⑦プラチナスマイル
「タニアさんはどうしてあんなに〈
罵声にも泣き声にも聞こえる問い掛けが響き、サッシが刺々しく震える。同時にカーテンの隙間から細く差し込む月光が、唾の霧を照らし出した。
「随分と酷評するねえ。ターニャが聞いたら肋骨の一本や二本じゃ済まないよ」
マーシャの口調は冗談で、目は本気だった。
警告通り、タニアは猛然と厨房のフライパンを掴み取り、シロの後頭部をスマッシュする。両足を掴み、ズルズルと引きずり、意識不明になったシロを
――とまあ、タニアが一一年間付き合ってきた暴れ馬なら、間違いなく制裁を敢行する。事実、今までも〈
だが不可解なことに、シロの口から〈
むしろ容赦ない罵倒を聞いていると、煮えくり返るはずの心が急速に冷えていく。〈
「応援ってより崇拝だね、あれは」
呆れ果てたようにボヤき、マーシャは額を押さえる。テレビに〈
「あの子の両親が初めて買ってやった絵本が、〈
「引き取った……? タニアさんは〈ロプノール〉の生まれじゃないんですか?」
「あの子は妹の娘さ。私には一回り以上歳の離れた妹がいてね、別の町で暮らしてたんだが……知ってるだろう? 『一〇〇年の雨』って呼ばれるあの事故さ」
「……〈ダマスカス〉!?」
上擦った声を出した拍子に、シロの目が大きく
落ち着きを取り戻すためだろうか。
シロは唾で濡れた上唇を口の中に折り込み、胸に手を当てる。
深く吸い、大きく吐く内に、乱れていた呼吸が整っていく。
「気候制御装置が故障して、沢山の方が亡くなったんですよね……」
「そう、一〇〇年分の雨が一晩の内に降って、町も人も水没させちまったんだ」
マーシャはもの悲しく笑い、肌寒そうに腕を擦る。
「何とかターニャだけは避難させたんだけど、妹夫婦は、ね」
「……それでマーシャさんが?」
「かわいい姪だからね。うちの人も喜んでたよ。ああ見えて子供好きだから。まあ私に気を遣って、嬉しそうなフリをしてくれたのかも知れないけど」
気恥ずかしさがその何倍もの嬉しさが入り交じり、タニアの全身にくすぐったさを広げていく。前髪をクシャクシャに掻き回しても、やけにもぞもぞする足を曲げたり伸ばしたりしてみても、心地よく居心地の悪いむず痒さは治まらない。妙にのぼせた感じのする頭の中では、小三でお別れした伯母の布団が、おいでおいでと手招きしている。
「で、その事故の時だよ。被災地を慰問して下さったのが〈
再び表情を曇らせ、マーシャはタニアの部屋へ続く階段に目を移す。柱の
「五歳の子供がいきなり両親を亡くしたわけだろう? あの子、涙も流せずに呆然としてたらしいんだ。そうしたら〈
らしくもなく穏やかに語り、マーシャは無言でお礼を伝えるように微笑む。
「ありがとう」のあて先は、遠く離れた〈
「私の顔、涙と鼻水でグシャグシャだったのに、全身泥だらけだったのに、お洋服が汚れるのも気にしないでぎゅうっとしてくれた――そう言って、あの子、泣きながら笑ってたよ」
鼻声になってきたマーシャは、一度大きく鼻水を
「その時約束したらしいんだ、『ずっと一緒にいる』って。でもお相手は〈
「……んなさい」
ことの
「……タニアさんは怒ってないんですか、約束を破られたのに」
勇気を振り絞るように拳を握り締め、シロは恐る恐るマーシャを
「私も怒るのが自然だと思うんだけどね、あの子物分かりがいいほうじゃないし。でもターニャは言うんだ。〈
避難所を去ったのは、〈
五歳の頃より思慮を巡らせることが出来るようになった今でも、タニアの見解は変わらない。
事実、離れ離れになった後も、〈
小さな頃のタニアは人見知りで、年始くらいしか顔を合わせたことのなかった伯父夫妻に、
「ターニャが〈
湿布の欠かせない腰を叩きながら、マーシャは切なげに息を吐く。
「向こうさんはとっくに忘れちまってるだろうにねえ」
「憶えてます」
残酷な推察を掻き消したのは、迷いなく言い切る声。
自信たっぷりに背筋を伸ばしていたのは、申し訳なさげに縮まっているはずのシロだった。
「憶えてますよ、絶対に」
根拠のないこと言うな!
タニアは怒鳴り、柱の
「そう言ってもらえると、私も嬉しいさね」
満足げに頷き、マーシャはシロの背中をさする。
愛おしそうに撫でられたシロは、もう一度言い切るように深く顎を沈めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます