第二話『おくりびと』

第六章『Mに手を出すな』

①崖っぷち

「……そんなにハッスルしなくてもいいじゃねぇか」

 タニアは顔の前に手をかざし、雲を品切れさせた夏空に吐き捨てた。

 冬は勿論もちろん、春や秋より断然肥えた太陽が、炒めるように住宅街を照らしている。陽炎をまとい、ゆらゆら揺らめく坂の上に、オアシスが見えるのは気のせいか。遥か頭上を旋回するハゲグリフォンは、暑さが獲物を仕留めるのを今か今かと待ち侘びている。


 打ち水の名残である水溜まりには、舌を垂らした鏡像が映っている。

 限界まで袖をまくったTシャツに、ケツを出さんばかりのショートパンツ――クーラーの稼働率に比例し、露出度を増していった服装もそろそろ臨界点だ。

 汗でびしょ濡れの背中は、見事に乳バンドを透かしている。だが今のタニアに赤面する余裕などない。って言うか、医学的な原因で顔が真っ赤だ。

 正直、オ・ト・メのつつしみとか男子の目とか、もうどうでもいい。世間と法が許すなら、全裸で町をり歩きたいくらいだ。


「……ヒトはどうして服なんか着るんだろう? いっそ全てをさらけ出してしまえば、争いなんかなくなるのに」

 周囲は見渡す限り平屋で、マンションはおろかコンクリの建物すら珍しい。丸腰の太陽がルーペを装備した瞬間、火の海になるだろう。

 延々とブロック塀が続く様子はまさに刑務所で、タニアの脳裏に「懲役ちょうえき」の二文字をちらつかせる。その割にポップだが、ケンジとサチコの相合い傘は。


「……どうせ一ヶ月くらいで別れんだろ」

 暑苦しい落書きに顔をしかめながら、見慣れた十字路を直進する。続いて左の路地に入ると、年老いた桜が瓦屋根を見下ろしていた。

 充分に陽光を浴び、太くたくましく育った幹には、透き通ったはねのセミがまっている。青々と葉をまとった枝が塀を乗り越え、道路に垂れた様子は、救いの手以外の何でもない。


 木陰の中に表札をかかげる平屋は、小さく風鈴のを漏らしていた。

 風通しをよくするために開かれた玄関からは、板張りの廊下が丸見えになっている。よからぬ侵入者を牽制しているのか、靴箱の上では木彫りのクマが目を光らせていた。

 僅かにふすまを開いたお茶の間は、蚊取り線香の煙を漏らしている。タニアが店の手伝いを始めたばかりの頃、出前の度に羊羹ようかんをご馳走になった場所だ。


 クモの巣の貼った軒先のきさきには、年季の入った〈自漕船じそうせん〉が停まっている。

 ヒビの入ったオールに、ガムテープで補修したペダル。T字型のハンドルや二人乗りの甲板は、汚らしく塗装が剥げている。「赤い竜巻」の愛称で呼ばれている割には、銀色の面積が多い。ナットが緩んだ前カゴには、「出前中です」の札がくくり付けられている。


自漕船じそうせん〉は〈詐術師さじゅつし〉が独自に開発した乗り物で、嘘で作った水面の上を航行する。スピードは全力で走るのと同じくらいだが、同じ仕組みの陸上船と違い、免許が要らないと言う利点がある。そのため、主婦の買い物にリヤシップの牽引けんいんにと幅広く活用されている。

 基本的には単純な乗り物で、甲板のペダルを漕ぎ、側面のオールを回すだけで前に進む。他方、補助オールを外すのはなかなかの難易度で、タニアは小二まで達成出来なかった。


「まぁた余計な真似してやがんな……」

 タニアは〈自漕船じそうせん〉を睨み付け、余所様よそさまの敷地にずかずかと踏み込んでいく。

 玄関脇から塀の内側に沿って伸びる小道を進み、桜の生えた庭に回る。何回かコケの生えた敷石しきいしを踏み付けると、縁側に正座する二つの人影が見えた。


「いい天気ですねえ~」

 脳天気に呟き、ミューラー商店の非正規雇用員は湯飲みの湯気を追う。灰色の瞳一杯に青い空が映ると、奴の口から「ほえ~」っと間抜けな声が漏れた。

 童顔に三角巾さんかくきん、桜色のエプロンと言う組合せには、「労働中」より「調理実習」と言う表現のほうがよく似合う。夏真っ盛りにもかかわらず長袖のブラウスを着ているのは、日差しに弱い肌を守るためだ。若草色のスカートもしっかりと膝を隠している。


「そうだねえ~」

 ぼけ~っとした顔でこたえるトメさんは、今にも〈言話げんわ〉の向こうの「オレ」に振り込んでしまいそうだった。

 木綿もめんの着物に割烹着かっぽうぎを着け、白髪をお団子にまとめた姿は、誰もが思い描く優しいお婆ちゃん。今日は合わない入れ歯を外しているのか、シワに囲まれた唇が小篭包しょうろんぽうの先っぽのようにすぼまっている。


 どっちも忘れてやがんな……!


 胸の中で吐き捨て、タニアは奥歯を噛み締めた。ギリ……! っと穏やかとは言えない音が鳴り、暑さのせいでしなびていた指が拳を編んでいく。


 トメさんは大目に見なければなるまい。

 よわい八〇と言えば、大事なネジが外れていても仕方のないお年頃だ。


 ――が、隣のブロンド女は話が違う。


 三〇前と言えば働き盛り、頭のネジもナットもきちんと締まっているのが当然だ。でなければ高齢化社会などと言う、チョモランマ登頂用の装備にも勝る重荷を背負えない。


「助かったよ、えっと……」

 トメさんは口ごもり、ブロンド女の顔を指す。

「シロです……って、あれ? さっきも言ったような?」

「ベロちゃんがテレビを直してくれてねえ」

 妖怪人間の子供と向き合い、トメさんは額を床に着ける。

「そ、そんな、頭を上げて下さい! アンテナ線をし直しただけですから!」

 うやうやしくお礼を言われたシロは、「○」、「△」、「□」と口の形を慌ただしく変えていく。激しく狼狽し、顔の前で手を振りまくる様子がアシカみたい。

「いやいや、アンタは優しい子だよ、えっと……」

「シロです」

「そうそう、ボロちゃんはねえ」

 歳月と共にバイブするようになった手を顎に当てると、トメさんは感慨深げに何度も頷く。


「よかったら息子の嫁になってくれないかい? 来年で五〇だってのにまだ独り身なんだ。アンタみたいな子が嫁に来てくれたら、安心してじいさんのところに行けるよ」

 シロの手をぎゅっと握り締め、トメさんは熱っぽく訴え掛ける。

 動揺したシロは正座したまま飛び退く、と言う離れわざを披露する。立て続けにシロは大きくけ反り、ブリッジ寸前までけ反り、裏返った叫び声を上げた。

「お、お嫁さん!? ダダダダメです! 男の人とお付き合いなんて早いです!」

 タニアはイラッとした。正直イラッとした。アイドル声優も真っ青なカマトトぶりに。

 第一、三十路間近と言えば、女子的には二時間ドラマのラストに匹敵する崖っぷちのはずだ。良縁があるなら、他者を押し退けてでも掴み取るべきではないか。職務放棄だけなら説教で許してやろうと思っていたが、これはもう制裁を加えるしかなさそうだ。


 腹立たしいアラサーを見据えながら、タニアは大股で後ずさっていく。

 脳内にしかないロープに背中をぶつけ、反動を付け、飛び出す。ダチョウばりの疾走からテイクオフし、縁側に蹴り込む。

「フォイアーキーック!」


 必殺の掛け声と共に、雷鳴がコツを尋ねに来そうな轟音。


 タニアの足に鈍く確かな手応ごたえが走り、顔面に直撃を受けたシロがダミー人形のように吹っ飛ぶ。置いてけぼりを食らった奴の残像は、まだ顔を赤らめてやがった。

 Y字の着地を決めるタニアとは裏腹、シロはきりもみ状の放物線と化し、お茶の間に殴り込む。古めかしいちゃぶ台がコイントスっぽくひっくり返ると、お茶うけのかりんとうがざっくざっくと宙を舞った。

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