④Pray

「……私、もうお父さんがいなくなるのヤダよ」

 言葉にしたら現実になってしまう――。

 突発的に作り上げた迷信が、やっと開いたタニアの唇をすぼませていく。伝えたい言葉の真ん中にも辿り着けない内に、自分でも聞き取れないほど声が小さくなって、最後には唇が動くだけになった。


「そうだなあ、ターニャの言う通りだあ。隠れてれば痛い目に遭わないで済むなあ」

 グズグズと鼻水をすする音を聞いたアルハンブラは、苦笑するように表情をやわらげていく。そうして愛おしそうに目を細めると、アルハンブラはタニアの頭を撫でた。

「でもなあ、何もせんかったらしこりが残っちまうんだあ。ここにでっかい奴がなあ」

 自らの言葉を噛み締めるように目を閉じ、アルハンブラは立てた親指を背中に向ける。


「確かになあ、助けに行けば痛い目に遭う。でもなあ、それはその場だけの痛みだあ。おっちんじまわない限りはあ、時間が傷を癒してくれるさあ。けどもお、一度背負っちまったしこりはずうっと痛むんだあ。出来た時に戻りでもしない限りい、死ぬまで治らんのさあ」

 大きく頷き、アルハンブラはゆっくりと目を開いていく。

 瞬間、タニアの耳が拾ったのは、深く息を吸う音。暗い海の底から浮き上がってきたかのようなそれを目で追うと、瞠目どうもくしたシロが背中に手を当てていた。


「なぁに、こいつをぶつけてやればあ、びっくらこいて逃げ出すさあ」

 イタズラ坊主のように笑い、アルハンブラは操舵室そうだしつへ駆け込む。いでアルハンブラは助手席のメーちゃんを抱え上げ、携帯ごとタニアに預けた。

 肩慣らしとばかりにボロ船のノズルが咳払いし、散発的に小振りな白煙を吹く。強めの風に紛れ、声を殺した噴出音が鳴り、船底の水面が低く波打つ。


「さあ、行くさあ!」

 T字型の舵を握り締め、アルハンブラは一気に前へ倒れる。

 刹那、操舵手そうだしゅの前傾を検知したセンサーによって、急速に発進する船体。同時に船尾のノズルが雄叫おたけびを上げ、急速に時化しけた水面から白波が吹き上がる。入道雲のごとく圧縮空気の白煙が広がり、ボロ船と〈砂盗さとう〉の距離がぐっと詰まる。


 猛然と突っ込む船体は、たちまち〈砂盗さとう〉たちの薄ら笑いを凍り付かせた。

 ひっ! と惨めな悲鳴を合図に、女性を囲んでいた六人組がハトの群れのように飛び上がる。不格好な放物線が道路の外にダイブすると、勢いよく象牙色の砂煙が噴き上がった。パラパラと事故現場に砂粒が降り注ぎ、ヤンせんを曇らせていく。

 見事に〈砂盗さとう〉を蹴散らしたアルハンブラは、極限まで前傾させていた身体をまっすぐにし、ひとまずボロ船を停止させる。船外の様子を探るためか、アルハンブラは年々小さな文字の読みにくくなる目をフロントガラスに近付けていく。


 直後、鳴り渡ったのは雷鳴。


 いや、ガラスの粉砕音。


 間髪入れず鈍い打撃音が轟き、静止していたボロ船が突き上げられたように揺れる。


 前触れもなく耳の奥を殴打されたタニアは、反射的に目を閉じる。

 息が整うのを待ち、まぶたを上げると、ひび割れたフロントガラスに金属バットが刺さっていた。

 先ほど砂煙が上がった地点には、顔中砂だらけにしたモヒカン。確かにバットを持っていたはずだが、今は空っぽの手で槍投げのような構えを取っている。

 かち割ったのはガラスだけではなかったのか、バットの先端から血がしたたり、アルハンブラがうずくまる。血塗ちまみれの額がフロントガラスの下に沈むと、小刻みに震える手が舵から滑り落ちた。


「へへ……、これで船は動かせねぇなァ!」

 拍車はくしゃの付いたブーツを威圧的に踏み鳴らし、〈砂盗さとう〉たちが操舵室そうだしつに押し入っていく。

 骨を蹴り、肉を叩く音が連続し、ハコフグ型の船体が激しく上下する。呼応して甲板のバケツがサッカーボールのように跳ね回り、アルハンブラの現状をタニアに教えた。


 やがて派手に揺れていたドアをモヒカンが蹴破り、ブーツの先端から真っ赤な水滴が散る。めをつまむような形になったその手には、ぐったりしたアルハンブラがぶら下がっていた。

 はっ!

