⑨ピンクシューズ

 陸上に船を走らせ、超空間まで建造する――。

 地球の形をあばいたばかりの人間たちが友達にするには、あまりに先鋭的だ。


 事実、タニアが教科書やネットに習った限り、人間と〈詐術師さじゅつし〉の接触が幸福な結果になったことは一度もない。十中八九、悪魔だのものだのと傷付けても心の痛まないレッテルを貼られた〈詐術師さじゅつし〉が、武器を持った人間に追い掛け回される羽目になる。極東の〈マウントオーエ〉に住んでいた〈詐術師さじゅつし〉なんて、ある日突然、武器を持った五人組に殴り込まれた。


 確かに〈詐術師さじゅつし〉の技術力は、人間の一世紀以上先を行っている。

 反面、種としての総数は人間の三分の一にも満たない。

 鬼や天狗などと物々しい呼び方をされても、身体の構造自体は人間と一緒だ。斬られれば血が出るし、弾が当たれば死ぬ。武器を持たない一般の〈詐術師さじゅつし〉に人海戦術を仕掛けられたなら、「おくりびと」のバブルは免れない。


「その上、最近は〈砂盗さとう〉なんて得体の知れない連中まで出るようになっちまった。治安が悪化して、観光客の足は遠のくばかりさね」

 愚痴を吐ききり、スッキリしたのだろうか。

 苦々しげに吐き捨てた途端、マーシャは優しく息を吐く。いで愛おしそうに目を細めると、マーシャは玄関脇に視線を向けた。

 薄汚れた靴箱の三段目に、ピンクのランニングシューズが突っ込まれている。

 タニアの愛用品であるそれは、持ち主の目から見てもボロ雑巾のように見窄みすぼらしい。砂埃で黄ばんだ靴紐に、激しく磨り減った靴底。つま先の部分に定着したシワは、靴の前半分を上向きに反らせている。


「そういうお先真っ暗な中でもね、ターニャは一歩一歩〈ひめ〉さまって夢に歩み寄ろうとしてる。雨が降っても風邪を引いても、あの子は絶対にジョギングを休まない。夜中に部屋を覗くとね、お小遣いで買った参考書と睨み合ってるんだ」

 つま先からかかとまで小汚い靴を観察したマーシャは、おごそかにまぶたを下ろしていく。次の瞬間、タニアの瞳に映ったのは、今までに見たことのない真剣な顔だった。


 強い決意を代弁するかのように、マーシャの手が拳を結んでいく。一〇本の指が手の平に沈み込むと、日々鍋振りで鍛えた腕に高々と力こぶが浮かんだ。

「沸騰なんて世間様は笑うよ。そう、あの子は猪突猛進さね。でもそのまっすぐなところに私はパワーをもらってる。頑張らなきゃって思わされるんだ。だから応援してやりたい。あの子の夢が叶うように、私の出来ることは全部するつもりさ」


 嘘だ! おばちゃんは呆れてる!


 タニアの脳裏に響いた声は、明らかにエールへの感謝ではなかった。

 むしろ頭痛を誘発する金切り声は、罵倒に反論しているかのようだ。

 たちまち不快ではない衝撃が全身を駆け抜け、タニアの腰から力を奪う。咄嗟とっさに柱へ寄り掛かると、七歳、六歳と身長を示す古傷を丸まった背中が滑り落ちていく。

 やがて板張りの床に腰が落ち、尻全体にひんやりとした感触が広がる。

 それでもタニアには、自分のいる場所が夢の中にしか思えない。


 マーシャの口から応援の言葉が出る?


 今、目にしている景色が現実なら、絶対にあり得ない。あり得ないのだ。


 朝一あさいちのジョギングに出掛ける時は、洗濯物を干すのに夢中。三六五日の内、半分以上は「いってきます」に応答がない。

ひめ〉になりたいと告白した時も、食器を洗いながら生返事しただけだった。豆腐屋のチャルメラ以上に気の抜けた「へぇ~」を聞いた時は、舌を噛みそうに震えていた自分がバカに思えた。そして同時に安堵した。教室で作文を読んだ時のように嘲笑されなかったから。


 そう、伯母は〈ひめ〉、〈ひめ〉と連呼する自分に辟易へきえきとしている。こじつけに過ぎない根拠を積み上げてでも、辟易へきえきとしていることにしなければならない。

 こうしている間にも、分別や理性では手に負えない何かが、胸の奥からこみ上げてきている。応援されていることなど認めてしまったら、その瞬間、マーシャにしがみつき、わんわん声を上げてしまう。


「あの子には内緒にしておくれよ。期待してるなんて知ったら気負っちまうだろうしね。それ以上に私がターニャの顔を見られなくなっちまう。ガラじゃないんだよ、応援なんて」

 照れ臭さを隠すように大きく歯を見せ、マーシャは頬を掻く。

 シロは快く頷き、心底嬉しそうに笑う。

 そう、声援を受けたのが自分だったかのように。

「タニアさんが羨ましいです。絶対〈ひめ〉になりますよ。こんなに背中を押してくれる人がいるんです。諦めきれるはずがない」


 マーシャの応援に、シロのお墨付きに、どう反応したらいいのか?

 冷笑と否定にばかり対応してきたタニアには、答えを見出すことが出来ない。


 ただ、これだけは言える。


 もうこれ以上、嗚咽おえつを口の中に閉じ込めておく自信がない。


 這うように回れ右し、二階の部屋を見上げる。深々と闇に閉ざされていた階段は、心なし下りた時よりも先が見えやすくなっていた。知らない内に夜明けが近付いていたのかも知れない。


 出来る限り足音を殺しながら、経年劣化によって天然のウグイス張りになった階段を登っていく。きしむ音一つ立てずに部屋へ戻ると、タニアは卵でも扱うようにそうっとドアを閉めた。

 布団を頭からかぶり、間に合わせの防音室をこしらえる。目一杯鼻の穴を広げ、たっぷり息を吸う。きっとこの先、呼吸をすることが困難になるだろうから。

 限界まで肺が膨らんだのを見計らい、かんぬきのように結んでいた口を開く。途端にけたたましい泣き声が鼓膜を突き刺し、顔をうずめた枕を涙と鼻水が濡らした。

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