②西遊記
「呆れた。倒れるはずだよ、それじゃあ」
マーシャはオーバーに嘆きながら、フライパンをシンクの水に浸ける。
「おかしいなとは思ってたんです。時々、砂漠の中にお花畑が現れるし」
「夜はどうしたんだい? 冷えただろうに」
心配でじっとしていられないマーシャは、質問しながら身を乗り出す。鍛えた二の腕にのし掛かられたカウンターが、ぎちぃっと朽ちた吊り橋のように
「新聞紙とか段ボールとか落ちてたので、それを。身体に巻くと結構暖かいんですよ」
少女は後ろを向き、スチール製のゴミ箱を指す。
半分開いたフタからは、先程まで身に着けていたゴミ袋がはみ出ていた。
「あれも砂漠で拾ったんですよ」
「本当に
感心する以上に呆れてしまったのか、マーシャは深く溜息を吐く。
四六時中暑そうなイメージに反し、夜の砂漠は非常に冷え込む。〈ロプノール〉周辺では、平均して一五度ほども日中より寒くなる。特に凄まじいのが一〇月だ。日中は二〇度以上にもなるが、夜間には一度前後まで気温が下がってしまう。
余談だが、寒暖差の激しさに付いては、夏と冬にも同じことが言える。
世間一般的なイメージ通り、七月や八月は余裕で三〇度を超える。にもかかわらず、真冬には最高気温が零度を切ってしまう。他方、砂だらけの見た目通り空気は乾いていて、蒸し暑さはない。日陰にいれば、真夏でも快適に過ごすことが出来る。
とは言え、砂漠の暑さを甘く見るのは危険だ。
特に〈ロプノール〉北方の〈トルファン〉一帯では、真夏を迎えると共に最高気温が四〇度前後にまで上昇する。無策で立っていれば、熱中症に
真夏、〈トルファン〉の東にある
「にしても、そうほいほい段ボールやら新聞紙やらが落ちてるのは問題さね。つい一週間前、町会のみんなで掃除したばっかだってのに」
「都会の奴らには
「またこの子はそんな言い方をして」
タニアを
「事実じゃん。
「口が悪くて済まないねえ。本当はいい子なんだよ。ただ最近、反抗期気味でねえ」
タニアの斜に構えた発言を謝罪し、マーシャは少女に頭を下げる。少女はチャーハンの皿にレンゲを置き、気にしてないとばかりに微笑みを浮かべた。
「判ります。あのくらいの年頃の女の子って、ワニガメさんなんですよね。私も社会的成功者とか、若くて才能のある人とか、目に付くもの全てに噛み付いてたっけ。地元じゃ『
申し合わせたようにマーシャと少女の視線が重なり、二つの顎がしきりに上下する。過剰に優しく、鬱陶しいほど包容力溢れる表情は、生まれたばかりの仔鹿が立ち上がるのを見守っているかのようだ。
「理解ある大人ぶるな! そこの二人!」
居心地の悪さが極限に達したタニアは、遠足で見たキマイラを意識し、がおーっ! と吠える。だが猛獣に威嚇されたはずの二人組は、口元を覆い、くすぐったい笑みを漏らすばかり。一も二もなく悲鳴を上げ、檻の前から走り去った誰かとは大違いだ。
なぜ変に皮肉っぽい態度を取った?
同年代の少女の前で大人ぶりたかったのか?
罵倒とも後悔とも取れる声が頭の中を飛び交い、顔がかあっとなっていく。あともう少し膝の力を抜いたら、部屋に駆け込み、布団に顔を
「も、もういいもん! 勝手にすれば!」
憶えてろ! 的な口調で宣言し、タニアは二人に背を向ける。敗走と呼ぶにはごくごく短い距離を駆け抜けると、タニアはカウンターの椅子に腰を下ろした。
真っ赤な顔を隠す意味を込め、何やかんやでお預けを食らっていた月メルを広げる。すると巻頭カラーの〈
どこかの小汚い行き倒れに、段ボールハウス的なイメージを刷り込まれていないだろうか?
ふと不安に駆られたタニアは、月メルに顔を寄せてみる。
幸い
「で、アンタは……えっと、名前は何て言うんだい?」
「あ、私はハイ……」
一体、何があったのだろう?
ハキハキとしたお返事が唐突に途切れ、少女の視線が一瞬、月メルに流れる。同時に少女の肩が小さく跳ね、親の仇のように握っていた箸が手の平から滑り落ちた。
詰まっていた米粒でも呑んだのか、少女の喉がゴクリと波打つ。少し遅れて、間抜けに開いたままだった口が、腹話術の人形のようにパクっと閉じた。
「はい、そーです! クロ……いいえ、シロ! そう、私はシロって言います!」
大きな声で――そう、鼓膜に押し付けるように名乗り、少女はけたたましく手を叩く。自己啓発セミナー臭のするキラキラした笑顔が、完璧過ぎて逆に胡散臭い。
「……シロ?」
自分に尋ねるように呟き、タニアは眉を寄せる。どこかで聞き覚えがあると思えば、マツさんが二年前まで飼っていた雑種ケルベロスの名前だ。
「シロちゃんは何でまたこんな
「あ、いえ、私はただ砂漠を通り抜けようとしただけなんです」
答えながらレンゲを取り、シロはラーメンのスープを
鰹節と鶏ガラをベースにした昔ながらの味は、町工場の皆さんにも大好評だ。ランチタイムには作業服と言う作業服が背中を丸め、ふぅふぅやっている。
タニアはつくづく思う。
たった四五〇イェンで
「何も好き好んで砂漠を通らなくてもいいだろうに。少し大きな街に行けば、〈
「その、お金があんまり……」
気まずそうに懐具合を明かした途端、シロの表情が固まる。温かくはなさそうな汗がシロの頬を
「お金、ないんだった」
シロは呆然と呟き、テーブルを埋め尽くす大量の料理を見回していく。小刻みに震え始めた手は、少しずつスカートのポケットに忍び込んでいった。
おずおずとポケットから出て来た拳が、テーブルの上で広がる。
チャリン、チャリンと転がり落ちたのは、数枚の硬貨だった。
銅製の一〇イェン玉が三枚、
中央に穴の空いた五イェン玉が一枚――。
計三五イェン。
ラーメン代を払うどころか、週間少年ジャンピオンも買えない。
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