第八章『Sな戦慄』
①微笑みの爆弾
お花畑が広がっていた。
若草色の茎が、パステルカラーの花々を
サラサラと涼しげな水音を漏らしているのは、地平線の手前を流れるせせらぎ。水晶のように透き通った
清流の向こう岸は、「この世のものとは思えない」輝きに包まれていた。
川辺には頭に輪っかを乗っけたお子さんたちが集まり、盛んに手を振っている。無邪気で開放的な表情を見る限り、お玉の独裁下にあるこちら側より居心地がいいのは間違いない。
私も仲間に入れて~!
我慢出来なくなったタニアは大きく手を振り、一心不乱に川岸へ駆け寄る。
澄んだ川面に足を踏み入れた――瞬間、なぜか顔面に降り注ぐ冷たさ。
早朝の部屋にアラームが響いた時のように背中が跳ね上がり、痛みも苦しみもない楽園が遠ざかっていく。
ぼやけていた景色が晴れるにつれて、視界の中央に砂漠の太陽が浮き上がっていく。比例して
「タニアさ~ん、起きてくださ~い。おねんねにはまだはえ~ですよ~」
大の字のタニアを覗き込み、シロは
麦わら帽子の上から
一昔前の野球部員のごとく腰に縛り付けたロープは、重々しい
同じく
「ほら、ちゃっちゃと起きて。先はまだまだ長いんですよ」
シロ軍曹は平然と叱咤し、いつまでもおねんねしているタニア新兵の頬を叩く。
このままじゃ命がヤベぇ……! 確信したタニアは、残量一㌫を切った体力を振り絞り、渇いた……と言うか、ミイラ寸前の手を合わせる。
「きゅ、休憩させて……下さい」
「まだ三時間しか走ってませんよお」
現代っ子の体力のなさをディスり、軍曹殿は可愛らしく頬を膨らませる。
「さ、三時間も……だろぉ」
絞り出した途端、体力ゲージの横に点灯するエンプティマーク。ピーっと体内に心電図的な音が鳴り響き、タニアの意識を強制的にシャットダウンする。
暴虐的な陽光が遠ざかり、代わりに美しい光が広がっていく。
綺麗な川の向こう側では、頭に輪っかを乗せた一団が必死に声を張っていた。今度こそタニアを楽園に連れて行く気らしい。
「はいはい、そっちには行かない」
淡々と言い放ち、軍曹殿は新兵を
二人分の
「ほら、
タニアをボロ船に寄り掛からせ、軍曹殿は甲板の水筒を指す。
「……今は水分よりあなたの思いやりが欲しい」
急き立てられるまま水筒を取り、タニアは顔面にスポーツドリンクをぶちまけた。
「ささ! 飲み終わったら出発です!」
暑苦しく宣言し、鬼軍曹は行く手を指す。
砂に埋め尽くされ、象牙色に染まった天球の底を、乳白色の道路が貫いている。遠近法にダイエットさせられ、徐々に細くなっていくそれは、小指の幅より狭くなる距離まで延々と続いていた。
住宅地のように密集し、無数に立ち並ぶのは、
北方のクチャを中心とする
中でも〈ロプノール〉の住民にとってなじみ深いのが、ロプ湖の
数ある王国の中でも抜群に知名度の高い
ロプ湖自体は
往事の
だが西暦四四五年、
また同時期に
〈
「もう少し休ませてよぉ……」
懸命に訴え掛け、タニアはパンパンに張った腿を揉む。夏休みのチャリティ番組でよく見る光景だが、まさか実演するハメになろうとは……。
「〈
「
水筒を甲板に戻す動きを
「……私は重いんだ、きちんと膨らんでるから。体力を消耗すんだよ、まな板と違って」
「アルハンブラさ~ん、出しちゃってくださ~い」
「りょ~か~い」
地獄耳のシロに求刑された通り、
「待って! 待ってって! 失言でした! 失言でしたってば!」
タニアは助かりたい一心で
「はい、トローリー!」
熱血体育教師ばりの掛け声で、善意があるなら聞き逃せないはずの訴えを掻き消し、シロがスタートを切る。間髪入れず、ボロ船のノズルが圧縮空気を噴き出し、白煙をタニアの顔面に吹き付けた。
ウィリー気味に発進した船体が、視界の奥にすっ飛んでいく。世界中の誰が見捨てても、救いの手を差し伸べてくれると信じていた船影は、あっと言う間にタニアの前から消え去った。
ああ、未来が、未来が見えない。明日も見られると疑わなかった日の出が、今は宇宙の果て、一三七億光年先より遠い。
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