混じった。
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