第八章『Sな戦慄』

①微笑みの爆弾

 お花畑が広がっていた。


 若草色の茎が、パステルカラーの花々を戴冠たいかんしている。鼻歌を口ずさみながら飛び回っているのは、ミツバチのようなはねを生やした妖精さん。ミルクピッチャーをげた彼等が顔の前を横切る度に、花蜜かみつの甘い香りが鼻をくすぐっていく。

 サラサラと涼しげな水音を漏らしているのは、地平線の手前を流れるせせらぎ。水晶のように透き通った水面みなもは、楽しげに泳ぐ小魚たちを覗かせている。


 清流の向こう岸は、「この世のものとは思えない」輝きに包まれていた。

 川辺には頭に輪っかを乗っけたお子さんたちが集まり、盛んに手を振っている。無邪気で開放的な表情を見る限り、お玉の独裁下にあるこちら側より居心地がいいのは間違いない。


 私も仲間に入れて~!


 我慢出来なくなったタニアは大きく手を振り、一心不乱に川岸へ駆け寄る。

 澄んだ川面に足を踏み入れた――瞬間、なぜか顔面に降り注ぐ冷たさ。

 早朝の部屋にアラームが響いた時のように背中が跳ね上がり、痛みも苦しみもない楽園が遠ざかっていく。否応いやおうなくまぶたを開くと、激烈な光がパノラマを埋め尽くした。

 ぼやけていた景色が晴れるにつれて、視界の中央に砂漠の太陽が浮き上がっていく。比例して朧気おぼろげだった触覚が甦ると、バーナーで焼かれたような熱が額に広がっていった。


「タニアさ~ん、起きてくださ~い。おねんねにはまだはえ~ですよ~」

 大の字のタニアを覗き込み、シロはからになったペットボトルを引っ込める。

 麦わら帽子の上からかぶったほっかむりに、長袖長ズボンのジャージ――無論、日差しから肌を守るための装備だが、このフルアーマーっぷりならハチの巣にも対処出来そうだ。

 一昔前の野球部員のごとく腰に縛り付けたロープは、重々しい砂嚢さのうに繋いである。家を出て以来、シロは米袋と見紛みまごうそれをずっと引きずってきた。にもかかわらず、首に巻いたタオルはほとんど湿っていない。呼吸にしろラジオ体操を終えた後より軽やかだ。


 同じく砂嚢さのうを引きずってきたタニアと言えば、サウナのオッサンに等しい有様。〈小詐校しょうさっこう〉指定の体操着も首に巻いたタオルも、忙しく汗を垂らしている。砂、太陽、汗の三重苦によってすっかり潤いをなくしたポニテは、夏休み中放置されたヘチマのようにしなびていた。


「ほら、ちゃっちゃと起きて。先はまだまだ長いんですよ」

 シロ軍曹は平然と叱咤し、いつまでもおねんねしているタニア新兵の頬を叩く。

 このままじゃ命がヤベぇ……! 確信したタニアは、残量一㌫を切った体力を振り絞り、渇いた……と言うか、ミイラ寸前の手を合わせる。

「きゅ、休憩させて……下さい」

「まだ三時間しか走ってませんよお」

 現代っ子の体力のなさをディスり、軍曹殿は可愛らしく頬を膨らませる。


「さ、三時間も……だろぉ」

 絞り出した途端、体力ゲージの横に点灯するエンプティマーク。ピーっと体内に心電図的な音が鳴り響き、タニアの意識を強制的にシャットダウンする。

 暴虐的な陽光が遠ざかり、代わりに美しい光が広がっていく。

 綺麗な川の向こう側では、頭に輪っかを乗せた一団が必死に声を張っていた。今度こそタニアを楽園に連れて行く気らしい。


「はいはい、そっちには行かない」

 淡々と言い放ち、軍曹殿は新兵をかつぎ上げた。

 二人分の砂嚢さのうごとタニアを引きずり、軍曹殿は路肩に停船中のボロ船に向かう。冷房の効いた船内では、他人事ひとごとのメーちゃんがふれーふれーと翼を振っていた。


「ほら、水分摂って。水分さえ補給しときゃオールクリアです、たぶんね」

 タニアをボロ船に寄り掛からせ、軍曹殿は甲板の水筒を指す。

「……今は水分よりあなたの思いやりが欲しい」

 急き立てられるまま水筒を取り、タニアは顔面にスポーツドリンクをぶちまけた。魔法瓶まほうびん謹製きんせいの冷たさが額に染み込み、熱暴走していた脳をクールダウンさせていく。つむじ辺りから蒸気が抜けると、ルーレットのようにグルグルしていた世界が、コーヒーにミルクを垂らした程度のグルグルになった。


「ささ! 飲み終わったら出発です!」

 暑苦しく宣言し、鬼軍曹は行く手を指す。

 砂に埋め尽くされ、象牙色に染まった天球の底を、乳白色の道路が貫いている。遠近法にダイエットさせられ、徐々に細くなっていくそれは、小指の幅より狭くなる距離まで延々と続いていた。

 住宅地のように密集し、無数に立ち並ぶのは、風食ふうしょくの生んだはげ山ヤルダン。遠目には区別が付かないが、レンガ製の寺院じいんあとも交じっているはずだ。


 北方のクチャを中心とする亀茲きじ、南方のホータン一帯を支配していた于闐うてんと、西暦が三桁だった頃のタクラマカン砂漠には、仏教を崇拝する王国が幾つも存在していた。

 中でも〈ロプノール〉の住民にとってなじみ深いのが、ロプ湖のほとりで栄えていたとされる楼蘭ろうらんだ。

 数ある王国の中でも抜群に知名度の高い楼蘭ろうらんだが、実のところ、どのように発祥したかは定かでない。中国北方の遊牧民族・匈奴きょうどの王が、かんの皇帝に送った手紙を見る限り、紀元前一七六年までに成立していたのは間違いないようだ。


 ロプ湖自体は塩湖えんこで、飲用や耕作には適さない。反面、湖に注ぐ孔雀河くじゃくがわは真水で、楼蘭ろうらんをオアシスとして繁栄させた。タクラマカン砂漠を進む隊商たいしょうは、旅の途中で楼蘭ろうらんに立ち寄り、水や食料を補給したと言う。


 往事の楼蘭ろうらんはホータン近くのニヤに栄えた精絶せいぜつや、西南のチャルチャンに存在した且末しょまつなど、複数の王国を支配するほどの勢力を誇っていた。

 だが西暦四四五年、楼蘭ろうらんは中国の王朝・北魏ほくぎの侵攻を受け、占領されてしまう。三年後には中国人の王が置かれ、独立国としての歴史は終わりを迎えた。

 また同時期に孔雀河くじゃくがわの流れが変わったことで、一体が砂漠化。オアシスとしての機能を失った楼蘭ろうらんは賑わいを失い、七世紀頃には無人になったとされる。西暦六四四年、天竺てんじくことインドから帰る途中に楼蘭ろうらんを通った玄奘げんじょう三蔵さんぞうは、「城廓じょうかくはあるが人影はない」と書き記している。


詐術師さじゅつし〉がロプに超空間の出口を作った九世紀頃は、まだ楼蘭ろうらんの痕跡が残っていたらしい。高さ一〇㍍の仏塔ぶっとう三間房さんげんぼうと呼ばれる倉庫は、子供のアスレチック場になっていたそうだ。ただ現在は、流砂や砂嵐によってほとんどの建物が埋もれてしまっている。


「もう少し休ませてよぉ……」

 懸命に訴え掛け、タニアはパンパンに張った腿を揉む。夏休みのチャリティ番組でよく見る光景だが、まさか実演するハメになろうとは……。

「〈ひめ〉の試験はこの程度じゃありませんよ。どこがゴールかさえ教えてもらえずに、延々走らされたりするんですから」

おっしゃる通り、おっしゃる通りだけど、昨日までジョギングしてたビギナーに、砂漠縦断ラリーさせないでよ。ペーパードライバーに宇宙船運転させんのと同じだよ、それ」

 水筒を甲板に戻す動きをかくみのにし、タニアはシロの胸を盗み見る。


「……私は重いんだ、きちんと膨らんでるから。体力を消耗すんだよ、まな板と違って」

「アルハンブラさ~ん、出しちゃってくださ~い」

「りょ~か~い」

 地獄耳のシロに求刑された通り、操舵室そうだしつから死刑宣告が下る。たちまちボロ船の底に嘘の水面が広がり、船体後方のノズルが小さく白煙を吹いた。砂嚢をくくり付けられた時のスルーっぷりと言い、アルハンブラは今日、かわいい姪を火葬場に送迎する気だ。


「待って! 待ってって! 失言でした! 失言でしたってば!」

 タニアは助かりたい一心でひざまずき、スタンディングスタートの構えを取ったシロにすがり付く。

「はい、トローリー!」

 熱血体育教師ばりの掛け声で、善意があるなら聞き逃せないはずの訴えを掻き消し、シロがスタートを切る。間髪入れず、ボロ船のノズルが圧縮空気を噴き出し、白煙をタニアの顔面に吹き付けた。


 ウィリー気味に発進した船体が、視界の奥にすっ飛んでいく。世界中の誰が見捨てても、救いの手を差し伸べてくれると信じていた船影は、あっと言う間にタニアの前から消え去った。

 ああ、未来が、未来が見えない。明日も見られると疑わなかった日の出が、今は宇宙の果て、一三七億光年先より遠い。

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