第二話『おくりびと』
第六章『Mに手を出すな』
①崖っぷち
「……そんなにハッスルしなくてもいいじゃねぇか」
タニアは顔の前に手を
冬は
打ち水の名残である水溜まりには、舌を垂らした鏡像が映っている。
限界まで袖を
汗でびしょ濡れの背中は、見事に乳バンドを透かしている。だが今のタニアに赤面する余裕などない。って言うか、医学的な原因で顔が真っ赤だ。
正直、オ・ト・メの
「……ヒトはどうして服なんか着るんだろう? いっそ全てをさらけ出してしまえば、争いなんかなくなるのに」
周囲は見渡す限り平屋で、マンションはおろかコンクリの建物すら珍しい。丸腰の太陽がルーペを装備した瞬間、火の海になるだろう。
延々とブロック塀が続く様子はまさに刑務所で、タニアの脳裏に「
「……どうせ一ヶ月くらいで別れんだろ」
暑苦しい落書きに顔を
充分に陽光を浴び、太く
木陰の中に表札を
風通しをよくするために開かれた玄関からは、板張りの廊下が丸見えになっている。よからぬ侵入者を牽制しているのか、靴箱の上では木彫りのクマが目を光らせていた。
僅かに
クモの巣の貼った
ヒビの入ったオールに、ガムテープで補修したペダル。T字型のハンドルや二人乗りの甲板は、汚らしく塗装が剥げている。「赤い竜巻」の愛称で呼ばれている割には、銀色の面積が多い。ナットが緩んだ前カゴには、「出前中です」の札が
〈
基本的には単純な乗り物で、甲板のペダルを漕ぎ、側面のオールを回すだけで前に進む。他方、補助オールを外すのはなかなかの難易度で、タニアは小二まで達成出来なかった。
「まぁた余計な真似してやがんな……」
タニアは〈
玄関脇から塀の内側に沿って伸びる小道を進み、桜の生えた庭に回る。何回かコケの生えた
「いい天気ですねえ~」
脳天気に呟き、ミューラー商店の非正規雇用員は湯飲みの湯気を追う。灰色の瞳一杯に青い空が映ると、奴の口から「ほえ~」っと間抜けな声が漏れた。
童顔に
「そうだねえ~」
ぼけ~っとした顔で
どっちも忘れてやがんな……!
胸の中で吐き捨て、タニアは奥歯を噛み締めた。ギリ……! っと穏やかとは言えない音が鳴り、暑さのせいで
トメさんは大目に見なければなるまい。
――が、隣のブロンド女は話が違う。
三〇前と言えば働き盛り、頭のネジもナットもきちんと締まっているのが当然だ。でなければ高齢化社会などと言う、チョモランマ登頂用の装備にも勝る重荷を背負えない。
「助かったよ、えっと……」
トメさんは口ごもり、ブロンド女の顔を指す。
「シロです……って、あれ? さっきも言ったような?」
「ベロちゃんがテレビを直してくれてねえ」
妖怪人間の子供と向き合い、トメさんは額を床に着ける。
「そ、そんな、頭を上げて下さい! アンテナ線を
うやうやしくお礼を言われたシロは、「○」、「△」、「□」と口の形を慌ただしく変えていく。激しく狼狽し、顔の前で手を振りまくる様子がアシカみたい。
「いやいや、アンタは優しい子だよ、えっと……」
「シロです」
「そうそう、ボロちゃんはねえ」
歳月と共にバイブするようになった手を顎に当てると、トメさんは感慨深げに何度も頷く。
「よかったら息子の嫁になってくれないかい? 来年で五〇だってのにまだ独り身なんだ。アンタみたいな子が嫁に来てくれたら、安心してじいさんのところに行けるよ」
シロの手をぎゅっと握り締め、トメさんは熱っぽく訴え掛ける。
動揺したシロは正座したまま飛び
「お、お嫁さん!? ダダダダメです! 男の人とお付き合いなんて早いです!」
タニアはイラッとした。正直イラッとした。アイドル声優も真っ青なカマトトぶりに。
第一、三十路間近と言えば、女子的には二時間ドラマのラストに匹敵する崖っぷちのはずだ。良縁があるなら、他者を押し
腹立たしいアラサーを見据えながら、タニアは大股で後ずさっていく。
脳内にしかないロープに背中をぶつけ、反動を付け、飛び出す。ダチョウばりの疾走からテイクオフし、縁側に蹴り込む。
「フォイアーキーック!」
必殺の掛け声と共に、雷鳴がコツを尋ねに来そうな轟音。
タニアの足に鈍く確かな
Y字の着地を決めるタニアとは裏腹、シロはきりもみ状の放物線と化し、お茶の間に殴り込む。古めかしいちゃぶ台がコイントスっぽくひっくり返ると、お茶うけのかりんとうがざっくざっくと宙を舞った。
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