④眠れる森
「ブブブブ〈ブロッケン〉に住んでたの!?」
噛み付かんばかりの剣幕で詰め寄られたシロは、カツ丼を詰めた口を半開きにしている。反射的に閉じた目は、一向に開かない。いや、目を
「住んでたの!? どうなの!? ええ!?」
押し売りまがいの口調で恫喝し、タニアはテーブルを連打する。ひき肉しか詰まっていないはずの
「ひゃ、ひゃい」
シロは怯えきった顔で答え、配膳用のトレーを盾のように構える。
「じゃあ! じゃあ! じゃあ!」
鼻息を荒くしたタニアが迫るほど、圧倒されたシロが
「こ、これ、この人! この人知ってる!? ちょいと、ご
早口で
油絵のようなタッチで描かれているのは、
一〇〇年の夜に閉ざされた空は漆黒に染まり、鉛色の闇が地上を覆っている。何重にも
イラストの中央を飾るのは、眠りの呪いを受け、
純白のドレスには、大輪の花を模したフリルが惜しげもなくあしらわれている。プラチナに真紅の宝石を
ガラス細工のように
瑞々しく桜色を滲ませる唇は、さしずめ朝露を浴びた
新雪に足を踏み入れるような背徳感を押し殺し、タニアはポスターに触れてみる。ご尊顔に指を乗せた瞬間、凛とした冷たさが手の先端から背筋へと這い上がっていく。真冬の清流に手を差し入れたようなこの感触――たかがインクと光沢紙の合作とは到底思えない。
「ほえ~、きれいな人ですねえ~」
ボケた老人のように口を空け、シロは小学生レベルの感想を漏らす。
世界一の美術品を拝見させてやったのに、それだけか!?
近年稀に見る間抜けヅラが、神秘的な古城にいたタニアをカビ臭い現実に引き戻していく。脱力感が沈黙を生み出すと、ぷーぴー、ぷーぴーとチープなラッパが店内に響き渡った。〈リヤシップ〉を引いたお豆腐屋さんが、近くに来ているらしい。
「と、とにかくね! この人はすっごいんだよ! きれいなだけじゃないんだから!」
無理矢理に声を弾ませ、タニアは自分を鼓舞する。何としてでもこの
あの人のポスターを何度も何度も見返すと、洗面器を持つ人々の足音が小さくなっていく。代わりに荒々しい鼓動が耳の中を占拠し、鎮火されつつあった情熱の炎がよろよろと火の手を伸ばした。
「よし! 今日は特別に、私がこの人の偉大さをレクチャーしてやる!」
一方的に宣言すると、タニアは
「はぁ、まったく……」
ヘルメット姿のシロを見たマーシャは、肩を落としながらタニアに歩み寄る。続いてパーカーのフードを吊り上げ、タニアをシロから引き剥がした。
フードを引っ張り上げられたせいで、前襟がタニアの喉に食い込む。ぐぇっ! と自分でも意図しない声が漏れ、首吊り死体のように空いた口から舌が飛び出す。
「お前はこの人のことになると、すぐ沸騰するんだから」
渋い表情でボヤき、マーシャはタニアをカウンターに送還していく。あまつさえ宙ぶらりんのタニアを振りかぶり、元々座っていた椅子に投げ捨てた。
演説会を妨害されたタニアは、当然のごとく頬を膨らませ、抗議の意を表明する――が、即座に頬の息を排出し、渾身のスマイルを作る。お玉、お玉だ。マーシャはお玉と言う鈍器で、壁を試し打ちしている。一刻も早く文句がないことを伝えないと、尾てい骨を砕かれてしまう。
「この人はね、〈
タニアは一度口を閉じ、教育的指導が入らないレベルまで息を整える。
非人道的兵器(お玉)の脅威が間近に迫っても、やっぱりダメだ。あの人の話題になると、喋るだけで自然と声に力が入ってしまう。
「〈
ご飯に虫でも混入していたのだろうか。
タニアの発言を繰り返した途端、シロは目を見開き、カツ丼を凝視する。完璧に静止した顔とは裏腹、割り箸を持つ手は滅茶苦茶震えていた。
「〈
「へ、へえ~、一五で〈
あまりの偉業に
「ねえ、シロは誰
「
「あんな年増!」
ばっさり切り捨て、タニアは腰に手を当てる。
鏡に映る得意げなポーズは、タニア自身が見ても若干暑苦しい。
「ほら、男子には〈
評論を終えると、タニアは月メルをパラパラし、「真珠の涙」の表紙を出す。
マーメイドラインのドレスを
曇りのない銀髪に、サファイアのような瞳――蒼白の月光に照らされた横顔は、実に精彩だ。厳粛ささえ感じる神秘性は、人間が描くと言う宗教画に他ならない。
「でもアイツ、絶対キャラ作ってんぜ。気弱な女子とかこの地球上に存在しねぇもん。裏じゃスタッフさんとかアゴで使ってんぜ。裏アカは放送に
「……ま、まあはずれてませんね。寝起きとか前科持ちみたいな目してるし」
辛い体験でも思い出したのか、シロは重い影を背負う。しきりに腰をさする姿は、強烈なキックでも浴びたかのようだ。
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