③ワールドプロレスリング
「す、すみません! 皿洗いでも何でもします! いいえ、させて下さい!」
無銭飲食が確定した瞬間、シロは椅子から飛び降り、コンクリの床に額を叩き付けた。
アグレッシブな土下座に面食らったのか、マーシャはしばらくまばたきを繰り返す。その後、呆れたように首を振り、大きく溜息を吐いた。
やれやれと言った感じなのに不思議と優しい吐息に、タニアは聞き覚えがある。そう、〈ロプノール〉に引っ越してきたばかりの頃の話だ。独りぼっちの布団が広すぎて伯父夫妻の寝室を尋ねると、困り顔の伯母が決まってこの音で出迎えてくれた。
「いいんだ、いいんだよ。大体、カツ丼もラーメンもシロちゃんが注文したわけじゃないだろう? 全部、私が勝手に出したんじゃないか」
穏やかに
「ほら、冷めない内に食べた食べた。腕によりを掛けた料理をお残しされるほうが、無銭飲食よりずっと
「……本当にごめんなさい」
再び土下座寸前まで頭を下げ、シロはとぼとぼ席に戻る。
「今時、随分と礼儀正しい子だねえ。どっかのじゃじゃ馬とは大違いだよ」
遠慮深いシロに割り箸を握らせながら、マーシャは感嘆の声を上げる。
当て馬にされたじゃじゃ馬は、すんでのところで怒声を飲み下す。今、テーブルや椅子を放り投げたところで、心ない大人の発言に自らお墨付きを与えるだけだ。
本当にやり返したいなら、ウィットに富んだ切り返しを披露するべきだろう。冷静で余裕溢れる態度を見せれば、伯母も自分の見る目のなさを痛感するに違いない。
「きょーいくの問題だね。保護者がきちんとしつけたんだよ、きっと」
「おんやあ? 私は世間様のルールをしっかり叩き込んだつもりだったんだけどねえ? それとも何かい? タニアちゃんはも~っと愛のある指導がご所望なのかい?」
静かな微笑みで威圧すると、マーシャは必殺のお玉で手を叩き始めた。
トン……トンと看守が警棒を
「あ! 新連載だあ!」
わざとらしく声を裏返し、タニアは看守と顔の間に月メルを挟み込む。
ガタガタと歯が鳴り、洪水状態の手汗が表紙をふやけさせていく。若さの見本だった〈
「お金のことなんかいいから、早く家族に連絡してやんな。きっと心配してるさね」
押し付けがましく訴え掛け、マーシャは出前用兼自宅用の〈
家出でもしてきたのだろうか。
「家族」と言う単語を聞いたシロは
気持ち丸まった背中がシロを
息を吸ったのか、ブイのように漂っていた青ネギが、シロの口元に近付いていく。
続いて聞こえて来たのは、観念したような深い呼気。
ふぅ……っとスープの表面が
「家族はいないんです」
やたら明るい口調で告げ、シロは元のように背筋を伸ばしていく。前髪の裏から現れたシロの目鼻は、晴れ晴れとした笑みを形作っていた。そう、非の打ち所がないほどの笑みを。
家族がいない? 独りぼっち? 曇り一つない笑顔で語る話か?
一滴の涙もない顔を眺めていると、タニアの頭の中には止めどなく怒声が響く。壁の鏡に映る顔は目を血走らせ、大事な月メルに爪を食い込ませていた。
シロに目くじらを立てるのがいちゃもんに過ぎないのは、タニアにも判っている。奴は別に、誰かの辛い体験を笑顔で語っているわけではない。自分自身が両親と死別していることを涙ながらに語ろうが、晴れやかに語ろうが、文句を言われる筋合いはない。
罵倒されると言うなら、五年以上も前の話をみっともなく引きずる自分のほうだ。あまつさえ他人に当たるなど、幼稚にもほどがある。
そう、頭では理解出来ている。
でも母親の懐で聴いた鼓動も、父親のイビキも欠けた部屋は、聞いたことがないほど静かだった。布団が一つだけになった夜は、音を捉える感覚がなくなったようだった。
耳鳴りを追い払いたい一心で、秒針の音を拾い続けても意味はない。ちょっとした
自分以外の体温が欲しくて、伯父夫妻の寝室に移っても、何となく居心地がよくない。マーシャの懐に響く鼓動は、五年間聴き続けたリズムよりアップテンポだった。耳を傾けるだけ、歯の間に食べかすが詰まったような異物感が膨らみ、夢の世界を遠ざけていく。
両親と行った最初で最後の海水浴が頭を
夏の一日は宝物のような記憶で、それ以上に思い出したくない。何を引き替えにしても戻れないし、心が引き裂けるほど願っても二度と逢えないから。
「あ、いや、悪いこと言っちまったかね……」
しどろもどろになった挙げ句、マーシャはお玉で口を覆う。不用意な発言を悔い、
「気にしないで下さい。両親が亡くなったのはまだ満足に喋れもしないような頃で、顔もよく憶えてないんです」
「
「〈アルカディア〉のほうです」
ア、〈アルカディア〉!?
他の
タニアは月メルを
指先から再生紙の感触が揮発し、少しずつニラの香りが薄れていく。反比例して、先ほどまで聴覚の網から逃れていた音が鮮明になっていった。
台所の蛇口からぴちゃぴちゃ垂れる水滴に、お冷やの氷がコップと擦れる音。そよそよと風に
「ヨーロッパの人かい。じゃあこの辺なんか田舎に見えて仕方ないだろう?」
「ヨーロッパって言っても、〈ブロッケン〉は二三区の外れも外れですから」
カーン!
脳内のゴングが鳴ると同時に床を蹴り、タニアはシロの待つテーブルに飛び掛かった。
渾身のフライングボディプレスが炸裂し、段ボールの切れ端で水平を保っているテーブルが激しく震える。四本の脚が絶叫するように
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます