⑤そばかす
アルハンブラの脈を確かめた途端、シロは一文字に結んでいた唇をほどいていく。
平然と前を通り過ぎられた〈
ほんの一分前まで、シロが立っていたのはタニアの後ろだった。関節が緩んだように震える手は、今にでも指を
思考回路がどう飛躍すれば、
頭の中が疑問符で満杯で、シロの今後を危惧することさえ出来ない。それどころか無謀と呼ぶのさえ馬鹿馬鹿しい行動に、場違いな苦笑さえこみ上げてきてしまう。
「こいつぁ、可愛いヒロインちゃんのご登場だ」
間抜けに開いていた口をいやらしい笑みに作り替え、モヒカンはシロの手首を掴む。続いて乱暴にシロの腕を振り、小柄な奴を高々と吊り上げた。
「……お願いです。私の前から逃げて下さい」
宙ぶらりんになったつま先を見つめ、シロはぼそりと呟く。
痛みや恐怖で唇が麻痺したにしては、
「はぁ~?」
ピアスだらけの耳に手を当て、モヒカンは嫌みったらしく聞き返す。
「お願いするなら、『逃がして下さい』だろォ?」
鼻で笑い、モヒカンはシロを投げ捨てる。地面に腰を強打した拍子に、シロが道路を転がると、ほっかむりごと日よけの麦わら帽が宙を舞った。
砂煙に揉まれながら道路を滑っていったシロが、背中からオープンシップの側面に突っ込む。ぺこん! と流線型の船体が大きく揺れ、不安定に点滅していた船底の水面が消え去る。強烈な衝撃を受けたシロは、正座を崩すように
「……ぐっ」
「私はもう誰も死なせたくない……」
暴発寸前の激情を無理矢理
奈落を覗き込んだような悪寒がタニアを襲い、懐のメーちゃんがめぇ……と怯えた声を漏らす。必死に翼で顔を覆い、お尻を震わせる姿は、腹を空かした肉食獣が――そう、逃れられない死が目の前に現れたかのようだ。
「安心しな、お嬢ちゃん! お嬢ちゃんは誰も殺さない! 殺されるだけさ!」
あれを聞いてなぜ逃げ出さないのか、おめでたいモヒカンは高笑いし、シロの頭上に金属バットを振り下ろす。
鈍く光る凶器を構えるのは、筋肉で着膨れした大男。
無防備に脳天を
惨劇を約束する光景を前にしたタニアが選んだのは、だが目を閉じることでも悲鳴でもなく、静観だった。
身体が動かない?
違う。
既に頭の中が一杯だったから。
バラバラに食いちぎられたモヒカンで。
「……っ」
見ていられないとばかりに顔を歪め、シロはモヒカンから顔を
瞬間、豪速球がミットに収まるような炸裂音。
シロの左手が、ただ何となく上げただけの左手が、猛然と空を割っていたバットを受け止め、砂煙が
「……頼みます」
頭を肩の間に落とし、シロはキャッチしたばかりのバットを握り締める。物分かりの悪い〈
ぎぎ……ぎぎぎ……。
時速一五〇㌔の硬球にもビクともしないジュラルミンが、シロの手を
「な、ななな……」
泡を吹かんばかりに狼狽し、モヒカンは
「頼みます。手加減してもあなたたちを殺さない自信がない」
シロは切羽詰まった表情で哀願し、
低いバウンドが始まった途端、体格にも人数にも勝るはずの〈
「お、俺たちは天下の〈サンドライオン党〉だ! ガキに
「うおおおおお!」
獣のような
左からスキンヘッド、右から三段腹に飛び掛かられたシロは、トンと靴の先で地面を小突き、軽やかに後ろへ跳ぶ。小娘を捉えられたはずの場所を、
スキンヘッドが左に、三段腹が右に吹き飛び、盛大に噴き出た鼻血が弧を描く。二人の男は
「〈サンオン党〉を甘く見るんじゃねぇ!」
咆哮し、鉄パイプを叩き付けたのはヘルメットの男。
バッ! と残像を残しながらしゃがみ込んだシロは、顎が鋪装を
タニアの鼓膜に強い痺れが走り、鉄パイプからヘルメットの身体へ細かい震えが這い上がっていく。
「貸せ! 貸しやがれ!」
だらしない仲間を見かねたモヒカンが、アフロの男からスコップを引ったくる。口角から泡を、喉の奥から音程の外れた叫び声を上げ、モヒカンがシロに襲い掛かる。
ビュッ! ビュッ! と槍顔負けに空気を
目を血走らせた大男が、凶器片手に少女を追い掛ける――。
普通に考えるなら、緊迫と緊張に心臓が破裂してもおかしくない光景だ。
にもかかわらずタニアの鼓動は、作り物のテレビ番組に殺人鬼や怪物が登場した時より落ち着いている。身も乗り出さず、一滴の汗も握らない鑑賞スタイルは、B級映画どころかプロボクサーと園児のスパーでも眺めているかのようだ。
「ちょろちょろすんじゃねぇ!」
巻き舌で吠え、青筋を浮かべ、モヒカンは肩ごとスコップを突き出す。食らえば後頭部まで貫くような一撃を、引き寄せ、引き寄せ、鼻の奥、目の手前まで引き寄せ、シロは横っ飛びに避ける。速く高く砂埃が噴き上がり、途中で止めるには勢いの付きすぎたスコップが、シロの真後ろにあったオープンシップに突っ込む。
がこん! とスコップが弾かれる音が轟き、強烈に押し戻されたモヒカンがひっくり返る。受け身を取ることもなく、モヒカンの後頭部が地面に衝突し、ハト時計よろしく舌が飛び出す。
「畜生! 畜生! 〈サンオン党〉をコケにしやがって! もう容赦しねぇ!」
いいようにあしらわれ、
「殺してやる……」
ゆらっと立ち上がり、モヒカンはタンクトップの襟に手を掛けた。つい数秒前まで犬歯を
フン! と鋭く鼻息を噴き、モヒカンは一気にタンクトップを引き裂く。鍛え上げた胸板が
一体どういうつもりだ!?
腹いせにしても過激な行動に、タニアは目を見開く。刹那、大きく広がった視界に映ったのは、モヒカンの胸に刺さった金属製の
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