どーでもいい知識その② 完璧の「璧」は玉

 東洋でしか作れなかった時代、危険を冒さなければ手に入らない絹は、金に等しい価値を持っていた。事実、砂漠各地の市では通貨そのものの役割を果たしていたと聞く。


 それほど価値のある絹を、西洋の人々がいつまでも指をくわえて見ているはずがない。

 六世紀、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアス一世は、中国にキリスト教の修道士を送り込み、カイコの繭を盗み出させた。

 厳しい監視をかいくぐるため、修道士たちは杖に繭を隠し、当時ローマ帝国の首都だったコンスタンチノープルに持ち帰ったと言う。以来、中国の独占市場だった養蚕ようさんは、西洋でも行われるようになった。

 特にヴェネチアは絹の生産に熱心で、織物職人まで中国から呼び寄せている。絹の輸出によってもたらされた富は、市民に芸術家を援助する余裕を与え、ルネサンスをはぐくむ一助を担った。


 養蚕ようさんと同様に中国から砂漠を越えて伝わった技術には、製紙がある。逆に西方のインドからは仏教が伝来し、中国はおろか海を渡った先にある日本にまで波及していく。ネコもまたタクラマカン砂漠から中国を経由し、日本へ持ち込まれたと言う。


 シルクに対していまいちメジャーではないが、西洋にも馬とぎょくと言う交易品がある。

 当時、中央アジアで育てられた馬は、東洋のそれより優れた能力を持っていた。前漢ぜんかんの皇帝・武帝ぶていなどは、汗血馬かんけつばと呼ばれていたそれを手に入れるために遠征軍まで送っている。


 もう一つの交易品である「ぎょく」とは、宝石全般、特に翡翠ひすいを指す。

 古来より東洋の人々はぎょくに神秘的な力があると信じ、タニアたち〈詐術師さじゅつし〉にはパワーストーンの一種にしか思えないそれを珍重してきた。

 中国の人々が礼服を着た際に用いる飾りにも、権威の象徴としてぎょくが用いられている。また「完璧」や「双璧」と優れたものを形容する時に使われる「へき」には、「ぎょくで作られた器」と言う意味がある。「玉石混合」や「たまにきず」の「玉」も、ぎょくのことだ。


 ぎょくの産地は崑崙こんろん山脈さんみゃくふもとで、特にホータン産のそれは絶品と名高い。ことさら透明度の高い白石は「羊脂玉ヤン・シー・ユー」と呼ばれていて、中国ではぎょくどころか宝石の中でも最上級に位置付けられている。


 中国の西端せいたんに位置し、砂漠の入口となる街・敦煌とんこうには、「玉門関ぎょくもんかん」と言う関所がある。字面じづらから薄々判るかも知れないが、一〇〇〇㌔以上旅してきたホータンのぎょくを、ここから中国に運び入れたことがその名の由来になっている。


 知名度こそシルクに劣るぎょくだが、実のところ、その交易が始まった時期は前者よりも古いと考えられている。

 実際、神話の終焉から紀元前一〇〇〇年頃までを指す長江ちょうこう文明ぶんめいの遺跡からも、ホータンのぎょくを加工した品が発見されている。あるいは東西の交易路はぎょくの作った道で、開拓者ぶっている絹は出来合いのルートを辿っただけなのかも知れない。


 ホータンがぎょくの一大産地となった背景には、ユルンカシュがわとカラカシュがわと言う二つの河がある。

 街を潤すそれは、どちらもぎょくの産地である崑崙こんろん山脈さんみゃくの雪解けをみなもとにする流れで、ホータンには水と共に大自然のはぐくんんだ質のいい石が運ばれてくる。ユルンカシュがわ白玉河はくぎょくがわ、カラカシュがわ黒玉河こくぎょくがわと呼ばれ、一攫千金を狙う人々で賑わっている。


 かつてホータンに存在した于闐うてん王国は、紀元前から一一世紀まで一〇〇〇年以上に渡って栄え続けた。タクラマカン砂漠一帯どころか、世界でもまれに見る長命さの根底には、ぎょくの交易で得た莫大な富があったと言われている。


