④Pray
「……私、もうお父さんがいなくなるのヤダよ」
言葉にしたら現実になってしまう――。
突発的に作り上げた迷信が、やっと開いたタニアの唇を
「そうだなあ、ターニャの言う通りだあ。隠れてれば痛い目に遭わないで済むなあ」
グズグズと鼻水を
「でもなあ、何もせんかったらしこりが残っちまうんだあ。ここにでっかい奴がなあ」
自らの言葉を噛み締めるように目を閉じ、アルハンブラは立てた親指を背中に向ける。
「確かになあ、助けに行けば痛い目に遭う。でもなあ、それはその場だけの痛みだあ。おっちんじまわない限りはあ、時間が傷を癒してくれるさあ。けどもお、一度背負っちまったしこりはずうっと痛むんだあ。出来た時に戻りでもしない限りい、死ぬまで治らんのさあ」
大きく頷き、アルハンブラはゆっくりと目を開いていく。
瞬間、タニアの耳が拾ったのは、深く息を吸う音。暗い海の底から浮き上がってきたかのようなそれを目で追うと、
「なぁに、こいつをぶつけてやればあ、びっくらこいて逃げ出すさあ」
イタズラ坊主のように笑い、アルハンブラは
肩慣らしとばかりにボロ船のノズルが咳払いし、散発的に小振りな白煙を吹く。強めの風に紛れ、声を殺した噴出音が鳴り、船底の水面が低く波打つ。
「さあ、行くさあ!」
T字型の舵を握り締め、アルハンブラは一気に前へ倒れる。
刹那、
猛然と突っ込む船体は、たちまち〈
ひっ! と惨めな悲鳴を合図に、女性を囲んでいた六人組がハトの群れのように飛び上がる。不格好な放物線が道路の外にダイブすると、勢いよく象牙色の砂煙が噴き上がった。パラパラと事故現場に砂粒が降り注ぎ、ヤン
見事に〈
直後、鳴り渡ったのは雷鳴。
いや、ガラスの粉砕音。
間髪入れず鈍い打撃音が轟き、静止していたボロ船が突き上げられたように揺れる。
前触れもなく耳の奥を殴打されたタニアは、反射的に目を閉じる。
息が整うのを待ち、
先ほど砂煙が上がった地点には、顔中砂だらけにしたモヒカン。確かにバットを持っていたはずだが、今は空っぽの手で槍投げのような構えを取っている。
かち割ったのはガラスだけではなかったのか、バットの先端から血が
「へへ……、これで船は動かせねぇなァ!」
骨を蹴り、肉を叩く音が連続し、ハコフグ型の船体が激しく上下する。呼応して甲板のバケツがサッカーボールのように跳ね回り、アルハンブラの現状をタニアに教えた。
やがて派手に揺れていたドアをモヒカンが蹴破り、ブーツの先端から真っ赤な水滴が散る。
はっ!
鼻で笑い、モヒカンはアルハンブラをステップの下に放り投げる。公平で残忍な重力は、六年間「おはよう」を返してくれた顔を硬い鋪装にぶち当てた。
耳を塞ぐ間もなくベニヤ板を折ったような音が鳴り響き、血染めの顔面から前歯が飛ぶ。骨と皮ばかりのはずなアルハンブラは高々とバウンドし、道路の中央に
「おいおい、もうおねんねかよ! ざまぁねぇな、オッサン!」
〈
大の字のアルハンブラに拳が靴底が降り注ぎ、意識と言う糸の切れた手足が踊るように跳ね回る。台所で聞いたのとそっくりな音が、叩かれる肉を連想させると、
「どうしようどうしようどうしよう……」
タニアは無意味に頭の中身を垂れ流し、ひたすら髪を揉みしだく。
オープンシップの男性は依然気絶中。奇跡が叩き起こしてくれたとしても、〈
傍らに視線を移せば、顔面を真っ青にしたシロが、高熱に
アルハンブラに駆け寄れるのは自分だけ――。
そう、とっくに答えは出ている。
だが、タニアは動けない。
導き出した通りに足を踏み出そうとすると、未来の自分が頭の中を占拠する。
アルハンブラを助けると言う選択肢が頭を
早々に自力での解決を諦めたのか、自然と左右の手が接近し、祈るように組み合う。助けて! 助けて! と胸の中に泣き声が響くと、脳裏に〈
よりにもよって、〈
自分の情けなさに、タニアは呆れてしまう。
幾ら〈
「黙って見てりゃよかったんだよ、ヒーローさん!」
力なく横たわるアルハンブラを冷笑し、工事用のヘルメットを
陥没した脳天が鮮血を噴き上げ、道路を真っ赤に染める――。
五秒後を予見してしまったタニアは、残酷な現実を見届けられずに目を閉じる。闇が広がると同時に膝から崩れ落ち、タニアは地面にへたり込む。
どうかおっちゃんを助けて下さい……!
どれだけ願っても、電卓に過ぎないカミサマに祈りが届くわけもない。
より強く手を組み合わせた矢先、ビュッ! と鈍器のフルスイングを確信させる風切り。間髪入れず、米袋を取り落としたような重低音が響く。
……おかしい。
鉄パイプが頭蓋骨を砕いたにしては、硬さと言うか
確かに骨にはカルシウムの他にも、柔軟性を与えるためのコラーゲンが含まれているとシロに教えてもらったことがある。とは言え、こんなぼてっとした音を鳴らすほど柔らかかったら、重い血肉を支えていられないはずだ。
もしかして頭以外の場所に当たった?
いやそもそも、今耳にしたのは鉄パイプを振り下ろした音だったのだろうか?
違和感に背中を押されたタニアは、両手を地面に着き、目に力を込める。ぐぅ……っ! と低く
半目になったところで見えて来たのは、無様に尻餅を着くヘルメットの男。
大きく開いた股の間には、見覚えのある
怪我一つ負っていないところを見る限り、衝突事故に遭ったとは考えにくい。恐らく突然飛んで来た
念のため、タニアは自らの背後を確かめてみる。重みで答えを断言していた通り、腰のロープは変わらず
となれば、それが〈
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます