第二章『Iが止まらない』

①サバイバルゲーム

 ミューラー商店は、〈ロプノール〉三丁目商店街の外れにある。

 二階建ての店舗は、ベニヤ板でやぐらを組んだようなあばら屋。少し強めの風が吹く度に、トタン貼りの外壁をガタガタ震わせる。目の前の道路を大型の船が通った時には、部屋中の物体がポルターガイストのように跳ね回った。

 二〇年以上も砂塵にさらされてきた看板は、げた挙げ句に銀色の下地を覗かせている。もはや店名どころか、コーラのイラストを判別することも難しい。

 水垢みずあかの染み付いたサッシに貼られているのは、ワドガールのポスター。褪色たいしょくした美女の裏側には、タニアの暴投をガムテープで補修した跡が隠されている。


 世間的には定食屋で通っているが、日用雑貨やタバコの販売も大事な収入源だ。駄菓子も扱っていて、軒先のきさきのフリーザーにはバリバリくんや月見だいふくが詰まっている。

 入口から食堂に続く小道は、のっちゃんイカやらンマーイ棒やらの大博覧会。両親に連れられて始めて遊びに来た時、タニアにはそこが桃源郷とうげんきょうに見えた。

 接客はアルハンブラの仕事。忙しいのは昼時くらいで、一日の大半を空の監視、または通行人の勘定かんじょうに費やしているのが実状だ。

 仕入れや配達で伯父が留守の際には、タニアが店番を任されている。そして勤勉な看板娘がレジに座ると、なぜだかポテチがすぐ品切れになる。


 暇を持て余しているアルハンブラとは対照的に、定食屋のほうは割と忙しい。

 何と言っても、徒歩五分の四丁目に万年火の車な町工場が集まっているのは大きい。開店以来かたくなに値上げをしないことも、支持を受ける理由かも知れない。

 テレビが「ええとも!」を熱唱する時間帯には、四つのテーブルもカウンター席も作業服で一杯になる。おかわり自由のご飯は、働き盛りのおっさんたちに大好評だ。


 壁面を埋め尽くす短冊たんざくからも判る通り、メニューの数はファミレスにも劣らない。ミューラー商店が誇る凄腕のシェフは、どんぶりもの、麺類、スパゲティと一通りのオーダーにこたえてしまう。

 ただし、床はワックス掛けの行き届いたタイルではない。打ちっ放しのコンクリだ。天井は油で黄ばみ、〈言灯げんとう〉を吊る鎖は茶色く錆びている。真夏にはハエやカが曲芸飛行していることも珍しくない。

 厨房は細く狭く、小柄なタニアでも身体をはすにしなければ進めない。調味料に手を伸ばす度に肩や膝がシンクに衝突し、フックに掛かったお玉が震える。コンロにエルボーを食らわせた時には、頭上の収納がアルミホイルやらクッキングペーパーやらの雪崩なだれを起こした。


 窮屈さをものともせずに活躍出来るのは、凄腕のシェフだけ。

 ブヨヨンと揺れる三段腹だけを見て、のろまと決め付けるのは早い。中華鍋を振りつつ、調味料の間を跳ね回る姿は、ダンサーのように軽快だ。「動けるデブ」と言う形容詞は、恐らく彼女のためにある。

 反面、動きやすさのみを追求した服装は、お世辞にも洒落しゃれているとは言いがたい。

 油はねやソースで豹柄っぽくなったTシャツに、緑色のジャージ。ゾウの脚のように太い首には、くたくたのタオルを巻いている。♀らしいところと言えば、フリルの付いたエプロンくらい。よわい五〇を過ぎると、色気と言う単語を健忘けんぼうしてしまうらしい。


「はい、チャーハン上がりさね!」

 威勢よく言い放ち、マーシャ・ミューラーは中華鍋のチャーハンをお玉ですくった。

 きびきびと動く腕が、黄身をまとい、金色こんじきに輝く米粒をカウンターの上まで運ぶ。ハスの描かれたお皿に理想的な半球が乗ると、べとべとの換気扇に吸われるばかりだった湯気が店内を泳ぎ始めた。途端にゴマ油の香ばしさが、ネギの甘い匂いが漂いだし、タニアの口の中を見る見るよだれで満たしていく。

 タニアはつまみ食いの誘惑を押し殺し、カウンターのお皿を引ったくる。えんじ色のテーブルにとんぼ返りすると、貸し切り状態のお客さまが最後の餃子を口に運ぼうとしていた。


 伸び放題の前髪から垣間見える瞳は、一分前に到着したラーメンに狙いを定めている。スプーンを握り締める左手はカツ丼の上空に待機し、しゃくうタイミングをうかがっていた。

 食べることに腐心するあまり、呼吸がおざなりになっているのだろう。

 四回噛むごとに目玉がり出し、顔面が真っ赤に染まる。溺れたように手足がジタバタし、テーブル一杯に置かれた皿を激しく揺する。スカートとは名ばかりのボロきれがはためくと、スリットのように破れた部分から泥塗どろまみれの太ももが覗いた。


 テーブルが料理で埋め尽くされるきっかけは、生姜しょうが焼き定食の残り香だった。

 店内に担ぎ込まれた瞬間、少女は甘辛いタレの臭いを敏感に嗅ぎ取る。刹那、呼吸音さえ漏らさなかった身体が腹を鳴らし、ホラ貝のような重低音が店中に鳴り渡った。

「戦の合図」を耳にしたマーシャは、普段の三倍速で洗い物を片付ける。油を拭き取ったばかりのコンロに火がともると、鉄板に置かれた餃子がニンニク臭い狼煙のろしを上げた。


「そんなに慌てなくても、料理なら売るほどあるのにねえ」

 忙しくフライパンを振りながら、マーシャはテーブルをチラ見している。

 がっつくお客さまを見る目は、らしくもなく曲線的だ。レバーとニラがアチチと跳ね回る音には、時折柔らかな笑みが混じる。

「……お人好ひとよしすぎ」

 タニアは嬉々として厨房を跳ね回るマーシャに、嘆かずにはいられなかった。

 ド田舎な〈ロプノール〉で生まれ育ったせいか、伯父も伯母もとにかく情にほだされやすい。隔月で赤字と黒字を行き来する経営状況を思えば、行き倒れにフルコースをご馳走する余裕などないはずだ。


「おいしいです! オニうまです!」

 歓声で換気扇のうなり声を掻き消し、少女は頬を両手で挟み込む。どうもしっかり押さえていないと、ほっぺたが落ちてしまうらしい。

 先ほどまでひび割れ、青紫だった唇は、瑞々しい桜色に染まっている。きゅーっ! と中央に寄せた目も、しっかりと焦点を取り戻していた。この調子なら、病院に連れて行く必要もないだろう。

 脱水症や熱中症なら、カロリーを摂取しただけで快復するわけがない。しばらくは氷のうを頭に乗せ、横になっていなければならないはずだ。少なくとも油ギッシュな餃子や唐揚げを、次から次へと胃に送り込んでいく気力はない。どうやら先程まで少女を横たわらせていたのは、限界を超えた空腹だったようだ。


「そうかい! お口に合って何よりさね!」

 大満足の少女を目にしたマーシャは、豪快に顎を沈める。アンパンそっくりの丸顔がほころぶと、レバーとニラの放物線が天井スレスレまで飛び跳ねた。貰えそうで貰えないストレートな賞賛が、フライパンを振る手に力を込めさせたらしい。

「アンタ、ずっと飲まず食わずだったのかい?」

「いえ、食べてました。道端の草とかセミさんの死骸を」

 少女はさりげなく衝撃発言をかまし、寿司をつまむようにした手を顔の前に運ぶ。おしゃぶりをしゃぶるようにパクパクした口が、不必要に生々しい。


「せ、節足せっそく動物どうぶつの死骸を……」

 針金のような六本脚が、半透明のはねが脳裏に浮かび、タニアの顔を引きつらせていく。うげぇ……と舌が口の外に飛び出し、ラーメンを盛り付ける合間に失敬したチャーシューが胃から喉に舞い戻る。まさかドスカバリーチャンネル以外で、これほどのサバイバルゲームをお見舞いされようとは……。

 タニアは厨房のポテトに忍び寄らせていた手を、慌ててお冷やに走らせる。レモンの香りがする氷水を流し込むと、大放出寸前だった脂身が喉の奥に流れ落ちた。


「育ち盛りの女の子が……ダメだよ。だからそんなに細っこいんだ。ほら、お食べ! もっとお食べ! 身体に肉を付けるんだよ!」

 今にも泣き出しそうな顔で命じると、マーシャはレバニラ炒めをカウンターに置いた。早く食べろとかしているのか、マーシャは皿の上を突っ張り、突っ張り、ニラの香りを食堂中に広げていく。


「水は? まさか水も持たずに砂漠を抜けようとしたのかい?」

 尋ねられた少女は誤魔化し笑いを浮かべ、恥ずかしそうに膝を擦り合わせる。

「えと、一応、水筒は一杯にしてきたんです。してきたんですけど、すっごく暑くて……」

「後先考えずに飲み干しちゃったんだ。バッカみたい」

 つっけんどんに言い放ち、タニアはレバニラ炒めの皿をテーブルに放り投げる。けたたましい音に驚いたのか、タニアの態度に威圧されたのか、少女はビクッと肩を震わせ、心なし壁際に身を寄せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る