 鼻で笑い、モヒカンはアルハンブラをステップの下に放り投げる。公平で残忍な重力は、六年間「おはよう」を返してくれた顔を硬い鋪装にぶち当てた。

 耳を塞ぐ間もなくベニヤ板を折ったような音が鳴り響き、血染めの顔面から前歯が飛ぶ。骨と皮ばかりのはずなアルハンブラは高々とバウンドし、道路の中央にうつぶせた。


「おいおい、もうおねんねかよ! ざまぁねぇな、オッサン!」

砂盗さとう〉たちはぞろぞろと船外へ下り、獲物を取り囲んでいく。

 大の字のアルハンブラに拳が靴底が降り注ぎ、意識と言う糸の切れた手足が踊るように跳ね回る。台所で聞いたのとそっくりな音が、叩かれる肉を連想させると、扁平へんぺいに潰れたアルハンブラがタニアの脳裏に浮かび上がった。


「どうしようどうしようどうしよう……」

 タニアは無意味に頭の中身を垂れ流し、ひたすら髪を揉みしだく。

 オープンシップの男性は依然気絶中。奇跡が叩き起こしてくれたとしても、〈砂盗さとう〉に立ち向かう力が残っているとは思えない。暗く閉ざされた未来に茫然自失としているのか、女性は座り込み、うつろな目で地面を見つめている。

 傍らに視線を移せば、顔面を真っ青にしたシロが、高熱におかされたように身体を震わせている。極限の恐怖のせいか、暴行を見つめる瞳はまばたき一つしない。


 アルハンブラに駆け寄れるのは自分だけ――。


 そう、とっくに答えは出ている。


 だが、タニアは動けない。


 導き出した通りに足を踏み出そうとすると、未来の自分が頭の中を占拠する。滅多めったちにされた挙げ句、無惨に息絶え、道路に打ち捨てられた自分が。


 アルハンブラを助けると言う選択肢が頭をぎって以来、タニアの心臓は明日に恋い焦がれるように泣きわめいている。腑抜ふぬけの足はすっかり硬直し、全体重をかかとへ掛けていた。後一分ほど様子をうかがっていたら、全速力で後ずさり始めるかも知れない。

 早々に自力での解決を諦めたのか、自然と左右の手が接近し、祈るように組み合う。助けて! 助けて! と胸の中に泣き声が響くと、脳裏に〈荊姫いばらひめ〉さまの姿が浮かび上がった。


 よりにもよって、〈荊姫いばらひめ〉さまに救いを乞う?


 自分の情けなさに、タニアは呆れてしまう。


 幾ら〈荊姫いばらひめ〉さまが万能だからと言って、記憶の中から現実に駆け付けられるはずがない。尻尾を巻いたほうがよほど建設的だ。


「黙って見てりゃよかったんだよ、ヒーローさん!」

 力なく横たわるアルハンブラを冷笑し、工事用のヘルメットをかぶった〈砂盗さとう〉が鉄パイプを振り上げる。


 陥没した脳天が鮮血を噴き上げ、道路を真っ赤に染める――。


 五秒後を予見してしまったタニアは、残酷な現実を見届けられずに目を閉じる。闇が広がると同時に膝から崩れ落ち、タニアは地面にへたり込む。


 どうかおっちゃんを助けて下さい……!


 どれだけ願っても、電卓に過ぎないカミサマに祈りが届くわけもない。

 より強く手を組み合わせた矢先、ビュッ! と鈍器のフルスイングを確信させる風切り。間髪入れず、米袋を取り落としたような重低音が響く。


 ……おかしい。


 鉄パイプが頭蓋骨を砕いたにしては、硬さと言うか甲高かんだかさと言うか――そう、噛み締めた奥歯を共振させる感じがない。

 確かに骨にはカルシウムの他にも、柔軟性を与えるためのコラーゲンが含まれているとシロに教えてもらったことがある。とは言え、こんなぼてっとした音を鳴らすほど柔らかかったら、重い血肉を支えていられないはずだ。


 もしかして頭以外の場所に当たった?


 いやそもそも、今耳にしたのは鉄パイプを振り下ろした音だったのだろうか?


 違和感に背中を押されたタニアは、両手を地面に着き、目に力を込める。ぐぅ……っ! と低くいきみ、現実を確かめる恐怖にあらがい、二歩上がっては一歩下がるまぶたを開いていく。


 半目になったところで見えて来たのは、無様に尻餅を着くヘルメットの男。


 大きく開いた股の間には、見覚えのある砂嚢さのうが転がっている。

 怪我一つ負っていないところを見る限り、衝突事故に遭ったとは考えにくい。恐らく突然飛んで来た砂嚢さのうに仰天し、腰を抜かしただけだろう。


 念のため、タニアは自らの背後を確かめてみる。重みで答えを断言していた通り、腰のロープは変わらず砂嚢さのうくくり付けられていた。

 となれば、それが〈砂盗さとう〉目掛けて飛び立った場所は一つしかない。

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