 一三世紀、モンゴル帝国が中国から東ヨーロッパまでを支配下に置いたことで、国家間のイザコザと無縁になった交易路は繁栄の時を迎える。だが続く一四世紀、モンゴル帝国の分裂によって、国境に邪魔されない往来は早くも幕を下ろすことになった。

 香辛料を求める西洋人が東方への航路を切り開いたこともあり、交易の舞台は陸から海へと移り変わっていった。一六世紀現在、羅針盤や航海技術の発達も影響し、干からびた砂漠の道は衰退の一途を辿っている。


「おばちゃん、駅ナカのシュークリームが好きなんだよ!」

 ぎょくの露店から駅ビルに目を移し、タニアは一階のスイーツ(笑)屋を指した。

 甘く香ばしい匂いがテンションを上げ、自然と身体が飛び跳ねる。ふわっとTシャツの裾がめくれ、半ズボンのホックと出っ張り気味のおへそを垣間見せた。


「あの中、映画館もあるんだよ……って、もう知ってるか」

 思わず苦笑し、タニアは駅ビルの入口に目を向ける。

 案内板の横に掲示されたポスターには、金髪のヤモリがへばり付いていた。キラキラとミラーボールのように輝く瞳は、ただ一心に仮面をかぶったヒーローと見つめ合っている。


「帰りに観てこっか?」

「い、いいんですか!?」

 絶叫し、シロはタニアに突進する。重低音の足音を轟かせ、土煙を引き連れた様子は、アフリカゾウの大移動としか言いようがない。

「おばちゃん、退院の手続きに時間が掛かるって言ってたし」

 精密検査の結果、異常の見付からなかったアルハンブラは、昼前にも退院出来る予定になっている。帰り道は警備船に送ってもらうことになった。三日前の事件以来、〈NIMOニモ〉はパトロールを強化しているが、顔を見られた〈砂盗さとう〉がタニアたちの口封じを目論むとも限らない。

「うおっしゃあ!」

 バリトンな歓声を響かせ、シロはアクロバティックにガッツポーズを取る。駅前と言うパフォーマンスに最適なロケーションもあってか、通行人の何人かは小銭を出そうとしていた。


 ご機嫌なのは、「花より仮面」なアラサーだけではない。

 め~♪ め~♪ め~♪

 タニアの懐に収まったメーちゃんも、浮かれたように鼻歌を口ずさんでいる。待ちに待った再会とあって、昨日の夜からずっとこの調子だ。

 メジャー調のメロディに合わせ、翼を振り上げる姿は、タニアの口から脱力した笑みを引き出していく。一方で、もうすぐこの賑やかな声が聞けなくなると思うと、少し寂しい。


「……お前ともあとちょっとでお別れだね」

 何気なく口を開くと、らしくもなく女々しい声がこぼれ落ちる。

 めっ!?

 目を伏せたタニアを見た瞬間、メーちゃんは鼻歌の音程を外し、大きく肩を震わせる。

「ごめんごめん、お前、ご主人さまと逢えるんだもんね。喜んであげなきゃダメだよね」

 感動の再会に水を差してしまったタニアは、これ以上メーちゃんが気に病まないように努めて軽く謝る。

 震えだした唇を何とか内側に折り込み、口角をくぼませる。すると駅ビルのショーウィンドーに、薄っぺらいえくぼと潤んだ瞳を同居させる顔が映った。本当は晴れた笑みで別れたいが、今はこれが限界だ。


「もう二度とご主人さまから離れちゃダメだよ」

 やんわりと言い聞かせ、タニアは手放すには惜しい毛並みを撫でる。凛々しい顔で顎を沈めると、メーちゃんは翼を使い、繰り返しタニアの手をさすった。生意気にも慰めてくれているらしい。

 鼻水をすすっている内に広場の大時計が一〇時を指し、文字盤の下の扉からブリキの鼓笛隊こてきたいが現れる。不器用な兵隊がおぼつかない手付きで太鼓を叩くと、物悲しくも郷愁を誘う旋律が駅前に響き渡っていく。


 鉄琴の音が五時を告げるチャイムと重なったのだろうか、タニアの脳裏に自宅が浮かび上がる。三日以上も離れ離れの玄関を潜ると、台所から漏れ出す湯気が胃を鳴らした。味わい深いかつおぶしの香りは、伯母自慢のお味噌汁に他ならない。

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